オタク考

2005-08-31 05:22:04 | Weblog
 電車男の大当たりのおかげか、メディアにオタがとり
あげられることも多いようである。それも、「恋愛関係」
のうんにゃらかんにゃらで。

 定番的には、インタビュアーの方が「いかにも」て風体
のかた(銀縁メガネにチェックのシャツ)に、「電車男、ど
う思います?」てなたぐいの質問をし、「いかにも」な方が、
「いや~、女のために趣味を捨てるなんて邪道ですよ。あ
りのままの自分を受け入れてもらわないのは負けです」
てな回答をする。雑誌やTVの特集で、このような問答を
数回見た記憶がある。

 あれ見て、「お前実際に熊田曜子みたいなムチムチキュ
ーティーな女が、『××さん、付き合って。でもオタクはい
や』って言い寄ってきても、同じ台詞はけるか。だからオタ
ってのは、ある意味想像力がとことん不足しているんだバ
カヤロウ」と思ったのだが。

 しかし考えてみるに、オタというのは大雑把に2種類に分
けることができるかもしれない。異性に限らず、現実の人間
関係があまりうまくいかないため、その代用として「趣味」に
走った人間と、人間関係のいい悪いにかかわらず、性格的に
「趣味」にとことん耽溺してしまう人間と。前者のオタなら電
車男のように、現実の人間関係がうまく回りだせば、趣味を
捨てて「真人間の世界」へ戻ってもあまり痛痒は感じないだ
ろう。逆に後者であるなら、たとえどんないい女に言い寄られ
たとしても、「趣味」を捨てることはあるまい。「趣味を捨てる」
すなわち「アイデンティティの喪失」に直結するからだ。

 オタにとって、自分は後者の、「趣味のためにすべてを捨て
てる」カテゴリーの人間だと思いこむことは重要なのかもしれ
ない。なんか、「孤高の戦士」って感じがするしね。自分が、
「単に人間関係がうまく回らないからその代用として趣味に走
ってる」人間だとしたなら。「自分はそんなに安い人間じゃない」
と思い込みたい気持ちはよく理解できる。

 ただね、前者と後者を比較したなら、現実的な基準からいえ
ば前者の方がはるかに「マトモ」ではあるのだ。

 「マトモ」とはすなわち「凡」ということではない。オタの皆様は、
たまには自分の本質を冷静に見つめることも大切だと思う。もっ
とも、それができないからこそ「オタ」なのかもしれないが。

縦&横

2005-08-30 22:17:11 | Weblog
 しかし、なんの違和感もなく、横書きで文章を書いている
わけだが。

 本来、日本語の文章というのは縦書きであり、横書きの
文というのは「特殊」なモノであったと思う。まあ、学校の教
科書・参考書などは、国語以外のモノは横書きが多かった
気もするが。

 ひるがえって現在では、ネット上のサイトはほとんどが横
書きであり、よっぽど酔狂な人間が作ったサイトでなければ、
縦書きの文など見たことはない。つまり、素人がなにかの
考え、思いを世に発表しようと思えば、現代においては横書
きの文を使うことが普通、というか、縦書きの文を使うことが
不可能になってきているのである。

 しかし、雑誌・文庫・新書などの、広く紙に印刷されて世に
出る媒体は、あいもかわらず縦書きが主体である。つまり、
自ら書いた文を世に問うのに、横ならアマチュア、縦ならプロ、
てな状況になってきているわけである。

 実際にやってみるとわかるが、同じ内容の文でも横に書くか
縦に書くかで、うける印象はかなり変わってくる。紙で読むのと
ディスプレー見るのとでもまったく違う。漱石の小説・エッセイな
ど、著作権が切れているおかげでネット上で無料で読むことが
できるが、やはり文庫本で読むのとでは印象が異なる。本とい
うのは落ち着いて読み込む形になるが、ネット上の文を読む場
合、「読み流す」という表現がぴったりという感じがすることも多
い。重厚な文に横書きというのはやはりしっくりこないのだ。

 「プロのライター=縦書きにふさわしい文を書けるひと」という
認識が、正しいものとして認められる時代が、まもなく来るかも
しれない。

 

 

