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【非売品】 マスクド・スーパースター 本人使用

2017年01月07日 19時08分48秒 | マスクコレクション

当時物 マスクド・スーパースター 本人使用済みです。
1980年代全盛期に使用され、近年アメリカのイベント(画像で着用しているマスクそのものです。)でも本人使用された物です。

明確な使用日時場所等は不明です。
証明書、直筆サイン入り。

ビル・イーディーBill Eadie1947年12月27日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーペンシルベニア州ブラウンズビル出身。

現役選手時代はボロ・モンゴルBolo Mongol)、マスクド・スーパースターThe Masked Superstar)、デモリッション・アックスDemolition Ax)などのリングネームで活躍した。

来歴[編集]

ウェストバージニア州立大学卒業後は高校の教師をしていたが、友人とプロレス観戦に行った際ニュートン・タットリー(ジート・モンゴル)にスカウトされ、彼のトレーニングを受け1973年五大湖地区でデビュー。当初は教職を続けながら時折リングに上がるという状態だったが、やがてプロレスに専念し、タットリーのパートナーとしてモンゴル人ギミックボロ・モンゴルを名乗り、タッグチーム「ザ・モンゴルズ」で活躍。このキャラクターで1974年4月に新日本プロレスへ初来日している。1976年7月には新日本版アジアヘビー級王座およびアジアタッグ王座の王座決定リーグ戦にもボロ・モンゴルとして出場した。

その後、ジム・クロケット・ジュニアの主宰するノースカロライナNWAミッドアトランティック地区覆面レスラーの "流星仮面" マスクド・スーパースターに変身。グレート・マレンコマネージャーに付けて頭角を現す。1977年3月には新日本の第4回ワールドリーグ戦に来日、坂口征二に敗れたものの優勝戦に進出するなどの活躍を見せた。なお、同リーグ戦にはジート・モンゴルの初代パートナーだったベポ・モンゴルことニコリ・ボルコフも参加しており、両者は公式戦で対戦している。大型外国人対決としても注目されたが、当時はすでにイーディーの方が格上であり、フォール勝ちを収めている。

以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、1978年3月の来日時はマネージャーのマレンコを帯同し、3月30日に蔵前国技館アントニオ猪木NWFヘビー級王座に挑戦。1979年9月6日には福岡スポーツセンターにて、坂口征二の北米ヘビー級王座にも挑んだ。1981年8月6日、蔵前国技館での猪木との「賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ」に敗れて覆面を剥がされたため、同年10月には素顔でビリー・クラッシャーと名乗って来日していたが、ほとぼりが冷めるとマスクド・スーパースターに戻った(以後、1984年8月の新日本のパキスタン遠征にもビリー・クラッシャー名義で参加しているが、1981年8月の猪木との覆面剥ぎマッチでは、覆面を剥がされた直後にタオルで顔を隠して逃走するなど素顔を完全に晒していなかったこともあり、ビリー・クラッシャーとマスクド・スーパースターが同一人物であることは公表されなかった)。1982年9月21日には大阪府立体育館にて、藤波辰巳が獲得したWWFインターナショナル・ヘビー級王座の初防衛戦の挑戦者を務めた。

IWGPリーグ戦には1984年から1986年まで3年連続で参加。年末のタッグリーグ戦でもディック・マードックとのコンビで上位に食い込む活躍を残している。また、1985年8月にはスーパー・マシーンとしてマシーン軍団に加入し、アンドレ・ザ・ジャイアントのジャイアント・マシーンとコンビを結成した。スーパー・マシーンは覆面レスラー史上にも稀な「正体も覆面レスラーの覆面レスラー」ということになる。

マスクド・スーパースターに変身後のアメリカマットでは、トップクラスのヒールとして主にNWA南部テリトリーを中心に活躍。ミッドアトランティックではマイティ・イゴールワフー・マクダニエルブラックジャック・マリガンと抗争を繰り広げ、1980年4月にはトーナメント決勝でマリガンを破り、空位となっていたTV王座を獲得[13]ビッグ・ジョン・スタッドをマスクド・スーパースター2号に変身させ、マリガン&アンドレ・ザ・ジャイアントとの大型タッグ対決も行われた。同年下期からは一時的にベビーフェイスに転向し、リッキー・スティムボートともタッグを組んだこともある。フェイスターン中はポール・ジョーンズをパートナーに、レイ・スティーブンス&ジミー・スヌーカ、レイ・スティーブンス&イワン・コロフミネソタ・レッキング・クルージン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンなどのチームとミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を争った。

他地区では、1980年にテネシー州メンフィスCWAに出場、4月28日のミッドサウス・コロシアムでのメインイベントでは、前王者ジェリー・ローラーの返上で空位となっていたCWA世界ヘビー級王座をビル・ロビンソンと争った。1981年にはフリッツ・フォン・エリックが主宰するテキサス州ダラスのWCCWにて、ケン・パテラを破りNWAアメリカン・ヘビー級王座(後のWCWA世界ヘビー級王座)を獲得したとされている。

