「与える愛」が大切って、話としては分かるんだけど、でも、愛されたいって普通のことだし、なんで、愛されることを求めるだけじゃいけないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?
幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。
田んぼのなかに入ると、ぬめぬめした蛭(ひる)がいて、すねなどから血を吸っていきます。非常にいやな感じがしますけれども、それは、生産的な仕事を何もせずに、いきなり人の血を吸いに来るからです。人に痛みを与えて自分は肥え太るというのが、まことに気にいらないところです。
同様に、蚊がいやがられるのは、やはり人の血を抜いていくからです。目につかないうちにスッと抜いて逃げようとするのを見ると、いやだなと思うでしょう。
ところが、蛭や蚊のような人間、他の人が一生懸命に努力してつくり出したものをスッと抜いていくだけで、自分自身は何も生み出さない人間がたくさんいるのです。
「なぜ他の人から愛を与えられないのか」「なぜ称賛を受けられないのか」「なぜほめてもらえないのか」「どうしてこんな結果しか出ないのか」など、与えられないことばかりを考えている人は、蛭や蚊のような存在であり、きらわれて当然です。したがって、それに対して愚痴をこぼすというのは、まことに間違ったことなのです。
蚊をたくさん集めて、「どうぞ血を吸ってください」と言うような人はめったにいないでしょうから、蚊のような人は当然きらわれますが、この「きらわれる」ということが、もう少し柔らかいかたちで出てくると、「自分の願いどおりに与えられない」ということになるのです。
こうしたことは、もちろん男女の関係においてもあるでしょう。青春期といえば、いちばん異性の愛が欲しいころだと思います。そのころに愛を与えられないと、非常に悩むわけですが、その実、自分が相手に何かをしてあげようと考えたことが、どれだけあったでしょうか。
たまに何かをしてあげたことがあっても、そのときには必ず見返りを求めていたのではないでしょうか。「こういうことをしてあげたのだから、同じだけのものが返ってきて当然なのに、返ってこない。これはおかしい」という思いばかりだったと思います。
このように、「与える愛」と思っていても、実際はお返しをもらうつもりの人がいるのです。その場合には、お返しがなければ愛が即座に苦しみに変わります。なぜなら、それはほんとうの愛ではないからです。お返しをもらうことを考えている愛は本物ではないのです。
(26~28ページ)
愛を与えるのではなく、求めてばかりいると、人に嫌われたり、そこまで行かなくとも、自分の願いどおりには与えられないことになる。
そのメカニズムって、こういうことだったんだと、改めてよく分かったと私は思うのです。
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『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』
大川隆法著 |
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