ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

熊谷達也 希望の海 仙河海叙景 集英社

2016-05-05 13:24:15 | エッセイ

 震災以降、熊谷達也氏が書き続ける仙河海シリーズの単行本として5冊目。これまでの4冊は、それぞれが一編を成す長編であったが、今回は、連作短編。ほとんどが「小説すばる」(集英社)に掲載のものだが、一編「ラッツォクの灯」のみは、「小説新潮」(新潮社)が初出。

 帯に熊谷氏のコメントとして、「この小説は、震災から5年かかって辿り着いた私の到達点です」と。

 3月12日(土)の気仙沼市館山、アンカーコーヒー・マザーポート店にての講演会の折、買い求めたサイン入りの本である。この講演会のことは、前に、ブログで紹介している。

 仙河海叙景とか、仙河海サーガとか、仙河海コメディ、仙河海人間喜劇とか、このシリーズについては、呼び方があるが、どれも、東北地方三陸沿岸の小都市、宮城県最北端の港町「仙河海市」が舞台となっている。

 もちろん、仙河海市などというまちは、地図のどこを探してもない。

 でも、それは、確かに、存在する。

 わたしは、長く小説も読み続けているが、相当に偏った読み方をしているので、あれではあるが、ここに収められた9つの短編は、どれも優れたもので、私などは、いちいち涙なくしては読めない、などと言ってしまう。

 それぞれの短編は、独立した作品だが、すべてが連関している。「仙河海」という架空のまちに住む住人が、交代で主役を務めている。ある作品に登場した脇役が、別の作品の主役になっている。スーパーで見かけたひと、カフェで隣り合わせたひと、小学校の同級生、職場の同期…

 それらの主要な登場人物は、もちろんすべて架空の人物である。しかし、どこかこのまちに現実にいそうな人物たち。ほんの少しだけ、この人物のこの部分は、私とも重なる、と思える人物もないではない。

 さて、ちょっとだけ紹介するとすれば、今回の作品中では、「ラッツォクの灯」かな。震災の後の仮設住宅での、家族を失った高校生の兄と、小学生の妹のエピソード。

 ラッツォクとは、何かと言えば、

 

 「ラッツォクというのはお盆の時の迎え火と送り火に焚くオガラのことだ。この地域の方言なのだが、平安時代の蝋燭(ろうそく)の読みが「らっちょく」あるいは「らっそく」だったのが転訛したらしい、という説があるようだ。…(中略)…/ところが去年、市内のあちこちで迎え火や送り火が焚かれる光景が復活して、その様子がニュースで流れた。とりわけ、津波によって土台だけになった家の玄関先で、家族を亡くした遺族が迎え火を焚いている映像が印象的だった。」(253ページ 「ラッツォクの灯」)

 

 夕刻に灯をともすラッツォクのはかない美しさ。ラッツォクを焚くということが、重要なシーンになるということはいうまでもないこと。はかなくも美しく悲しい物語である。末尾近くまで読み進めながら、こみ上げてくるものを抑えることが出来なかった。

 具体的に何が、ということは、もちろん、実際に読んで確かめてほしい。恐らく、気仙沼出身の作家・須藤文音さんなら、この作品は特に好きだろうな、というと少し、ヒントになってしまうかな。

 ところで、このシリーズではいつものことになるが、現実のモデルのある人物が、脇役で登場しているのが、楽しみのひとつではある。今回も市内の某水産関係会社の社長のような登場人物が、いい役をもらっている。たぶん、映画になれば、相当な美人女優が演じるであろう主役に、そうとういいポジションで絡む役である。うらやましいこと限りない。これは、ご本人に演じてもらうのが最適だとは思うが、あえて、プロの役者をあてるとなれば、誰だろうな。

 ま、このあたりは、ご想像に任せるということで。

 冒頭の「リアスのランナー」と、末尾を飾る「希望のランナー」で、この本のタイトル「希望の海」も重ねて、美しいヒロインが未来へ向かって走っていく、さりげなくその後押しをしてくれる男。カッコいいこと限りない。

 気仙沼の男は、こんな男ばかりなのである、と言っておきたい。

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