【謎の人物】
「朝日誤報」問題や理研の「iPS細胞臨床試験」のニュースで小保方晴子の影が薄くなった。雑誌メディアに、この事件を理解するのに重要となる、彼女のヒストリーを報道してほしいと思うが、移り気なメディアは他の方向に関心を向けてしまった。
8/13「産経」によると、9/1からサバティカルに入ったはずのハーバード大バカンティ教授がHPで「STAP細胞は簡単にできない」というコメントを発表したという。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/140913/scn14091308470001-n1.htm
<文書はバカンティ氏と、同じ研究チームの小島宏司医師の連名。STAP細胞について「当初は簡単に再現できると信じていたが間違いと分かった」と説明。うまく作製できるかどうかは「個々の研究者のテクニックに負うところが大きい」としている。細胞のエネルギー代謝に関わる分子(ATPのことか?) を溶液に加えると、作製効率が高まるはずだとしている。(共同)>
つまりこれは「小保方の方法ではSTAP細胞はできない」といっているに等しい。11月までの「小保方再現実験」でネガティブ結果が出るのは分かりきっているから、あらかじめ逃げを打った感じがある。このじいさん、なかなかしぶとい。
9/24「産経」とJ-CAST NEWSは<STAP細胞はES細胞かそれに酷似した別の細胞だとする遠藤高帆理研研究員による論文>について報じている。
http://www.j-cast.com/2014/09/24216554.html
これは前から彼がネットで主張していたもので、公開されたSTAP細胞のDNA配列のSNP(1塩基変移)を解析することで割り出した結論である。小保方らがいうSTAP幹細胞は存在せず、実験の途中でES細胞またはそれに酷似したTS細胞の株とすり替わった可能性が高いというものだ。これが故意によるものか、過失によるものかはこの結果だけからは断定できない。いえることは「STAP細胞の再現」はないであろうということだ。
しかしなぜこういうことが起こったのか、なぜこういうことを行ったのかは最大の謎だ。
これについては疑惑がひろく浮上する前のNHK-TV報道と「文藝春秋」9月号の森健「愛された野心家小保方晴子の三つの顔:30年の半生を徹底追求」という、2つの対蹠的レポートに接した。今のところ、彼女のパーソナリティを伺うに一番詳しい情報化と思う。
>2014年01月30日 (木) のNHK報道:
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/180003.html
大学院時代の恩師「根性ありそうだった」
<東京女子医科大学の先端生命医科学研究所で、大学院時代の小保方さんの指導にあたった大和雅之教授は、「小保方さんが研究室に入るとき、大学での専攻とは全く違う再生医療の分野で研究したいということを、力強い口調で話していて、根性がありそうだと感じた」と振り返りました。
研究に対する姿勢については、「他の学生に比べて突出していたのは、人に教えを請う力だと思う。国内外のトップの研究者から研究室の後輩まで、分からないことがあれば、ものおじすることなく質問し、課題の解決につなげていっていた。そうした姿勢が成果につながったのだと思う」と話しました。>
大和は女子医大の岡野光夫教授の下で准教授をしていたので、小保方の実際の指導にあたった。「突出していたのは、人に教えを請う力」、「分からないことがあれば、ものおじすることなく質問」というのは「質問魔」だったことを意味するのであろう。
質問魔は善意に解釈すれば「熱心」ということだが、高校で生物学を履修せず、大学応用化学ではバクテリアの研究しかしていないとすれば、再生医療の基礎的常識が欠けていた、という解釈も成り立つだろう。
研究室の後輩も賛辞
<小保方さんが早稲田大学理工学部の学生だった当時、指導に当たった常田聡教授は「大学入試のとき、すでに『博士課程ではどのようなことをするのか』と教員に質問しているのを見たことがあり、高校生のときから自分の将来をきちんと考えている様子が印象的だった。大学ではバクテリアの研究をしていたが、全く違う分野から再生医療の道に入るような勇気が今回の斬新な成果を生み出した要因の1つではないかと思う。今後も若さとユニークな視点を武器に頑張ってほしい」と話していました。
また、小保方さんの大学の1年後輩で、現在、研究室の助手をしている藤谷拓嗣さんは、 ハーバード大学への留学から戻った小保方さんに土産でもらったノートと論文を入れるためのファイルを今も使い続けているといいます。
