昨晩10月14日金曜日の晩、気仙沼市港町K-portにて、行われた二人のトーク。
「どう?」と問いかけられれば、「お、サイコー、OK!」と反射的に答えてしまう、ということで話は済んでしまう。異論の在りようがない。
とまあ、そこで終わってもいいんだが、少し、当日感じたことを書き留めておきたいと思う。
事前にいただいたチラシには、こんなことが書いてある。
「私たちは、震災被災によって分散し、埋もれつつある「この地の歴史・文化・民俗的エッセンス」を抽出し、濃縮し、新しい街に受け継ぎ発展させていきたいと考えています。そして、そのような思いを可能にする一つの方法がアートかもしれない、そう感じています。/このトークセッションはアーティスト:日比野克彦さんとともに、気仙沼におけるアートの可能性を考えていく「はじめの一歩」です!」
なるほど、ここから何かが始まっていく。
日比野さんは、アサガオのことを語った。新潟から始まったらしい。廃校となった古い木造校舎の屋根から地面にロープを張り、そこにアサガオを植え、ツルを這わせ、花を咲かせるプロジェクト。
限界集落とも言われてしまうような山間の小さな集落の住民が、ロープを張り、種を蒔き、それが芽吹き、ロープを伝い、屋根まで達する。ところどころ花を咲かせさえする。
校舎の前面がアサガオのグリーンのカーテンで覆われ、以前の校舎とは、全く違うものに生まれ変わっている。
これが、アートである。
はじめ、日比野がアートと語った際には、ぽかんとして座り込んでいた住民たちが、種を蒔き、と言った瞬間に、土ならば自分たちの領分と、いきいきと目を輝かせる。
ひとりひとりが自発的に動き始める。
さらにいえば、種は、自ずから芽吹き、ツルを伸ばし、花を咲かせる。
内在する力が解放され、成長が始まる、という。
日比野さんの話に合わせて、地元のアーティスト・齊藤道有がハンドルするパソコンからの写真、適時に次に進み、後戻りし、時に数枚前に戻りという具合に、話の進み具合に合わせて最適の写真を見せてくれる、その映像操作が、分かりやすく内容を伝えてくれもする。
ツルに覆われた校舎の手前の切妻側の壁面には、日比野さんの手になると思われる「DAY AFTER TOMORROU」のペンキの文字がさりげなく描かれている。
これがアートである。
「DAY AFTER TOMORROU」というのは、明日の次の日という未来へ向けてのアクションであることをあらわすと同時に、単純に「あさってのあさがお」という頭韻の語呂合わせであるに違いないとにらんでいるのだが、ありものの校舎に、そういう文字を付加するということこそは、アートなのである。
日比野流のアート、と言ってもいい。
たとえば細密画を、長い時間をかけて自分一人の手で描き込んでいく、作品の細部に至るまで、自分の手で緻密に作り込んでいく、すべてを厳格にコントロールしていく、そういうタイプの芸術もある。というか、普通に芸術と言った時には、そういうものをイメージしている場合が多いはずである。
しかし、日比野さんはそういうことはしないようである。
ふっと、何ものかを投げかけて、あとは、自ずから生成していくものを待つ。そこにあるもの、あるいは、そこに集まっている人々に、なんらかの魔法をかけて、自発的に育ち始めるのをじっと待っている、みたいな。
新潟で始まったこのアサガオ育てのムーブメントが、熊本だとか金沢だとか、北海道だとか全国に広がって行ったという。そういうなかで気仙沼の階上にも、やってきたらしい。
階上中学校の仮設住宅にも、アサガオの緑のカーテンは増殖したのだという。
芳賀さんという、中学生の女の子の心にも、日比野さんは何かの種を植え付けたらしい。
さて、夕べのトークにおいては、人々の自発性、自ずから湧き上がってくる力のことが語られた。みんな参加しよう、みんな何かに取り組んでみよう。
それは、全くその通りのことである。
さて、気仙沼という場所について、語られてきたことのうちに、みんなバラバラで、まとまりがない、グランド・デザインがない、ということがある。
様々な人びとが、その場所で、自分勝手に思いついたことをばらばらに始め、ばらばらに活動し、ばらばらに作り上げている。
実は、それは、エネルギーに溢れた地域の力の表れであったりする。
しかし、それを一つにまとめれば、もっと素晴らしいものができるのではないか。統一感のある見栄えもある素晴らしいものができるのではないか。
そういうことを実現するためには、強力なリーダーが必要なはずである。人並み外れた想像力をもち、創造力を発揮できるデザイナー、建築家、都市計画家、演出家、監督、芸術家。厳密な構想の絵を描いて、それを実現できる腕力のある人物。そんなスーパーマンが現れなければ、美しい街は実現することができない。
それは確かにそういうことに違いない。
気仙沼の街をアートにするためには、まさしくアーティストが必要である。
昨晩のトークでは、アーティストの必要性が、あからさまに語られることはなかった。
いや、もちろん、日比野克彦が語り、渡辺謙が語っているのだから、それは、自明の前提だったのだとも言える。言わずもがなのことだと。それは日比野さんであり、謙さんであると。
まあ、それならそれもいいわけである。というか、それはとても有難いことである。
しかし、あの場で、明示的には語られなかった。
だが、とにかくアーティストは必要なのである。それは間違いがない。
ここからはちょっとはしょる。
そのアーティストは、独裁者であってはならない。専制君主であってはならない。ゼロから隅々まで設計書を書き込んで、寸分たりともそれと違うことを許さないような設計家はいらない。
しかし、一方で、われわれ地域の住民が、コントロールする人なしに、個別にばらばらに好きなことをやっているのでは、アートになることは決してありえない。
アートは、外からやってくるのである。(このトークのテーマは、まさしく「街にアートがやってくる、なんてどう?」であった!)
