奥州街道を歩く( 18-2:白沢:勝山城 (下野国) 栃木県河内郡 2017.10.17
2019-02-04 10:47:40
(写真は、勝山城の空堀)
前回お話ししました様に、白沢宿から氏家宿へ向かう途中、
勝山城に立ち寄りました。
前回のブログが長くなり過ぎない様に、今回は、勝山城見学の
部分だけを切り離してブログにしました。
勝山城は、鬼怒川の左岸の段丘の最北端に位置する、南北
420メートル・東西370メートルの中世の平山城です。
鎌倉時代末期に、氏家氏により築城され(別名:氏家城)、
その後、宇都宮氏の一族の芳賀氏によって強固な城構えが
完成しました。
宇都宮氏一族の北方防衛の拠点の位置づけの城でしたが、
その後、1597年、宇都宮氏が秀吉により改易され、
廃城となりました。
現在は、「勝山城跡公園」として整備されています。
入口の案内板に従い、進んで行くと、上の写真の宝篋印塔が
ありました。
入口の先には、大手口(東側の入口)の木橋が見えます。
上の2枚の写真は、大手口の木橋の上から見た空堀と
櫓台(やぐらだい)跡です。
高い土塁と空堀が巡らされた次頁の写真の「本丸」は、
東西80メートル、南北70メートルの方形で、土塁の
堀底からの高さは7~8メートルもあります。
空堀に架かる大手口の木橋を渡って進むと「本丸」跡があり
ました。
本丸の南西側には、上の写真の「搦手(からめて)の虎口」跡
があり、かっては土橋が架かっていました。
勝山城は、本丸の東に「二の丸」、南に「三の丸」があり、
二の丸と三の丸が、本丸をL字型に囲んでいます。
(二の丸跡)
(本丸北の空堀)
勝山城は、鬼怒川に面した段丘の西端に築かれているので、
眼下には鬼怒川の清流が望め、遠くには日光連山などを
一望することが出来ます。
秋晴れの下、素晴らしい景色に足の痛みも忘れます。
その鬼怒川の清流を望む場所に、次頁の写真の「釜ヶ淵
雪姫・紅葉姫の伝説」の説明の石碑がありました。
石碑によると、その伝説は以下の通りです。
ずっと昔、勝山城には、「紅葉姫と雪姫」という美しい姉妹
の姫が居ました。
(紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真から)
当時、勝山城を巡る戦いがあり、この戦いで両親を殺された
「紅葉姫と雪姫」は、敵に追い詰められ、勝山城の切り
立った崖の下にある「釜ヶ淵」(かまがふち)に身を投げ
ました。
時は経ち江戸時代、勝山城跡の近くに住む「源じい」という
百姓は、網打ちが好きで、よく川に行っては、一日中網打ち
をしておりました。
ある夏の夕暮れ、源じいが、勝山城跡の切り立った崖の下に
ある「釜ヶ淵」(上の写真の中央左側に小さく写る池の
辺り)で、網打ちをしていると、舟の周りに、美しく
鮮やかな緋鯉と雪のように真っ白な鯉が現れました。
真っ白な鯉は、源じいが投げた網にかかると、淵の底に
引きずり込む様な凄い勢いで網を引っ張りました。
源じいは、やっとの思いで、真っ白な鯉を船に引き上げ、
家路につこうと舟を漕ぎ始めました。
すると、どこからともなく「雪姫、雪姫」と呼ぶ若い女の声
が聞こえ、源じいの舟は、あっというまに転覆してしまい
ました。
(紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真から)
船から逃げ出した真っ白な鯉は、鮮やかな緋鯉と寄り添う
ように「釜ヶ淵」の奥へと姿を消して行きました。
翌朝、源じいが気が付くと、淵よりずっと下流の岸辺に
投げ出されていました。
源じいは夢でも見たのだろうと思いましたが、それっきり
大好きだった網打ちを一切やめてしまいました。
今でも、「釜ヶ淵」では、美しく鮮やかな緋鯉と雪のように
真っ白な鯉が、淵の深くに潜んでいて、時々寄り添って
水面まで上がってきて、仲良く泳ぐそうです。
(紅葉姫と雪姫:インターネットの無料アップロード写真
から)
勝山城の土塁の外側を一周して、上の写真の「北限土塁跡」を
過ぎると、次頁の写真の「民家広場」に出ました。
上の写真は、喜連川宿から移築されたという「旧森家長屋門」
です。
民家広場から、元のの奥州街道に戻りました。
城址公園見学の以降については、前回の「奥州街道を歩く
(18-1:白沢)」の後半をご覧ください。
コメント一覧
ウォーク更家
iina
ウォーク更家
Komoyo Mikomoti
ウォーク更家
hide-san
最新の画像もっと見る
最近の「街道歩き」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事