ひさびさに禿を考える

2005-08-29 22:19:07 | Weblog
 とりあえず、「Huge」という得体の知れぬファッション雑
誌を、しばしば「Hage」と見誤るくらい髪の毛が少ないわ
けだが。

 新宿二丁目には、いわずとしれたゲイコミュニティがあり、
一般社会において迫害されがちな同性愛者たちがひとつ
に固まり、協力しあいつつ生きている。新大久保近辺には
コリアタウンがあり、おなじく被差別者たるコリアンが肩寄
せ合って生活している。しかるに、一般人から差別の対象
として確固たる地位にある我ら「ハゲ」が、日本のどこにも
コミュニティを持っていないのは何故か。

 真に恐るべきは頭髪の減少ではなく、頭髪の減少から
くる孤独である。かつて釈迦は、俗世間の縁を切る決意
の表明として、頭髪をそり落としそれを僧の形とした。それ
にひきかえハゲたオッサンは、俗世間と縁を切るつもりなど
これっぱかりもないのに、頭髪が脱落し出家の姿となるの
である。そりゃ孤独にもなろうってものである。

 ハゲになによりも必要なのは他のハゲとの交流である。
他のハゲはどんな風に髪を失い、頭皮の具合はふだんど
んなで、どんな育毛剤を使って、効果はどうなのか。現状
においてそれを知る手段はほとんどない。ほとんどのハゲ
は孤立しており、ハゲを話題にして他人と語らう、という習
慣が21世紀の現在も成立していないからだ。

 そこでやはり「ハゲ雑誌」の創刊が急務となってくるであ
ろう。現代において、「ハゲ」という層が、一大マーケットを
形成していることは疑いない。最近、「大人のOFF」だとか
「LEON」とか、「いい年こいたオッサン」をターゲットにした
雑誌がずい分発刊されてはいるが、誰がなんといおうと、
あの手の「小じゃれたおやじ」の3人にひとりはハゲなので
ある。このことから考えても、ハゲ雑誌、ある程度売れるの
ではなかろうか。

メンチカツ丼とコロッケ煮

2005-08-28 22:01:51 | Weblog
 東陽片岡の漫画読んでいたら、メンチカツ丼とい
う料理が、「死ぬほどうまいもの」として紹介されて
いた。

 たしかにこんがり揚がったメンチカツを、だし汁とた
まごでとじたならば、これはもうかなりうまそうな料
理になることは疑いなかろう。その登場人物いわく、
「こんなうまいものがなんでそば屋で食えないのか」。
たしかに、こんなにうまそうかつ価格の安そうな料
理が、手軽に食えないのは不思議ではある。

 昔、荒川区の職場に通っていたことがあるのだが、
その職場の近くの飲み屋に、「コロッケ煮」というメニ
ューがあった。上記のメンチカツ丼と同様、コロッケを
しょうゆ味のだしとたまごでとじ、上から刻んだ海苔を
パラパラとふりかけた、という食べ物である。これがま
たうまかった。ビール飲みながらつまむコロッケ煮。歯
ざわりのよい、ホクホクとしたジャガイモにだし汁とた
まごが絶妙にからまって、ビールと合うといったらない。
この料理も、こんなにおいしいのに他の店のメニューで
見たことがない。不思議といや不思議である。

 対するカツ丼はといえば、日本中に広く存在するそば
屋、定食屋、大衆食堂において、メニューに載せてない
店の方が少ないのではなかろうか。(ちなみにある地方
では、カツ丼といえば「煮てない状態の、そのままのカ
ツ」がどんぶり飯の上に乗ってるそうで。煮たカツをどん
ぶり飯の上に乗せている料理のことは「煮カツ丼」という
とか)

 この普及率の相違はどこにあるのかなと。まあ考えて
みれば、「とんかつ屋」というのはどんな街にも一軒はあ
るだろうが、「コロッケ屋」とか「メンチカツ屋」という専門
店は存在しない。後者の場合、それは食堂でなく持ち帰
りの「総菜屋」の範疇になってしまうんですな。

 しかし、オリジン弁当を筆頭とする「持ち帰り系」外食産
業の発展も最近は著しいわけで。弁当のおかずとして最
適な「コロッケ煮」「メンチカツ丼」が勢力を持つ日も近いか
もしれない。

