ウォーク更家の散歩 (東海道を歩く、中山道を歩く)

「東海道五十三次を歩く・完全踏破の一人旅」
(http://www.minedayo.com/)

日光街道を歩く(22-1:日光東照宮:1/3 ) 栃木県日光市

2017-05-27 14:41:17 | Weblog

(写真は、東照宮を戊辰戦争の戦火から守った「板垣退助」の像)

本日は、午前中に、日光街道の最後の宿場である「鉢石(はついし)宿」の見物を既に終え、
午後は、「世界遺産・日光東照宮」を見物してから横浜に帰る予定です。

日光東照宮の見学の前に、”幕末の日光(鉢石宿、杉並木、東照宮)”について説明しておきたいと思います。

鉢石宿の外れの金谷ホテルへの登り口のところに、下の写真の「板垣退助像」があります。

何故、ここに「板垣退助」の像があるの?

板垣退助の像がここに建ったのは、戊辰戦争のときに、新政府軍と旧幕府軍がここで衝突した際の
以下のエピソードによるものです。

「錦の御旗」を掲げて北上を続ける新政府軍に対し、旧幕府軍は「東照大権現の御旗」を掲げて
交戦します。

最も激戦となった宇都宮城の攻防戦で勝利した旧幕府軍は、勢いに乗って、日光を拠点にして
会津藩や仙台藩と連携して、連合戦線を築こうと「日光廟」へ向かいます。

また、宇都宮城の攻防戦で負傷した土方歳三は、「大鳥圭介」率いる旧幕府軍に合流して、
会津藩士らと共に「日光廟」に立て籠もりました。

日光廟に立て籠もった大鳥圭介軍に対し、地元の僧侶は、東照宮を戦火から守って欲しいと、
旧幕府軍と新政府軍の双方を説得します。

この説得を受け入れて、「板垣退助」は、旧幕府軍が会津への撤退を完了するまでの間は、
攻撃を差し控える旨、大鳥圭介に伝えます。

大鳥圭介は、板垣退助との約束を信じ、旧幕府軍は日光廟を抜け出して、会津まで退きました。
こうやって、東照宮は、戊辰戦争の戦火から辛くも逃れることが出来たのでした。


また、この一方で、これに伴う悲劇も起きました。

東照宮の参道を下りた突き当たりの所に、下の写真の「八王子 千人同心」碑が建っています。

碑には、「日光火之番 八王子千人同心 顕彰之燈」と刻まれています。

「八王子 千人同心 」の役目は、東照宮の警備であり、千人同心の頭1名と同心50名で、
半年交代で警備していました。

新政府軍が日光に進軍して来たときの千人同心の頭は、石坂弥次右衛門(やじえもん)でした。

弥次右衛門率いる八王子千人同心は、大鳥圭介率の指示に従い、刀を交えることなく、
日光廟を新政府軍に明け渡しました。

その後、弥次右衛門は、千人同心の仲間達から、戦わずして日光廟を明け渡したと非難されます。

任を解かれた弥次右衛門は、八王子に戻りますが、帰郷した夜に切腹しました・・・

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)
アーネスト サトウ
岩波書店

幕末の英国外交官だったアーネスト・サトウは、親しい間柄だった大隈重信に、戊辰戦争の戦況を聞いた
内容を、「一外交官の見た明治維新」の中で、以下の様に書いています。(岩波文庫:上下各840円)

 13日に日光付近の今市で戦闘があり、官軍はこれに勝って進撃中である。

 大隈重信の藩主である肥前侯は、今市の町のある下野(しもつけ)まで進撃した自藩の部隊から、
藩主自ら攻撃の指揮に当たる様に要請されたが、家老達がその出陣を思い止まらせた。