いや、これは地理的な外ということではない。ひとびとと同じ役割でまったく対等に存在する、ということでは、この場合のアーティストたりえない。違う役割、抜きんでたある種の才能でもってこの場に立ち会う人が絶対に必要である。
専制君主ではないアーティスト。違いを許さない不寛容な設計家ではないアーティスト。
求められるアーティストとは、つまりは、ファシリテーターである。
夕べの日比野克彦さんは、お話を伺うに、独裁者ではない、不寛容ではないタイプのアーティストである。
ひとびとの自発性を待ち、自ずから成長してくる芸術性をこそ拾い上げるようなタイプの芸術家。内在する力の発露を、ちょっと交通整理して、ちょっとだけ手を加えて美しく造形していくようなタイプの芸術家。寛容な芸術家。整理し纏める人。ファシリテイターである。
日比野さんが、気仙沼を見出して、気仙沼のために骨を折ってくださるのなら、それは、本当に有難いことである。そうしてくださるに越したことはない。
この役割は、言ってみれば、渡辺謙でも糸井重里でもよい。石山修武早稲田大建築科教授でもよかったかもしれない。もちろん、伊東豊雄でも隈研吾でもよい。
だがしかし、リアス・アーク美術館の山内宏泰でも、ひょっとすると若い芸術家・斎藤道有でもよいのかもしれない。あるいは、会頭でも市長でも。
個人ではなくて、すぐれた芸術家とプロデューサーによる少人数のグループでもよいかもしれない。
私が思うに、ここで肝心なのは、私たち地元の人間が、総意として、そのアーティストを選ぶ、という行為である。
アーティストが、天下りのように押し付けられるとか、勝手に自分の思いを地域に押し付ける、などということでは絶対にうまくいかない。うわすべりで、長続きせず、すぐに忘れられてしまう。
つまり、われわれ気仙沼の人間が、いったい誰を、この街のアーティストとして選任するのか、ということが肝要な問題である。自分のデザインを押し付けるのでなく、われわれ気仙沼の人間の思いや蓄積をうまく引き出していけるアーティスト。
よく見ると、冒頭に引いたチラシの文言はこうであった。
「…「この地の歴史・文化・民俗的エッセンス」を抽出し、濃縮し、新しい街に受け継ぎ発展させていきたいと考えています。そして、そのような思いを可能にする一つの方法がアートかもしれない…」
なんだ、謙さんのもくろみは、まったくそういうことであった、ということか。あえて、私が贅言を弄する必要はなかったのかもしれない。
ところで、その場で、菅原茂市長が、気仙沼の港に係留されている漁船たちには表情があると語っていた。
「すぐれた漁労長のもとで大漁している船は誇らしい顔をしている。漁のない船は暗く沈んだ表情をしている。生まれてから内湾を見続けて育った私には、そういう漁船の表情が見える。」
また、いま、内湾一帯は地盤沈下して、湾の水面に対して視線が低くなっているが、この低い視線から見る内湾は、以前よりもやさしく見えるのだと。
「共感覚」などとも呼ばれる事態だが、こういう感覚は大切にしたほうが良い。港町気仙沼にとっては、なんとも、それらしい、ふさわしいことではないか。
こういう市長の感覚は、何らかの形でうまく実現されていくとよいのだが、と思う。こういう見え方を大切にして、そこから何かが実現していく、ということこそ、アートであり、まさしく気仙沼らしいアートになりうるのだ、と思う。
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