悪口が好き

2005-08-27 05:17:49 | Weblog
 悪趣味だとはわかっちゃいるが、他人の悪口がか
なり好きだったりする。

 といっても根が卑怯者であるので、自ら率先して悪
口雑言のリーダーシップをとるというのはあまりやら
ない。第三者が、第三者に対して言う悪口、批判など
を聞いて、ふむふむとうなずくのが好きなのである。あ
る意味こっちの方がよほどタチ悪いかもしれない。

 だから、リアルな人間関係の生々しい悪口などをこ
の方法で楽しんでいると、さまざまなナニな軋轢が生
ずる危険も高いため、専ら「文に記された」悪口・批判
を読むのが好きだったりする。これなら危険はないから。
我ながらこすっからい話ではある。

 たとえば紫式部日記における、「清少納言への批判」
なんてのは有名ですな。「批判」というよりむしろ「悪口」
並みの激烈さですが。世界文学史上に残る才女ふたり
が、角突きあわせてたというのは、あまりに「ハマり過ぎ
た」話であって、想像するだけでも面白い。しかもこの二
人、芸風も対照的であって、片方は今でいうなら愛憎系
純文学、もう片方は軽妙洒脱なお笑い系であり、そりゃ
水と油だな、とだれもが思う。少納言の方は、このような
式部の批判を知っていたのか、知っていたとするなら、ど
んな反応をしたのか。これも想像するだけで面白いと思う
のだ。

 現代においては、小林信彦の「天才伝説 横山やすし」
の中で描かれた、漫画家の高信太郎とか。小説の中で、
「典型的な腰ぎんちゃくキャラ」というのはよく出てくるもの
であり(「坊ちゃん」の野だいことか)、それ自体は珍しくも
なんともないが、そのキャラに実名かぶせちゃうんだもの。
実在の、しかも存命中の人物を、あれだけあしざまに描
いた作品というのは他に知らない。名誉毀損で告訴した
ら充分勝負になるんじゃねぇか、と思わせるほどのものす
ごさ。高信太郎、なんか小林信彦の恨みかったのかしらん。

 この小林信彦、別のエッセイでは名前をあげてはいない
ものの、ナンシー関をこれまた激しく批判しており(「森繁
のボケぶりをネタにしたナンシーのエッセイを、「あれはボ
ケた演技をしているのだ。最近の軽薄なライターはそうい
うものを見抜く目さえなく、云々」てな具合)、もともと他人
を批判するのが好きなひとなのかもしれない。

 あと、「悪口」といえば魯迅なわけだが、これはまた別の
機会に。

激流の鴨

2005-08-25 22:34:07 | Weblog
 さて、また明日は台風上陸とのこと。きょう休みと
って1日横になってた身にとっては辛いことこのうえ
もない。つーか、きょう上陸してくれてりゃ何の問題
もなかったのだが。1日違いてのは不運なこと極ま
りない。

 しかしまあきょうも結構雨が強く、近くにある川も
結構増水していた。ふだんはたいした水量もないの
どかな水の流れが、周囲からの雨水の流入で濁っ
た水がごーごーと。見てるだけでなんかこわくなって
きますな。

 そんな流れの中でも鴨などが泳いでおりまして、や
はり普段とは異なり自由自在に泳ぐのは難しそうで、
ちょっと気を抜くと下流に流されたりしておるわけです
が。

 しかしやはり生き物というのは知恵がありますな。
側壁に近い部分は底が浅く、しかも雑草などが生い
茂っていて流れが中央部と比べてもはるかにゆるい。
鴨はそういう場所へと必死と泳いでいき、身を休める。
でもなんの気まぐれか、たまに中央部へと飛び出して
いき、下流に流されていく。そしてまた流れのゆるい
側壁部へと避難し、ゆっくりとではあるが上流へと上っ
ていく。その繰り返し。