藤谷さんは「これでたくさん論文を読んで頑張ってねと言われました。 小保方さんはいつも『研究成果は実験の量に比例する』と言っていて、休みの日でも研究室をのぞくといつも実験していたのを覚えています。 僕たち後輩にも『研究うまくいってる?』などとよく声をかけてくれる優しい先輩でした」と当時の様子を振り返りました。>
出身高校も成果たたえる
<小保方晴子さんが通っていた千葉県習志野市の高校では、学校の掲示板で新聞記事を紹介し、成果をたたえました。
小保方さんは千葉県松戸市の出身で、卒業した習志野市内の高校では、生徒向けの掲示板にSTAP細胞の作製に成功したことを伝える小保方さんの写真入りの新聞記事を貼って「本校の卒業生です」と紹介しています。
山田純夫副校長は「職員室では朝から小保方さんの話題で持ちきりです。後輩である生徒たちも大変喜んでいます。今後も研究を一層発展させてほしい」と話していました。
また、当時、小保方さんのクラス担任で化学を教えていた山崎宣彦教諭は「知らせを聞いた瞬間はとても驚きました。高校時代から優秀で、いろいろなことに積極的に取り組む明るい性格の生徒でした。社会に役立つ研究者になってくれると思います」と話していました。>
もし小保方が高校で生物学を習っていたら、ここは当然、生物学の教師のコメントが必要なところで、「化学を履修→早稲田理工学部応用化学科へAO入試で進学」という進学は化学しか履修していないとしたら頷けるところだ。
常田は「大学ではバクテリアの研究をしていたが、全く違う分野から再生医療の道に入るような勇気が今回の斬新な成果を生み出した要因の1つではないか」とNHKに話しているが、これは「文春」森レポートの以下の行動に対応している。
<常田の指導スタイルは“教えない主義”。自由な空気の中、ラクロス優先の生活を送っていた小保方だったが、研究室仲間は卒業を前にした彼女の行動力に驚かされる。
「常田研は微生物を用いた排水処理の研究をやっていたのですが、小保方は突然、常田先生に『院に行ったら、東京女子医大で再生医療をやりたい』と直談判したのです」
小保方は06年4月、早大院(修士)に籍を置きながら、東京女子医大で大学院生活を送ることになった。
女子医大で小保方の指導にあたったのは、「細胞シート」の発明で有名な教授の岡野光夫(てるお)と、准教授(当時)の大和雅之である。>
誰が小保方を岡野に結びつけたのかはわからないが、ともかく早稲田理工学部4年生の時に、突如「再生医学」に目覚め、院に進むと、半ば強引に女子医大の岡野研究室に潜り込んだことがわかる。しかし理工学部出身の小保方には、再生医学にも基礎研究と応用研究があり、両者の課題へのアプローチはまったく違うものだという認識はなかったと思われる。岡野研の再生医学は応用研究であり、小保方はここで実験の仕方、記録の重要性などについて、必要な教育を受けたとはとても思えない。
早大院在籍のまま女子医に出向して2年後、08年3月に小保方は院の修士課程を修了し、4月博士課程に進んだ。研究場所は依然として女子医大である。08年7月、大和と交流のあったバカンティ研究室の准教授小島宏司が一時帰国し、東京四谷の天ぷら屋で小島を囲む会が開かれた。大和が小島に小保方を紹介すると、小保方はすぐさまハーバードに留学したいと直訴した。そして9月からの短期留学が決まった。(小保方のハーバード・バカンティ研究室への滞在は10年8月までの1年11ヶ月。)
ボストン滞在中の小保方は24歳か25歳。初めて単身留学した日本人は、初期のオイフォリア、中期の幻滅、後期の受容という一連のカルチャーショックを乗り越えなくてはならない。この過程で日本人同士の交流が始まる。留学時代には心細さもあって、互いに心を開くので親友が生まれやすい。これについて森レポートはこう書いている。
<現在、帰国して生命科学の基礎研究に携わる、ある研究者は当時何度か小保方と会っているが、「研究者には見えなかった」と振り返る。
「彼女はよくいる短期留学の学生という印象です。米国で本気で研究の道を歩む人は、匍匐前進をしているような地味で慎重な雰囲気になる。しかし彼女にはそんなガチンコ感がまるでなかった。本気で研究している人なら『いざよいの夕べ勉強会』にも招かれたはずです」
「いざよいの会」とは、07年にボストンに滞在する日本人生命科学者で作られた会合だ。完全な紹介制で、現地で研究活動に勤しむ研究者が毎月一回集まり、ピザをつまみながら個々のテーマについて議論を戦わせる。小保方は(中略)同会には一度も招かれなかった。>
