ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



疑問というのは、大事なことじゃないの。科学的な態度は、疑問を持つことに基本があるんだし。だから、神や仏を信じるなんて、そう簡単にできるはずないじゃないの。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(上)』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 疑問というものは、現代では非常によいことのように言われていることも多いのです。科学的探究の態度、あるいはジャーナリスティックな態度で、どんどん疑問を解明していくのは素晴らしいことだという捉え方をされていることが多いです。しかも、近代以降の哲学は、そうした疑問の追究・探究ということ、分析的にものを見るということを非常に重視しているので、それが合理化される傾向があります。
 ただ、ここに、信仰の世界に対しては非常に大きな危険が潜んでいると言ってもよいでしょう。宗教というのは、結局、最後は「信」なのです。信仰なのです。信仰というのは目に見えないものを信ずるということなのです。心というものは見えるものではありません。神も仏も本当は見えるものではありません。大宇宙の光も見えるものではありません。愛も見えるものではありません。慈悲も見えるものではありません。すべて見えない世界のものなのです。それを信ずるというところに人間の尊さが生まれてくるのです。動物と違ったところとして、そういう尊さが、この信仰ということを通して出てくるのです。
 ですから、学習態度、研究態度のなかに、追究するというところがあること自体は悪いことではないのですが、これが「疑」、疑いというものになって常に出てくると、このいちばん大事な宝物、あるいはいちばん大切な果実を手にすることができなくなる惧れがあるのです。(中略)
 ですから、疑問探究の姿勢も大事なのですが、いちばん大切なものを損なうようなかたちですべきではないし、常に疑いの心でいっぱいの場合、人は平静心あるいは平常心というものは持てないのです。心が平らかになりません。また、人に対する疑いでもそうです。他の人に対しても、いつもいつも疑っていたらきりがありません。もちろん人間は、すべてが自分の思うようにはいきませんし、裏切られることもあります。しかし、「そういうこともあるな」ということを心の一部には持っていながら、大きなところでは信ずる心が大事ではないかと思うのです。
(96~99ページ)

「疑問」を探究の姿勢を持つことは大事ではあっても、それが単なる「疑い」の心になってしまわないようにすること。

信仰者にとってもっとも大切な「平静心」を損なうような形で、常に「疑い」に満ちている心になってしまわないこと──。

幸福の科学って、これを拝めばいいんですと決めつけるような、現代人にとって受け入れがたいレベルの宗教じゃないですよね。

疑問を徹底的に追求するタイプの現代人に対しても、大宇宙や人生の森羅万象について、実はこれが真相だと、明快に解答を示される宗教ではあります(だからこそ仏陀再誕を信じれるわけです)。

でも、宗教である以上、やはり最後の最後は、目に見えないものを信じることだ、「信」なのだ、ということであると私は思うのです。
 

『悟りの挑戦(上)』

 大川隆法著

 

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