(写真は「塗師屋」)
越谷宿の端の元荒川の辺りには、蔵が家の横にある立派な
うだつの付いた上の写真の「塗師屋」(ぬしや)の建物が
残っています。
しかし、越谷宿は、明治の大火で町のほとんどを焼失して
しまったため、残念ながら、昔の面影は全く残っていません。
「塗師屋」(小泉右衛門宅)は、江戸時代の”太物屋”
(ふとものや:綿織物や麻織物を扱う呉服屋)で、先祖は
漆(うるし)も扱っていたそうです。
現在の当主も、江戸時代と同じ名前の小泉右衛門さん
だそうです。
また、塗師屋の隣の同じ様な造りの「鍛冶忠」(現在は会田
荒物店:下の写真)も残っており、この辺りだけが越谷宿の
雰囲気を残しています。
この先の元荒川の先に架かる大橋で、あっけなく越谷宿は
終わりです・・・
旧日光街道から少し外れて、この元荒川橋の手前の細い道を、
元荒川沿いに歩いて行きます。
その何もなさそうな小道の右手に、写真の「越ケ谷御殿跡」の
碑がありました。
ここは、徳川家康が、越ヶ谷宿に御茶屋御殿を造り、 鷹狩の
拠点としていた所だそうです。
明暦の大火(1657年)で江戸城が被災した際に、ここに
あった屋敷を江戸に運んで、江戸城の再建のために使用
されそうです。
えぇっ~、ここから江戸まで屋敷を運んだの?、驚き!
その後、家康と秀忠が別荘を建てて「御殿」としたそうです。
この御殿跡先に、次頁の写真の「建長元年の板碑」(板石の
塔婆)がありました。
この板碑の先を更に進んで小さな橋を渡ると、「久伊豆(ひさ
いず)神社」の長~い参道がありました。
久伊豆神社は平安末期の創建で、室町時代(1467年)に、
宇佐見氏がこの地を領したときに社殿を再建しました。
江戸時代には、代々の徳川将軍家の保護が厚かったそうです。
また、「足止め」といって、ここの狛犬の足に縄を巻き付け
て、願掛けすると、家出をした家族の者が必ず帰って来ると
信じられていたそうです。
最近では、「久伊豆」が「くいず」と読めることから、クイズ
番組に出場する人が参拝するようになったそうです・・・
久伊豆神社の隣りには、「天嶽寺(てんがくじ)」があり
ました。
家康・秀忠・家光も狩猟のたびに訪れていたそうです。
天嶽寺を出て、元の道に戻り、元荒川に架かる大沢橋を渡り、
旧日光街道を進みます。
やがて、東武線の高架をくぐると、左手が桜堤という名の
元荒川の土手です。
ここから国道4号と合流するまでの約3キロの間、歩道の無い
非常に歩きづらい道が延々と続きます。
東武線の踏切を渡って、東武線「大袋駅」を左手に見ながら、
歩道の無い道をトボトボと歩いて行きます・・・
ようやく国道4号と合流すると、今度は、歩道はあるものの
何も無い単調な直線の道です。
東武線「せんげん台駅」を左手に見ながら更に進みます。
上の写真の「歓喜天(かんきてん)」を左手に見て、新方川に
架かる戸井橋を渡ると、ここから春日部市です。
更に、単調な国道4号を延々と歩いて行くと、備後北の信号の
脇に、下の写真の「備後の一里塚」碑がありあました。
左手に「一ノ割駅」の看板を見て、更に、単調な国道4号の
直線の道を延々と歩いて行き、東武野田線のガードをくぐります。
その先の先の変形十字路は、直進は四号線、左折すると
旧日光街道で、もう粕壁(春日部)宿です。
本日は、取り敢えず、東武伊勢崎線の春日部駅から横浜へ
帰ります。
東武伊勢崎線は、地下鉄半蔵門線を経由して、横浜の中央林間
まで、相互乗り入れ・直通運転しているので、横浜まで
乗り換えなしで帰れます!
しかも、この直通運転は、何と!10分毎に急行があります!
東武伊勢崎線は、ずっと日光街道と並行して走っているので、横浜発で日光街道を歩くのは超便利なのです!
越谷宿から粕壁宿までは、約11キロです。
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