そして、旧幕府軍が日光廟を抜け出して会津まで退いた後に、大隈重信から聞いた話しとして、以下の様に書いています。

 進撃中の官軍が長岡を占領したあとも戦闘は続いており、両軍の損害は共に多く、新潟は未だ会津藩士の手中にある。

 官軍は、地歩を確保しながら増援を待っているが、増援部隊が到着すれば、白河と秋田から来援する部隊をも加えて、一気に会津の首都・若松まで進撃する予定である。



「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡ると、正面に上の写真の「杉並木寄進碑」があります。

この碑は、大沢宿の手前にあった碑と同様の趣旨の「杉並木寄進碑」です。

日光杉並木は、川越城主の松平正綱・信綱(別名”知恵伊豆”)の親子が、二十数年をかけて
20万本余りを植栽しました。

現在は、日光街道と例幣使街道、会津西街道の計37キロにわたり約12,000本が残され、唯一、
特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けています。

明治5年、アーネスト・サトウは、宇都宮宿で人力車を手配し、杉並木の中を走り抜けて「鉢石宿」に
宿泊しました。

このとき、サトウは、初日に宿泊した脇本陣から、翌日は旅籠へ、その翌日は他の旅籠へと
たらい回しにされます。

徳川幕府の聖地だった日光の人々は、明治初期には、未だ外国人の宿泊を忌み嫌っていたらしいです。

江戸時代には、日光山の門前町として大いに栄えた「鉢石宿」も、サトウ一行が訪れたこの頃には、
幕府の庇護もなくなり寂れかけていました。

明治政府は、財源確保のために、日光杉並木の大量伐採を計画していました。

アーネスト・サトウは、英国大使を動かして、杉並木の文化価値を明治政府に強く進言、伐採を
思い止まらせました。



「板垣退助像」の先の「日光橋」を渡り、石段を登ると、もう「日光東照宮」です。
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6 コメント

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明治維新 (hide-san)
2017-05-28 13:12:38
武士階級の平等化が維新で出来たのでしょうか。

農民の間では太平洋戦争終結で小作人制度が無くなるまで、
農民たちは大変だったでしょうね。
板垣退助の活動も大きな役割をしたのでしょうか。
維新と板垣退助 (更家)
2017-05-28 13:34:28
自由民権運動の板垣退助については、岐阜で暴漢に襲われたときに「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ事くらいしか知りませんでしたが、戊辰戦争では中心人物だったみたいです。

ええ、明治維新で、武士階級は実力主義・平等化になっても、農民の生活は、太平洋戦争終結で小作人制度が無くなるまで変わらなかったのでしょうね。




日光東照宮 (iina)
2017-05-29 11:16:07
東照宮を板垣退助が、幕府軍と戦うのを避け戦火から護ったことになりました。
それが世界遺産になったのですから、功績は大きいですね。

つい先日は日光金谷ホテルに、天皇陛下が泊まられる予定だったそうですょ。残念ながら、お風邪でキャンセルになりました。


iinaが若いころはキンキラキンの東照宮は好もしからずと思われ、古都の京や奈良が好いなどという風潮だったように思いますが、
いまや天下の世界遺産です。 時代とともに価値観もかわります。

日光東照宮と板垣退助 (更家)
2017-05-29 15:54:51
そう、板垣退助が幕府軍と戦うのを避けて戦火から護ったから世界遺産になった訳ですから、日光東照宮の入口に大きな銅像があるのも頷けます。

そうでしたか、先日、急遽、陛下の御泊りが中止になったのは、ここの金谷ホテルでしたか。

私も若いころは、キンキラキンの東照宮は好きではありませんでしたよ。
こんばんは。 (Komoyo Mikomoti)
2017-06-03 00:16:40
板垣退助が日光ではたした役割は、まったく知りませんでした。
もしも日光が戦場になっていたら、取り返しのつかない損失だったですね。

杉並木保存に、パークスやサトウが尽力したという話は、私も読みましたが、こういう人たちのお蔭で、今の日光があるのですね。
板垣退助とサトウ (更家)
2017-06-03 05:09:11
私も、板垣退助が日光で果たした役割は全く知らず、この銅像の説明板で知りました。

アーネスト・サトウが杉並木保存に尽力とは!、彼の日本の国際化・近代化への貢献度の大きさ、深さを実感しているこの頃です。

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