 まあこんなことをいうのもアレですが、「人生というの
もこんなもの」かと。

 真っ向から立ち向かうばかりが能ではないと。激流を
やり過ごす「知恵」がなによりも必要なのであろうなと。

 さて、明日の朝の風雨、どうやってやり過ごすべきで
すかねぇ。

海ほたるくん

2005-08-24 23:20:54 | Weblog
 本日は出張で木更津などへ行く。いや、こういう
ことをいうとアレだが、なんかさびれた町でありま
すな。

 で、アクアライン経由の横浜駅行のバス乗って家
へ帰ってきたのだが、運賃片道1500円。高いよう
な気もするが、総武線や京葉線使って帰ること考え
たら安い気もする。しかし、海ほたるって降りたこと
ないのだが、観光地的にはどんなモンなんすかね。

 そんなことを疑問に思い、グーグルでサーチかけた
らこんなサイト見つけた。
http://www.umihotaru.com/event/2005_charactor.asp
キャラ的にどうかと思うんだがこれ。みうらじゅんあた
りは気に入りそうだが。

 こういう妙なキャラでも、大のオトナが何人か、真面
目に会議で討論したりして決定したはずである。客を
呼ぶために、頭しぼってさまざまな企画を考え出すい
い年こいたオッサンやオバハンたち。頭しぼって考え
た結果が、変な着ぐるみだったりしたら。想像するだけ
で、会社へ行くモチベーションが低下いたします。

 しかしこういうとはそれこそ岡目八目、ある程度距離
を置かないと見えない話なのかもしれない。




マイナーものが好き

2005-08-23 04:47:55 | Weblog
 昔から、マイナーブランドが好きである。

 マイナーブランドといっても、必ずしも「聞いたこ
とのないメーカーの品物」というわけではない。た
とえば化学調味料の「いの一番」。味の素やハイ
ミーでなく、わざわざ「いの一番」を探して使ってい
る人間がいたとしたなら相当なマイナー指向の人
間だといえるが、「いの一番」自体は武田薬品工
業という、製薬分野ではトップの大メーカーで作ら
れていたりするわけである。(ちなみに今グーグル
で検索かけたら、「いの一番」、家庭用は絶滅して
業務用のみになっているようである)

 かつて、三洋電機のノートパソコンなどという、酔
狂なモノを愛用していた時期がある。購入理由は、
「価格が性能の割りに安かった」というのが第一で
はあるが、「三洋電機のパソコン」という、思わず笑
みがこぼれるような妙なマイナー感がわたしを引き
つけたのもまたたしかだったりするのだ。

 しかし現代の日本のような成熟した資本主義社
会では、マイナーブランド、あるいは三番手以降の
ブランドというのはとどのつまり淘汰されてしまう場
合も多い。三洋電機はとっくの昔にパソコンからは
撤退したし、上記のように家庭用の「いの一番」は
絶滅した。唯一残されたマイナーブランドの旨味調
味料、「ヤマサフレーブ」はいつまで生き残ってくれ
るのか。

 こういうマイナーブランド志向というのは、自らを常
にマイノリティの側に置き、「俺はお前ら一般大衆と
は違うんだぜふふん♪」という自己陶酔にひたりたい
という、非常にいやらしい動機が根本にあることも否
定できない。自分の使用している品物のメーカーを他
人に告げた時の、「へーそんなの使ってるんだあ」との
驚きの声が微妙に優越感をくすぐったりする。なに、
実を言えばあきれられてるだけなんだが。

 もっとも、いちばん大きな理由といえば「安いから」な
んだけどね。電化製品における、松下やソニーの値引
率の低さは、やはり問題だと思うのであるよ。

 このようなわけで、わたしの身の回りの家電製品は、
三洋やシャープのモノばかりだったりするのである。ち
なみにデジカメは日立。「いくらなんでも」という気が自
分でもする。

ニドとブライト

2005-08-22 21:36:40 | Weblog
 高校時代から疑問に思っていたのだが。

 ネスレ日本(当時はネッスル日本)という会社があり、
コーヒーやらクリーミングパウダーやらを出している。
コーヒーならネスカフェ、あるいはゴールドブレンド。定
番中の定番ですな。

