ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



愛読書って、一度もったら、ずーっと一生つきあっていくのが当然でしょ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『知的青春のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 学生時代に愛読書をつくれたら、それは大したものです。
 人は、愛読書を持ちたがるものですが、愛読書と自分とが、ずっと“競争”していくんですよ。その愛読書なる本が、どこまで自分についてくるかという問題があるんです。
 最初に読んだときに、ものすごく感激した本、例えば、中学時代に読んで感激した本、高校時代に読んで感激した本、大学時代に読んで感激した本などがあるでしょうが、そういう本について、社会人になって一年目ぐらいまでは、まだ「いい」と思うけれども、五年目ぐらいになってくると、「ちょっとどうかな」という感じがしてくることがあります。そういうふうに変わってくるんですよ。
 それはなぜかというと、実は、著者がその本を書いたときの年齢と社会的経験が関係するからなんです。著者が経験していないことや、著者の年齢ではちょっと経験不能なことについて、自分が直面し、経験する年代になると、それまで愛読書だったものが落ちこぼれていくんですよ。
 私の場合、小学校高学年のときには、下村湖人の『次郎物語』を読んで、「すごくいい本だ」と思いましたし、中学校に入ったら、井上靖の『あすなろ物語』やアンドレ・ジイドの『狭き門』を読んで、すごくいいと思いました。
 『狭き門』の文庫本の扉には、「力を尽くして狭き門より入れ」という『聖書』の言葉があり、本文中にも、「滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おおし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見いだす者すくなし」という言葉が書いてあります。
 私はその言葉がとても好きで、高校から大学に入るころまでに、五、六回は読みました。一、二年置きに繰り返し読んでいて、大学に入ったころまではもったのですが、その後、私の教養がだいぶ増えてくると、著者であるジイドの限界が見えてき始めたんです。
 この作品は、宗教の入り口のところを描いたものではあるのですが、作者の人生観や人生経験の限界のようなものが見えてくるんですよ。それと、その禁欲主義のなかにある「転落の傾向性」のようなものが見えてくるんですね。
(94~96ページ)

学生時代に愛読書をつくれたら、大したものである。

愛読書と自分とが、ずっと“競争”していき、その愛読書なる本が、どこまで自分についてくるかという問題がある。

著者が経験していないことや経験不能なことについて、自分が直面し経験する年代になると、それまで愛読書だったものが落ちこぼれていく──。

なるほど、なるほど、です。

いくつになっても、何度読んでも、読み返しても、いつも学びになるしまた読みたくなる、そんな愛読書に、学生時代に出会うことのむずかしさ。

ここで大川隆法先生が説かれるような、愛読書が“落ちこぼれて”いく残念な体験は、たしかに自分も幾度も重ねてきた気がします。

そして、大川隆法先生の著される仏法真理の書物は、なかなか“落ちこぼれて”いっていないことにもまた、気がついたりもします。

つまりは、そんなプロセスを経て選別し抜かれた、自分にとって真なる価値を持つ書物が、私たちの人生とともに生き続けていく。それが「愛読書」という言葉の本当の意味ではないかと腑に落ちた気が私はするのです。
 

『知的青春のすすめ』大川隆法著


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