問題が起きた場合、人は大抵その原因を追求する。むしろ人はその原因、もしくは原因となった事象を引き起こした人物(加害者?)を探す。そしてそいつを叩いておしまいとする。これは「正しい」とみなされる。
一方で、問題が芽を吹くのには背後に何らかの土壌があることが多いが、その土壌に目を向けると言うことはあまりないし、その土壌汚染自体を指摘することが「正しい」と明確に認識されることも少ない。直接的解決手段と比較して1段は余分なジャンプが挟まっているので、人はその行為を「もっとも正しい」とみなさない。先に原因を叩け、それが先だと叫ぶ。そして先の次はない
(つまり、原因叩きのあとに土壌改善に向かわない)。
私は原因を追求して叩く行為そのものにあまり良い感情を抱かないようだ。叩く必要は感じるが、その必要性を最初に説く人間にうさん臭さを感じる体質になっているらしい。簡単に言えば「悪いから悪いんだ、死ね」というロジックに疑念を抱くようになったらしい。
このロジックを展開する人が土壌汚染をひきずっているのを目にすることがある。これは痛い。何故か。原因は常に他人である。だが原因の原因はそいつなのだ。ああおっそろしい。処罰すべき相手を減らすのではなく処罰する人を増やして処罰するのだ。ああおっそろしい。そしてその人はなんと常に「もっとも正しい」。一種のサイバーノーガード戦法と言えそうだ。
一方で、問題が芽を吹くのには背後に何らかの土壌があることが多いが、その土壌に目を向けると言うことはあまりないし、その土壌汚染自体を指摘することが「正しい」と明確に認識されることも少ない。直接的解決手段と比較して1段は余分なジャンプが挟まっているので、人はその行為を「もっとも正しい」とみなさない。先に原因を叩け、それが先だと叫ぶ。そして先の次はない
(つまり、原因叩きのあとに土壌改善に向かわない)。
私は原因を追求して叩く行為そのものにあまり良い感情を抱かないようだ。叩く必要は感じるが、その必要性を最初に説く人間にうさん臭さを感じる体質になっているらしい。簡単に言えば「悪いから悪いんだ、死ね」というロジックに疑念を抱くようになったらしい。
このロジックを展開する人が土壌汚染をひきずっているのを目にすることがある。これは痛い。何故か。原因は常に他人である。だが原因の原因はそいつなのだ。ああおっそろしい。処罰すべき相手を減らすのではなく処罰する人を増やして処罰するのだ。ああおっそろしい。そしてその人はなんと常に「もっとも正しい」。一種のサイバーノーガード戦法と言えそうだ。