この会にバカンティ研究室の小島が参加していたどうかが書かれていないが、バカンティ研究室はボストンでは異端とみなされていて、相手にされていなかった可能性もある。
ともかく小保方は日本人の生命科学留学生と付き合った形跡もないし、親しい友人もできなかったようだ。
竹岡俊樹氏が『考古学崩壊』(勉誠出版, 2014/9)で、これまで出版された本から「旧石器遺跡捏造」の犯人藤村新一の人物像を要約しているが、これを読むと小保方晴子ときわめてよく似ていることがわかる。
1 表の顔=「藤村の悪口を言う人はいなかった」(「毎日」)。
「藤村氏は、いい人間だった。…だから捏造など想像もできなかった」(朝日・河合信和)
「藤村氏を直接知る人に会うごとに、藤村氏とはどういう人物なのかをきいてみた。その結果まずわかったことは、藤村氏のことを悪くいう人が誰もいなかったということである」(立花隆)
2 考古学の実力=「作文も十分にできない、考古学的な知識も少ない藤村が、一人でボロが出ないような複雑で難しいことを考えられる・やれるはずがない、あんな純朴な人が、悪いことができるはずがないと思った」(元文化庁・岡村道雄)
3 裏の顔=捏造発覚後の態度について、こういう証言がある。
「いくら傍証を突きつけられた形になっても、実物証拠が出るまではシラを切り続ける態度を崩していない」(朝日・河合信和)
2000/11の毎日スクープ前後の藤村の変化について、
「総進不動坂遺跡で藤村が石器を出した(2000/9/5)その晩、筆者宅に藤村から電話があった。筆者は出なかったが家内が家内が出て藤村の話を聞くと、『じゅんちゃん(筆者のこと)に伝えて下さい。……』とのことであった。(筆者のことを藤村が呼ぶときは、常に角張君であった。)」(アルカ・角張淳一)
「(上高森遺跡で石器を埋めている写真を撮影された翌朝11/5の)午前九時過ぎに電話がかかり、…藤村が電話に出た。『みっちゃん(こんな親しげな呼び方は初めてだった)、すまない』と地獄の底からうめくような声でいった」(元文化庁・岡村道雄)という証言がある。
岡村は東北大文学部助手、文化庁主任文化財調査委員などを歴任しているから、藤村は岡村を「先生」とこれまでは呼んでいたはずだ。
角張宅への電話は、総進不動坂遺跡で「毎日」取材班が石器を埋めているところの写真撮影に失敗した後のことで、まだ捏造は発覚していない。岡村への電話は「毎日」スクープ報道が行われた当日のことである。竹岡氏は「いざというときに、『みっちゃん』、『じゅんちゃん』と呼びかける者は多重人格者ではなく詐欺師である」と書いているが、捏造の露見前後という差があるにしろ、この人間間の間合いの取り方の急変は異常である。
ともかくかつて藤村新一という天才的な詐欺師がいたことは間違いない。
その特徴は、「誰も悪くいう人がいない」、「捏造など悪いことができるはずがない」と上司や同僚に思われる、そして「いくら傍証を突きつけられても、実物証拠が突きつけられるまでは徹底的にシラを切り通す」という点にある。
これらの点はSTAP事件のヒロインのそれとうり二つだが、まだ断定するには証拠が乏しいようだ。
杉晴夫『論文捏造はなぜ起きたのか?』(光文社新書, 2014/9)という本が出た。当然「STAP論文」を扱っていると思ったが、とんだくわせものだった。そもそも古い生理学者である杉氏には、STAP細胞とは何か、ES細胞、iPS細胞とどう違うのか、ということが理解できていないようだ。だから旧海軍の福留参謀長が不時着のためフィリピンゲリラの捕虜となった「海軍乙事件」とのアナロジーが出てきたりする。モースの「日本その日その日」の引用も間違っている。原本は東洋文庫に入っているのに、磯野直秀「モースその日その日」(有隣堂,1987)から引用するからだ。引用するときは原本に当たらなくてはだめだ。
同じアネクドートが何回も出てくるのも問題だ。編集者の姿勢を疑う。
これは表題と中身が異なる「羊頭狗肉本」。
「朝日誤報」問題や理研の「iPS細胞臨床試験」のニュースで小保方晴子の影が薄くなった。雑誌メディアに、この事件を理解するのに重要となる、彼女のヒストリーを報道してほしいと思うが、移り気なメディアは他の方向に関心を向けてしまった。
8/13「産経」によると、9/1からサバティカルに入ったはずのハーバード大バカンティ教授がHPで「STAP細胞は簡単にできない」というコメントを発表したという。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/140913/scn14091308470001-n1.htm
