マリインスキー歌劇場: チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

タチヤーナ: エカテリーナ・ゴンチャロワ
エフゲニー・オネーギン: ロマン・ブルデンコ
レンスキー: ディミトリー・コルチャック、他

演出: アレクセイ・ステパニュク
指揮: ワレリー・ゲルギエフ
マリインスキー歌劇場管弦楽団・合唱団
(2016.10.17 東京文化会館)

 現代世界最高の人気を持つ指揮者の一人ゲルギエフのもと、その手兵で現在黄金期にあると思われるマリインスキー歌劇場(ザンクト・ペテルブルグ)の上演するロシア物のオペラを観る、というのは最高の贅沢だ。
公演は期待を上回る素晴らしいもので、ゲルギエフのロマンティックな解釈は、ステパニュクの巧みな演出と相まって、このオペラとプーシキンの原作との間にある大きな溝を埋めることに成功しているように思われた。音楽的にも、映像的にも、忘れることの出来ない見事な公演だった。

歌劇「エフゲニー・オネーギン」は、三大バレエ、三大交響曲と並ぶチャイコフスキーの最高作の一つだ。今回、これがまさにチャイコフスキーの代表作であるとともに、ロシア・オペラを代表する傑作であると確信した。
チャイコフスキーをバレエ作曲家、交響曲作曲家としてしか見ないのは、決して的を得ているとは言えない。チャイコフスキーはバレエを3曲しか作曲していないのに対し、オペラは代表的なものでも9曲も作曲している。確かに、書法自体は後に書かれた「スペードの女王」や「イオランタ」が上かもしれないが、甘酸っぱい青春の香りがして、詩情あふれるこのオペラの魅力は何物にも代えがたく、永遠に愛されるべき作品だ。

全体は3幕からなる。
[第1幕] 田舎地主ラーリン家には、読書に耽り非社交的なタチアーナと、明るく快活なオルガがいる。姉妹はある日、オルガの許婚者レンスキーの訪問を受ける。レンスキーは、ラーリン家の隣人で(といっても林一つ隔てている)、ヨーロッパを転々として浮名を流したオネーギンを連れていた。オネーギンを初めて見たタチアーナはすぐさま恋に落ち、オネーギンに手紙を書き、切々とした恋心を打ち明ける。しかし、それを読んだオネーギンはタチアーナを体よく断わる。
[第2幕]ラーリン家では、タチアーナの命名式の祝賀パーティが開かれている。その席上でオネーギンはレンスキーをからかい、怒ったレンスキーは決闘を申し込む。 決闘が行われ、レンスキーは死ぬ。
[第3幕] 数年後。タチアーナは、都会の貴族でオネーギンの親戚にあたる退役将軍グレーミン公爵に見染められ、今は公爵夫人となっている。親友レンスキーを殺したあと放浪生活を送っているオネーギンは、たまたまパーティーに居合わせ別人のように振る舞うタチアーナを見てわが目を疑う。今度はオネーギンが愛を乞うが、自分はすでに人妻だとするタチアーナは拒絶する。悲嘆にくれるオネーギンが運命を呪うところで幕となる。

オペラ「エフゲニー・オネーギン」は、プーシキンの韻文小説(全編が詩の形で書かれている)「エフゲニー・オネーギン」に基づいて書かれている。オペラの筋書きは、ほぼ原作をなぞっている。しかし、この作品は、核心部分において、原作とは別物と言っていい。原作のタチアーナに関する重要な部分でいくつかの省略を行い、更に終結部分を変えているためだ。(そのためか、チャイコフスキーはこれを「オペラ」とは呼ばずに、プーシキンの小説に基づく「音楽的情景」と呼んだ)
まず第一には、タチアーナがオネーギンの留守邸を訪れる場面を省略した。 これはレンスキーが決闘で死んで、オネーギンが各地を放浪する旅に出ている間のことで、タチアーナは林の中をくぐってオネーギン邸にたどり着き、家人に許しを請うてそこで読書をさせてもらい、オネーギンが愛読していた本を見せてもらうという場面だ。この場面は、短いといえばそれまでだが、ロマンチックだ。
そして終幕では、まずグレーミン公爵がタチアーナとの生活を語るアリアで、これは原作にはなく、チャイコフスキーが挿入した。この中でグレーミン公爵は、タチアーナとの生活に非常に満足していることを語る。
そして、最後の場で、タチアーナの部屋でオネーギンが愛を乞うた時のタチアーナの返答のうち、重要な一部が省略された。つまり、自分は現在の生活に何の価値も見出していないこと、結婚したのは母親から頼まれたからだったこと、過去に戻れるのならいつでも戻りたいと思っていることを告白する部分が省略された。そしてタチアーナは部屋を出ていき、そこに一人オネーギンが残されるところでオペラが終わる。しかしプーシキンの原作では、この直後にグレーミン公爵が現れるところで物語が終わり、この後何が起こったかは読者の想像に任せられたところで小説が閉じられる。
最後の点については、説明がいるだろう。オネーギンはタチアーナの部屋に入って、そこで愛を乞うた。グレーミン公爵がそれを知るとどうなるか。グレーミン公爵は、自分ないし自分の配下の者に命じて、オネーギンを間男として合法的に殺しただろう。 これが小説「エフゲニー・オネーギン」の合理的に推論される結末だ。(プーシキン自身が、妻に言い寄った男性と決闘して死んでいる)
チャイコフスキーの省略・改変の意図は、比較的はっきりしている。チャイコフスキーは、タチアーナの内面には入らなかった。タチアーナという女性は、文明開化に恋い焦がれる女性だ。そのタチアーナが、レンスキーが決闘で死んだ後にオネーギンに対してどう思っていたのか、そしてグレーミン伯爵夫人となってオネーギンと再会したとき、自分の現在の境遇についてどう思っていたのか、これらのことを明らかにしている部分を、チャイコフスキーはおそらくは意図的に避けた。そして最後の、血なまぐさいオネーギンの死を示唆する部分を取り除いた。
これらの改変によって、チャイコフスキーのオペラとプーシキンの小説の間には、非常に大きな溝ができることとなった。 