 で、問題はクリーミングパウダーの方。ニドとブライト
という二つの製品が出ているのだが、この二つ、どこが
どう異なるのかまるでわからないのだ。

 名前が違うということは、当然製品の中身が違うので
あろうし、製品の中身が異なるのであれば、使い道、あ
るいは使用法が違うはずだ。例えばサントリーから出て
る発泡酒、純生にダイエットにマグナムドライといくつか
の種類があるが、どれもなにかしら他の商品と差別化す
る「売り」というか「特徴」がある。ダイエットなら他と比較
してカロリーが少ないとか。でなければ商品の種類を複
数にする意味はない。

 ところがニドとブライト、どこが違うのかさっぱりわからな
い。発売されてもう30年前後、一時はTVCMもかなり流
されていた製品であるにもかかわらず、「コーヒーにはニド」
「コーヒーにはブライト」というだけで、このふたつの使用法
の相違とか、風味の違いとかが説明されたことはまるでな
い。原材料にもたいした違いはないし、味だって驚くほどの
違いはない。なのに名前は違う。謎であります。

 ちなみに数あるクリーミングパウダーのうち、クリープのみ
が牛乳が原料。このように差別化されていれば商品名違え
る必要性があるのも理解できるのだが。

 

松屋雑考

2005-08-21 21:34:20 | Weblog
 日曜である。朝の9時、水道橋で馬券を買った
あと朝飯を食う。立ち食いそばやハンバーガーを
食うことがほとんどであるが、たまにゃ違うモノ食
おうと本日は松屋で牛めしなどを食ってみた。

 食券買って店員に差し出す。すると、「少々時間
かかりますがよろしいですか」と、牛丼屋にあるま
じきことを言う。客が他の食い物でなく牛丼を選択
するのは、「安い」というのも大きいが、「待たずに
食える」というのもまた大きいのだ。それにだな、
食券買ったあと「よろしいですか」と聞かれても、客
としてはどうしたらいいのだ。「時間かかるならいい
です」と言って、食券の払い戻しを要求すればいい
のか。そんなマネ、できるわけねえだろバカヤロウ
と腹の中で思いつつ、「あ。別にいいですよ」とにこ
やかに答える。偽善的ですね。

 まあ時間がかかるのも道理で、朝飯時で比較的
店内に客もはいっているのに、店員がひとりしかい
ないようなのだ。バイトのシフトの失敗なのか。ひと
りで食器片付けてひとりで料理作ってひとりで配膳。
なんかもう曲芸並みである。牛めし豚めし、それに
朝定食みたいな定番メニューの注文がほとんどなの
でかろうじて対応しきれているようであるが、あそこ
へいきなり「生姜焼き定食」みたいな、変則的なメニ
ューが投入されたなら。パニック起こしてどうにもなら
なくなったかもしれない。

 つーても、実際に待ったのは5分くらいのものだった
んですけどね。松屋での5分の待ち時間でのは、これ
はもう長い長い。やっとありついた牛めしは、いつもよ
り数倍うまく・・・・なんてことはちっともなく、いつもの味
でありました。チェーン店の味万歳。

 しかし松屋の店員さんの制帽、なんで工員さん風の
キャップなのだろうか。せめて姿かたちくらい、料理人
風にしたほうがいいと思うのだが。

音をたてて麺をすする

2005-08-20 05:18:54 | Weblog
 昨晩は中野でラーメンを食う。都内でも有数のラーメン屋密
集地域、競争も激しく、現状において淘汰されていない店とい
うのは、何かしら特徴があっておいしい店であると思って間違
いなかろう。

 昨晩はいったその店は、あっさりスープを売りにしてるらしく、
透明感のある醤油スープに脂が適度に浮かんでおり、見るか
らに「昔懐かしの中華そば」。ずるずるっと麺をすすると適度な
コシ、レンゲ使ってスープを口にすると、鶏がら主体の古典的
な味の中に、ほのかに感ずる魚系の旨味。わたしゃ海産物自
体は食べられない人間であるのだが、こういう隠し味的な魚貝
類の風味というのは案外好きなのである。

 中野というと「青葉ひとり勝ち」みたいに思われがちだが、どう
してどうして、おいしいお店がたくさんあって目移りする。「おいし
いラーメンに遭遇する」というのは、マジ幸福な出来事であります。