<文書はバカンティ氏と、同じ研究チームの小島宏司医師の連名。STAP細胞について「当初は簡単に再現できると信じていたが間違いと分かった」と説明。うまく作製できるかどうかは「個々の研究者のテクニックに負うところが大きい」としている。細胞のエネルギー代謝に関わる分子(ATPのことか?) を溶液に加えると、作製効率が高まるはずだとしている。(共同)>
つまりこれは「小保方の方法ではSTAP細胞はできない」といっているに等しい。11月までの「小保方再現実験」でネガティブ結果が出るのは分かりきっているから、あらかじめ逃げを打った感じがある。このじいさん、なかなかしぶとい。
9/24「産経」とJ-CAST NEWSは<STAP細胞はES細胞かそれに酷似した別の細胞だとする遠藤高帆理研研究員による論文>について報じている。
http://www.j-cast.com/2014/09/24216554.html
これは前から彼がネットで主張していたもので、公開されたSTAP細胞のDNA配列のSNP(1塩基変移)を解析することで割り出した結論である。小保方らがいうSTAP幹細胞は存在せず、実験の途中でES細胞またはそれに酷似したTS細胞の株とすり替わった可能性が高いというものだ。これが故意によるものか、過失によるものかはこの結果だけからは断定できない。いえることは「STAP細胞の再現」はないであろうということだ。
しかしなぜこういうことが起こったのか、なぜこういうことを行ったのかは最大の謎だ。
これについては疑惑がひろく浮上する前のNHK-TV報道と「文藝春秋」9月号の森健「愛された野心家小保方晴子の三つの顔:30年の半生を徹底追求」という、2つの対蹠的レポートに接した。今のところ、彼女のパーソナリティを伺うに一番詳しい情報化と思う。
>2014年01月30日 (木) のNHK報道:
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/180003.html
大学院時代の恩師「根性ありそうだった」
<東京女子医科大学の先端生命医科学研究所で、大学院時代の小保方さんの指導にあたった大和雅之教授は、「小保方さんが研究室に入るとき、大学での専攻とは全く違う再生医療の分野で研究したいということを、力強い口調で話していて、根性がありそうだと感じた」と振り返りました。
研究に対する姿勢については、「他の学生に比べて突出していたのは、人に教えを請う力だと思う。国内外のトップの研究者から研究室の後輩まで、分からないことがあれば、ものおじすることなく質問し、課題の解決につなげていっていた。そうした姿勢が成果につながったのだと思う」と話しました。>
大和は女子医大の岡野光夫教授の下で准教授をしていたので、小保方の実際の指導にあたった。「突出していたのは、人に教えを請う力」、「分からないことがあれば、ものおじすることなく質問」というのは「質問魔」だったことを意味するのであろう。
質問魔は善意に解釈すれば「熱心」ということだが、高校で生物学を履修せず、大学応用化学ではバクテリアの研究しかしていないとすれば、再生医療の基礎的常識が欠けていた、という解釈も成り立つだろう。
研究室の後輩も賛辞
<小保方さんが早稲田大学理工学部の学生だった当時、指導に当たった常田聡教授は「大学入試のとき、すでに『博士課程ではどのようなことをするのか』と教員に質問しているのを見たことがあり、高校生のときから自分の将来をきちんと考えている様子が印象的だった。大学ではバクテリアの研究をしていたが、全く違う分野から再生医療の道に入るような勇気が今回の斬新な成果を生み出した要因の1つではないかと思う。今後も若さとユニークな視点を武器に頑張ってほしい」と話していました。
また、小保方さんの大学の1年後輩で、現在、研究室の助手をしている藤谷拓嗣さんは、 ハーバード大学への留学から戻った小保方さんに土産でもらったノートと論文を入れるためのファイルを今も使い続けているといいます。
藤谷さんは「これでたくさん論文を読んで頑張ってねと言われました。 小保方さんはいつも『研究成果は実験の量に比例する』と言っていて、休みの日でも研究室をのぞくといつも実験していたのを覚えています。 僕たち後輩にも『研究うまくいってる?』などとよく声をかけてくれる優しい先輩でした」と当時の様子を振り返りました。>
出身高校も成果たたえる