プーシキンの小説「エフゲニー・オネーギン」は、ロシア韻文文学の最高峰とまで言われ、ロシアの学生はみんないくつかの詩句を覚えさせられるのだという。それは、「エフゲニー・オネーギン」が、文明開化期の西欧とは遠いモスクワ辺境のインテリゲンチャが、何をどう考え、それがどのような悲喜劇をもたらしたかを、その衝撃的な結末とともに生き生きと伝えているからだ。
私はこのオペラを鑑賞するに際して、プーシキンの小説を読んでみた。そしてまさにチャイコフスキーが省略した場面と台詞に、タチアーナの心の中を見る思いがして感動した。
タチアーナという女性は、田舎の娘であり、西欧文化に憧れて本ばかり読んでいるが、人よりきれいなわけでもない、ごく普通の女性だ。それは母親が涙ながらに、「幸薄いターニャ(タチアーナ)にとっては、どんなくじでも同じです」と言って嫌がるタチアーナにお見合いをさせたということによく表れている。それがちょっとした縁で都会の将軍に見染められた。ではそれで人が変わってしまったのかというと、答えは否だ。タチアーナは、目の前にある華やかな世界で自分を見失ってしまうような女性ではない。タチアーナはオネーギンを愛していたし、何があってもそのことには変わりはなかった。しかし人妻であるタチアーナは、自分の知っている旧世界の道徳から貞節を守り、オネーギンを拒否した。タチアーナが守ったのは、自分の生活ではない。自分の道徳だ。
レンスキーがオネーギンによって殺されることは、旧世界が文明開花に敗れることを象徴しているように思える。そしてタチアーナがオネーギンを拒否することは、文明開化の中にあっても、旧世界の精神が守られていることを象徴しているように思われる。 だからこそ、タチアーナの貞節をドストエフスキーが絶賛したのであり、多くのロシア人がタチアーナという女性の行動を喧々諤々に議論し、尊敬もしてきたのだ。

今回のステパニュクの演出は、オペラの台本を一言も変えずに、プーシキンの世界を実現している点で、見事の一言に尽きる。
まず3幕の華やかな舞踏会。タチアーナは、見違えるほどに華やかな姿のはずが、帽子こそ深紅だが服は黒。最初私は、タチアーナがどこにいるのか分からなかった。
そして最後のオネーギンとの場。この場を通じて、黒い中幕が落とされて、その前で二人が対話を行う。大道具も小道具もなしだ。私は、「この公演はこのまま終わるのだろうか」と心配になった。タチアーナの服は普通の白で、二人が終始向き合って対等に歌う様子に、タチアーナの田舎娘のままの姿が描き出されているように感じた。
オペラは、当然のそのまま終わらなかった。 タチアーナが出て行ってから、中幕が上げられた。舞台に現れたのは深い霧に覆われた広い空間だ。オネーギンは奥に向かって歩き出し、そして倒れて、幕となった。
この演出が描き出している世界は、タチアーナが華やかな社交界の中で、内面的には何も変わっていないこと、そしてタチアーナが部屋を出て行った瞬間に、オネーギンは何かの非常に強い力によって現世を離れて来世に入り込んだのだ、というものだ。

ゲルギエフの指揮は、ロマンティックだった。弦楽器の音が柔らかく重ねられる様に、私は相思相愛の恋愛オペラを見ているような気がした。特にタチアーナのパートにそういうものを感じた。
私の手元には、同じ指揮者がメトロポリタンを指揮し、ネトレプコがタチアーナを歌ったBDがある。同じ指揮者の演奏でありながら、演出は対極にある。3幕の舞踏会でタチアーナは真っ赤な服で、まるでオネーギンを見下しているようだ。オネーギンとの別れは、まるで、「私はもう、今のあなたとは別の世界に入ってしまった人間なの」と言わんばかりだ。それはそれで、立派な悲劇だろう。しかし私はこの演奏に、何も感じない。ゲルギエフの指揮にも、何も感じない。これは少なくとも、プーシキンの書いた物語ではない。
「エフゲニー・オネーギン」というオペラは、プーシキンの原作のほうが有名なロシアで演奏されるのと、このオペラしか知らない人が多いロシア国外で演奏されるのとでは、しばしばアプローチが違うのだという。私は、今回の公演のほうが、はるかに素晴らしいと思った。

マリインスキーは最近拡張されて、歌劇場2つとコンサートホール1つになった。ゲルギエフは音楽だけでなく、政治力も相当な人のようだ。プーチンに近いとも噂される。
私はここの公演を見るのは3回目で、過去にやはりゲルギエフの指揮でワーグナーの「ジークフリート」と「神々の黄昏」の名演を観ている。それで、ややこじんまりとしているが好演をしたオーケストラがどのように変貌しているのか楽しみだった。結果的には同じだが、やはり非常に満足感の高い演奏だった。
歌手陣は比較的若い人で占められていたが、みな好演。とくにゴンチャロワが瑞々しく、レンスキーのコルチャックも決闘前に人生への名残を歌う有名なアリアをしんみり聴かせた。

ロシア物のオペラをこんなに楽しめるとは思わなかった。今や「エフゲニー・オネーギン」は、私のお気に入りだ。

 

 

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