近年のホームタウンでもあるジョージアGCWジム・バーネット主宰)では1970年代末から1980年代初頭にかけて、トミー・リッチとの遺恨マッチやミスター・レスリング2号との覆面レスラー同士の抗争を展開したほか、スタン・ハンセンとも何度となく対戦している。ハンセンとはタッグを組んだこともあるが、日本において両者の対戦やタッグチームが実現することはなかった。1981年8月15日にはスティーブ・オルソノスキーを破り、前年10月に新設されたNWAナショナル・ヘビー級王座を獲得、翌月の9月12日にはトミー・リッチからNWAジョージア・ヘビー級王座を奪取し、ナショナル王座と統一させている。戴冠中の同月22日には、リック・フレアーNWA世界ヘビー級王座に挑戦。翌1982年もトミー・リッチやポール・オーンドーフを相手にナショナル王座を争い、GCWのフラッグシップ・タイトルとなった同王座を通算3回獲得した。

1983年下期、グラン・ウィザードをマネージャーに迎えてWWFに登場。ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデン定期戦において、10月17日と11月21日の2カ月連続で当時のWWF王者ボブ・バックランドに挑戦、初戦ではリングアウト勝ちを収めている。翌1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制のもとでスタートした全米侵攻にも主力ヒールとして参加し、同年2月10日にはNWAの本拠地であったセントルイスキール・オーディトリアムにて、新WWF王者ハルク・ホーガンの初防衛戦の相手を務めた(この試合は、WWFの全米侵攻第1弾のメインイベントでもあった)。

WWF離脱後は一時ジョージアに戻り、キングコング・バンディと組んで1984年5月6日にロード・ウォリアーズからNWAナショナル・タッグ王座を奪取。同年下期にはスチュ・ハートの運営するカナダカルガリー地区のスタンピード・レスリングにおいて、ニック・ボックウィンクルを破ったとして、同地区で新設されたIWA世界ヘビー級王座のチャンピオンに認定されている。その後はAWAに進出し、ミスター・サイトーの用心棒的なヒールとして、WWFでも因縁のあったサージェント・スロータージェリー・ブラックウェルと抗争した。

1986年の上期はビル・ワットの主宰する中南部のMSWAに出場、新日本プロレスでのパートナーだったディック・マードックとコンビを組み、テッド・デビアススティーブ・ウィリアムスジム・ドゥガンらと対戦した(MSWAでは、ジン・キニスキーの息子ケリー・キニスキーがマスクド・スーパースター2号に変身していた)。同年はフロリダ地区にも参戦し、7月22日にレックス・ルガーからNWA南部ヘビー級王座を奪取している。以降は親友でもあるディノ・ブラボーの招きにより、カナダのモントリオール地区で活動した。

マスクド・スーパースター名義としては1976年から約10年間に渡って活躍した。覆面レスラーのギミックは短命に終わる場合の多い米マット界においては異例のキャラクター寿命を誇り、日本マットに定着したザ・デストロイヤーを除くと、ミスター・レスリング、ミスター・レスリング2号、ザ・スポイラー(スーパー・デストロイヤー)らと並ぶ、アメリカのマスクマンの代表格だった。

1986年の後半からは前述のマシーン軍団の一員、スーパー・マシーンとしてWWFと再契約。NWA時代のライバルでもあったブラックジャック・マリガン=ビッグ・マシーンも加わり、日本からやって来たベビーフェイスのマスクマン軍団として売り出される。1987年からは再びヒールターンし、覆面を脱ぎ顔面にペイントを施すなど大胆なギミック・チェンジを行い、デモリッション・アックスを名乗って大型タッグチーム「デモリッション」を結成(マネージャーはミスター・フジ)。相棒のデモリッション・スマッシュ(正体はクラッシャー・クルスチェフやリポマンとしても知られるバリー・ダーソウ)と共にWWF世界タッグ王座を再三獲得した[34]1990年4月13日に東京ドームで行われた日米レスリングサミットでは、ジャイアント馬場&アンドレ・ザ・ジャイアントの大巨人コンビと対戦している。

1990年下期より体調不良のため試合出場を控えるようになり、デモリッションにはクラッシュ(ブライアン・アダムス)が新しく加入。アックスはスマッシュとクラッシュをコントロールするプレイング・マネージャーとなり、同時期にWWFに移籍してきたリージョン・オブ・ドゥームと抗争を繰り広げた。

WWFを離れてからもデモリッション時代と同じコスチュームとリングネームで活動し、マスクド・スーパースター時代の主戦場だった新日本プロレスにも度々参戦したが、キャラクターの使用権を巡ってビンス・マクマホンとの間で軋轢が生じ、その後はWWEとは絶縁状態である。

近年はジョージア州の青少年更生施設でカウンセラーとして勤務する傍ら、各地のインディー団体にレジェンドとして単発的に出場しており、2007年にはバリー・ダーソウとのコンビも復活させている。2008年2月29日、ペンシルベニア州フィラデルフィアチカラで行われた6人タッグマッチのトーナメントにはダーソウ&ワンマン・ギャングと "Team WWF" を結成して出場した。

2009年7月、久々の来日が実現。7月4日に新木場1stRINGにて『流星仮面FIESTA』と題された記念大会が覆面MANIAの後援で開催され、7月5日には新日本プロレスの後楽園ホール大会に登場して挨拶を行った。

2011年7月には、少年犯罪者更生に向けてのチャリティー活動の一環として、東京と大阪での引退ツアーが開催された。大阪プロレスの主催による7月15日の『流星仮面Osaka FINAL』では6人タッグマッチで藤波辰爾と対戦[38]。7月17日に新木場1stRINGで行われた『流星仮面FIESTA・FINAL』では、メインイベントの引退試合に初代タイガーマスクとのタッグチームで出場、藤原喜明&ブラック・タイガーVから勝利を収めた。

 Wikipediaより





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