<小保方晴子さんが通っていた千葉県習志野市の高校では、学校の掲示板で新聞記事を紹介し、成果をたたえました。
小保方さんは千葉県松戸市の出身で、卒業した習志野市内の高校では、生徒向けの掲示板にSTAP細胞の作製に成功したことを伝える小保方さんの写真入りの新聞記事を貼って「本校の卒業生です」と紹介しています。
山田純夫副校長は「職員室では朝から小保方さんの話題で持ちきりです。後輩である生徒たちも大変喜んでいます。今後も研究を一層発展させてほしい」と話していました。
また、当時、小保方さんのクラス担任で化学を教えていた山崎宣彦教諭は「知らせを聞いた瞬間はとても驚きました。高校時代から優秀で、いろいろなことに積極的に取り組む明るい性格の生徒でした。社会に役立つ研究者になってくれると思います」と話していました。>
もし小保方が高校で生物学を習っていたら、ここは当然、生物学の教師のコメントが必要なところで、「化学を履修→早稲田理工学部応用化学科へAO入試で進学」という進学は化学しか履修していないとしたら頷けるところだ。
常田は「大学ではバクテリアの研究をしていたが、全く違う分野から再生医療の道に入るような勇気が今回の斬新な成果を生み出した要因の1つではないか」とNHKに話しているが、これは「文春」森レポートの以下の行動に対応している。
<常田の指導スタイルは“教えない主義”。自由な空気の中、ラクロス優先の生活を送っていた小保方だったが、研究室仲間は卒業を前にした彼女の行動力に驚かされる。
「常田研は微生物を用いた排水処理の研究をやっていたのですが、小保方は突然、常田先生に『院に行ったら、東京女子医大で再生医療をやりたい』と直談判したのです」
小保方は06年4月、早大院(修士)に籍を置きながら、東京女子医大で大学院生活を送ることになった。
女子医大で小保方の指導にあたったのは、「細胞シート」の発明で有名な教授の岡野光夫(てるお)と、准教授(当時)の大和雅之である。>
誰が小保方を岡野に結びつけたのかはわからないが、ともかく早稲田理工学部4年生の時に、突如「再生医学」に目覚め、院に進むと、半ば強引に女子医大の岡野研究室に潜り込んだことがわかる。しかし理工学部出身の小保方には、再生医学にも基礎研究と応用研究があり、両者の課題へのアプローチはまったく違うものだという認識はなかったと思われる。岡野研の再生医学は応用研究であり、小保方はここで実験の仕方、記録の重要性などについて、必要な教育を受けたとはとても思えない。
早大院在籍のまま女子医に出向して2年後、08年3月に小保方は院の修士課程を修了し、4月博士課程に進んだ。研究場所は依然として女子医大である。08年7月、大和と交流のあったバカンティ研究室の准教授小島宏司が一時帰国し、東京四谷の天ぷら屋で小島を囲む会が開かれた。大和が小島に小保方を紹介すると、小保方はすぐさまハーバードに留学したいと直訴した。そして9月からの短期留学が決まった。(小保方のハーバード・バカンティ研究室への滞在は10年8月までの1年11ヶ月。)
ボストン滞在中の小保方は24歳か25歳。初めて単身留学した日本人は、初期のオイフォリア、中期の幻滅、後期の受容という一連のカルチャーショックを乗り越えなくてはならない。この過程で日本人同士の交流が始まる。留学時代には心細さもあって、互いに心を開くので親友が生まれやすい。これについて森レポートはこう書いている。
<現在、帰国して生命科学の基礎研究に携わる、ある研究者は当時何度か小保方と会っているが、「研究者には見えなかった」と振り返る。
「彼女はよくいる短期留学の学生という印象です。米国で本気で研究の道を歩む人は、匍匐前進をしているような地味で慎重な雰囲気になる。しかし彼女にはそんなガチンコ感がまるでなかった。本気で研究している人なら『いざよいの夕べ勉強会』にも招かれたはずです」
「いざよいの会」とは、07年にボストンに滞在する日本人生命科学者で作られた会合だ。完全な紹介制で、現地で研究活動に勤しむ研究者が毎月一回集まり、ピザをつまみながら個々のテーマについて議論を戦わせる。小保方は(中略)同会には一度も招かれなかった。>
この会にバカンティ研究室の小島が参加していたどうかが書かれていないが、バカンティ研究室はボストンでは異端とみなされていて、相手にされていなかった可能性もある。
ともかく小保方は日本人の生命科学留学生と付き合った形跡もないし、親しい友人もできなかったようだ。
竹岡俊樹氏が『考古学崩壊』(勉誠出版, 2014/9)で、これまで出版された本から「旧石器遺跡捏造」の犯人藤村新一の人物像を要約しているが、これを読むと小保方晴子ときわめてよく似ていることがわかる。