 しかしだ、麺類食うたびいつも思うのだが、何故日本人は麺類
食うとき「音をたてる」のがスタンダードなのであろうか。

 日本文化にドップリとひたっている外国人のエッセイを読んでも、
「あの習慣だけは慣れない」と書いてる人間が結構多い。日本人
だって、通常麺類以外の食べ物を、くちゃくちゃ音をたてて食べた
りしたなら、周囲の人間が顔をしかめること請け合いであろう。だ
が麺をすする音に限っては、なんの不愉快さも、汚らしさも感じな
い。論理的に言えば矛盾しているといっていいだろう。

 蕎麦の場合、「味でなく、そののど越しを楽しむ」ということを主
体にすると、どうしたって「すする」以外の食べ方ではどうにもなら
ない。「蕎麦は噛んで食うものではない」という文化が根付き、「音
をたててすする」という食べ方が日本では標準となった。そして、
蕎麦と同じような形状の中華麺についても、同じような食べ方をす
るようになった、てな推測が正しいのかどうか。中華麺はのど越し
楽しむものでは別にないわけだが。

 しかし、本場中国では麺についてどんな食べ方をしてるのだろう。
やはり音たててすすってるのかしらん。

 

献血事情

2005-08-18 21:25:11 | Weblog
 昼飯食った後、オフィスでじっとしてても退屈なので、
駅の近辺をウロウロと徘徊するのが習慣なのだが。

 このクソ暑い8月のさなか、献血の呼びかけやってる
方とかいらっしゃいますな。ある程度社会的な体験を
積んでるであろう中年の方が、「今血液が足りません」
「あなたの貴重な献血がひとの命を救います」的な論
法で、拡声器持って通行人に呼びかけている。町田駅
近辺でもたまに見かけるのだが、あの呼びかけに応え、
いそいそと献血に出向くひとてのはいまだ見たことがな
い。

 考えてみりゃそれも当たり前な話で、町行く通行人ほ
ど、「良心」やら「責任感」から遠く離れた人間もいない
と思う。群集に埋没することによって、その手の面倒な
事柄から逃避できるのだから。そういう「通行人」に向か
って、「人間としての良心」やら、「病気の人間に対する
責任感、義務感」を煽ったところで、それこそ蛙のツラに
水、無視して通り過ぎるのも当然なのである。

 ここでひとつ攻め方を変え、アキハバラあたりのネット
リとした土地で、こんな呼びかけをしたとする。「さあ、献
血したり献血したり。献血すれば、あなたの血が小倉優
子みたいな美少女に輸血されるかもしれないよ~」 結
構、献血者が増加すると思うがどうか。気持ち悪いことは
否定せんが。

 「献血=病人への献身、擁護」としてしか考えないと、必
要以上に他人に尽くしたがる変態しか寄って来ない恐れ
がある。ここはひとつ、「献血=自分の体液を他人に注入」
という考え方で。たぶん、別の種類の変態がたくさん寄っ
てきて、自らの「体液」を寄付するのではなかろうか。

 しかしあの「血」、病人に輸血する時は当然「商品」として
扱われ、金と引き換えに輸血されるんだろうが。その際、い
ちばんもうけるのはだれなのだろうかね。

明日の朝ごはん

2005-08-17 21:46:26 | Weblog
 有楽町へ転勤してひと月半、そろそろ毎日の習慣も固
まりかけてきた。

 あいも変わらず昼飯については、毎日毎日うろうろと決
まらず困っているが、朝飯についてはパターンも固まって
きた。有楽町でなく、乗り換え駅で食うことが多くなってき
たのである。神田駅とか東京駅とか。

 特に神田は朝飯の穴場。カレーにホットコーヒーのセット
が350円で食える喫茶店とか、月に数回のサービスデー
にはカツカレーが350円で食える立ち食いそば屋とか。ま
あ、朝の7時半からカツカレーを食うというのは、かなり底
力がいる行動ではあるが。

 朝飯なんぞ抜いてもどうということはないのかもしれない
が、食うのが習慣になっている今、突然朝飯なしにしたらこ
れはもう耐えられないだろう。実際、わたしも数年前までは
「朝食わない派」であり、別に苦痛でもなんでもなかった。
なんの気なしに朝食をとったら、それが習慣となって現在に
至っているわけである。