1 表の顔=「藤村の悪口を言う人はいなかった」(「毎日」)。
「藤村氏は、いい人間だった。…だから捏造など想像もできなかった」(朝日・河合信和)
「藤村氏を直接知る人に会うごとに、藤村氏とはどういう人物なのかをきいてみた。その結果まずわかったことは、藤村氏のことを悪くいう人が誰もいなかったということである」(立花隆)
2 考古学の実力=「作文も十分にできない、考古学的な知識も少ない藤村が、一人でボロが出ないような複雑で難しいことを考えられる・やれるはずがない、あんな純朴な人が、悪いことができるはずがないと思った」(元文化庁・岡村道雄)
3 裏の顔=捏造発覚後の態度について、こういう証言がある。
「いくら傍証を突きつけられた形になっても、実物証拠が出るまではシラを切り続ける態度を崩していない」(朝日・河合信和)
2000/11の毎日スクープ前後の藤村の変化について、
「総進不動坂遺跡で藤村が石器を出した(2000/9/5)その晩、筆者宅に藤村から電話があった。筆者は出なかったが家内が家内が出て藤村の話を聞くと、『じゅんちゃん(筆者のこと)に伝えて下さい。……』とのことであった。(筆者のことを藤村が呼ぶときは、常に角張君であった。)」(アルカ・角張淳一)
「(上高森遺跡で石器を埋めている写真を撮影された翌朝11/5の)午前九時過ぎに電話がかかり、…藤村が電話に出た。『みっちゃん(こんな親しげな呼び方は初めてだった)、すまない』と地獄の底からうめくような声でいった」(元文化庁・岡村道雄)という証言がある。
岡村は東北大文学部助手、文化庁主任文化財調査委員などを歴任しているから、藤村は岡村を「先生」とこれまでは呼んでいたはずだ。
角張宅への電話は、総進不動坂遺跡で「毎日」取材班が石器を埋めているところの写真撮影に失敗した後のことで、まだ捏造は発覚していない。岡村への電話は「毎日」スクープ報道が行われた当日のことである。竹岡氏は「いざというときに、『みっちゃん』、『じゅんちゃん』と呼びかける者は多重人格者ではなく詐欺師である」と書いているが、捏造の露見前後という差があるにしろ、この人間間の間合いの取り方の急変は異常である。
ともかくかつて藤村新一という天才的な詐欺師がいたことは間違いない。
その特徴は、「誰も悪くいう人がいない」、「捏造など悪いことができるはずがない」と上司や同僚に思われる、そして「いくら傍証を突きつけられても、実物証拠が突きつけられるまでは徹底的にシラを切り通す」という点にある。
これらの点はSTAP事件のヒロインのそれとうり二つだが、まだ断定するには証拠が乏しいようだ。
杉晴夫『論文捏造はなぜ起きたのか?』(光文社新書, 2014/9)という本が出た。当然「STAP論文」を扱っていると思ったが、とんだくわせものだった。そもそも古い生理学者である杉氏には、STAP細胞とは何か、ES細胞、iPS細胞とどう違うのか、ということが理解できていないようだ。だから旧海軍の福留参謀長が不時着のためフィリピンゲリラの捕虜となった「海軍乙事件」とのアナロジーが出てきたりする。モースの「日本その日その日」の引用も間違っている。原本は東洋文庫に入っているのに、磯野直秀「モースその日その日」(有隣堂,1987)から引用するからだ。引用するときは原本に当たらなくてはだめだ。
同じアネクドートが何回も出てくるのも問題だ。編集者の姿勢を疑う。
これは表題と中身が異なる「羊頭狗肉本」。
小保方氏が研究者ではない事を。
妙な着飾り方がそもそも胡散臭く、本物なら闊達に語っていても地味さは否めないのであるが、それが皆無なのだ。
これは野球で言うところのバッターボックスに立った時の構え方に通じるものがある。
一流打者の構えは実に物静かで地味である。
たとえ一本足で奇抜な打ち方にせよ、王選手の構えは静寂そのもの。落合博満氏も同じく、神主打法という独特の構えからはそわそわとした無駄な動きが感じられない。
平凡な打者ほど小刻みに体を揺らしてタイミングを取ったりするものである。
研究者だって緻密な人もいれば、場当たり的に大成果を挙げる人もいる。
でも、ビビアンウェストウッドで着飾ってムーミンを描いてスッポンを飼う人はいない。ビビアンもとんだ迷惑だね。賠償請求してもいいんじゃないかな。
しかしそんな奴は一流ではない。
研究者もしかり。
もしいるとすれば名を挙げてみよ。
遠藤高帆氏の論文が、STAP細胞はES細胞またはそれに酷似したTS細胞の株とすり替えである。
... 外堀を埋められた小保方氏ですが、どう弁解するのか?
ただ疑念があるのは、
小保方氏の主張するSTAP細胞がウソであるなら、
若山氏が作成したキメラマウスは何の細胞なのでしょうか?
遠藤氏の解析どうり、ES+TS細胞でキメラ作成できるのでしょうか?
そこまで明確になれば、小保方に逃げ道はないので安心します。
って書いてるから、サミー・ソーサとかマグワイアってブンブン振ってるけど一流スラッガーだって言いたかった。古くてごめん。
>研究者もしかり。もしいるとすれば名を挙げてみよ。
フレデリック・バンティングって知ってるかな?
筋肉増強剤を使用するMLB選手など論外。
古かろうが新しかろうが、いつの世も達人の所作は落ち着いているものだ。
興味深い内容だった。インシュリンに関する功績でノーベル賞を受賞しているが、本当の意味での功績者はどうやらコリップという科学者のようだ。
このバンティングは性格上問題があって、粗野な人物だったらしいが、カナダでの評価は現在も「英雄」扱いだ。
しかし、このバンティングのインシュリン発見による発想は否定されているし、私の言う達人ではない。
やはり行動に問題が多すぎる。
質素で落ち着いたコリップこそノーベル賞に値する。
Mr.S氏が仰っていたように、私も初見で彼女を疑った一人です。私がこれを読んだのは2~3月だったのですが、彼女が研究者という人種ではない事を確信しました。
「ハーバード留学体験記」小保方晴子
www.waseda.jp/prj-GCOE-PracChem/.../GCOENL01_C.pdf
>私は博士課程の1年の夏から2年の冬までの間、アメリカのボストンにあるハーバード大学医学部に留学させていただきました。(中略)
>研究室には、同じ年頃の女の子が4人在籍していて、Dr.Vacanti's angels と呼ばれて(名乗って)いました。・・・カフェで夜中まで勉強したり、デートの前日に服を買いに行ったり・・・おしゃべりで早口な女の子に囲まれ、私は英語のスパルタ教育を受けました。(中略)
>私は自分が所属するラボ以外にも、2つのラボのミーティングに毎週参加していました。・・・昼になるとハーバード中あらゆる場所でセミナーが行われるので、広い構内を走り回って参加しました。(中略)
>Dr.Vacanti はたくさんの助言をくださいました。最も印象的だったのは、「皆が憧れる、あらゆる面で成功した人生を送りなさい。すべてを手に入れて幸せになりなさい」と言われたことです。(後略)
高校生の短期語学留学記としか思えず、専門的な研究に励んでいた姿は浮かびません。また、ハーバード大学医学部留学と言うと正確ではない気もします。(早稲田大学の意向かもしれませんが。)
研究室をあちこち精力的に渡り歩くこと、(1月の最初の発表会見時同様)忙しい中きちんとデートもする女子力?のアピールなど、彼女の一貫した価値観を感じます。別の記事には、ハーバード留学中1週間で200本の英文の関連論文を読み込んで発表に備えた、という箇所があり、4月に200回成功、と聞いて苦笑した方も多かったでしょう。
しかし一番不気味に感じたのはVacanti氏の教えです。これは研究者の目標ではなく実業家の目標です。この言葉に感化された彼女は更に不気味です。
誰かが敷いたレールに乗ったのかな・・・!?
ある意味では、気の毒だとも思う
AO入試合格
奨学金獲得
留学獲得
レールを敷いた人って、誰だか自明のような気がするな・・・