 「朝ごはん抜くと健康によくない」とは、いつごろだれが言
い出したものなのか。わたし自身の経験によると、慣れてし
まえば別に苦痛でもなんでもないし、それによって健康を崩
したこともない。今の時代、朝食を抜いたところで栄養が足
りなくなるはずもない。ある意味、迷信に近いものではない
のかとも思う。

 ただ、習慣になると、朝飯食うというのはひとつの楽しみに
もなりうる。さくっとした歯ごたえのバタートーストに、ブラック
コーヒー、そしてベーコン。なんか力がわいてくるというか、ほ
っとするというか。くだらないスポーツ紙読みつつ、ぼんやりと
時を過ごす。至福である。

 さて、明日はなに食べようかねぇ。

地震

2005-08-16 22:05:33 | Weblog
 いや~、しかし今日の地震はでかかった・・・・。

 職場が結構ビルの上の方にあり、しかもそのビルが免
震構造らしくこれがまあ揺れること揺れること。輪を描くよ
うにグルグル揺れるんだこれが。マジ、「いろいろと言われ
続けた大地震がとうとうきたか」と考え、本当に膝が笑った。
で、テレビ見たら震度4。なんかだまされた気がする。

 7月下旬の、千葉震源の地震の時は外歩いていたためな
にも気づかなかったが、今回は気づき過ぎである。かねてよ
り、免震構造ビルというのは大きく揺れることでエネルギー
を分散させ、建物自体が壊れることを防ぐと聞いてはいたが、
それにしたってあの揺れ方は激しすぎ。建物の崩落を防ぐ
ためかもしれないが、中の人間は崩落以前に全員失神して
しまうのではなかろうか。

 震度4であの揺れなのだから、6や7ならいったいどうなる
のか。想像するのもなんかいやだ。

 とりあえずそこそこ高層ビル、中にいればなんとか命は助
かりそうだが、怖いのは火災。ビルの高層部分で火が回った
なら、それこそハリウッド製のパニック映画、いかんともしが
たいであろう。煙回って中毒という死に方は、果たして苦しい
のか楽なのか。煙の主成分は一酸化炭素に違いないが、ど
うも「練炭にガムテープ」の話みたいな気楽さに乏しい。

 しかし非常用持ち出し袋っての、家庭にひとつは準備すべき
ものなのだろうか。食い物や日用雑貨をひとつところに集める
のは貴重だが、アレを日常的に管理するのはむつかしかろう。

 カンパンなんておいしくもないしねぇ。


 

やっぱ寝てたい

2005-08-15 21:34:54 | Weblog
 暑いですナァ・・・・。

 当然今もエアコンのスイッチいれて、ブリーフひとつでパソ
コンに立ち向かっておるわけですが。

 実をいえばこの家、エアコン設置したのは世間平均よりず
っとずっと遅く、エアコンつけて10年たつかたたないか、とい
った具合なのだが。しかし、エアコン導入以前の夏のすごし
方というのが、今ひとつ思い出せない。夏の暑さというのは
今も昔も変わらないはずなのに。

 大学の頃など、夏休みといえば7月半ばから9月の下旬ま
で、ただひたすら横になり続けていた記憶がある。知りあい
のほとんどはバイトにせいを出していたというのに。当時の口
癖は、「就職したら40年近く働きづめなんだから、学校にいる
時くらい寝かせてくれ」であった。まあなんつーか、あの夏休
みから20年、定年まで約半分が過ぎたわけである。時という
のは過ぎてみれば早い。

 しかし、「40年近く働きづめ」とか、終身雇用制度の崩れて
いない時代の夢の如き台詞でありますな。今の学生諸氏に
は、このような感覚はあまりないんでしょうなぁ。

 「登校拒否」という言葉はあったが、「引きこもり」「ニート」と
いう言葉はなかったあの時代。「学校へ行きたくない」という
子供はいても、「家にずっとこもっていたい」という子供はあま
りいなかったんですな。そういう意味において、わたしは先駆
者だったのかもしれません。

 夏期休暇も残りあと1日。やっぱ1日寝てたいなぁ・・・・