ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

國分功一郎/山崎亮 僕らの社会主義 ちくま新書

2017-09-03 12:10:52 | エッセイ

 國分氏は、気鋭の哲学者、さらに思想家と呼ぶべき存在となっているし、山崎氏は、コミュニティデザインの第一人者ということになるのだろう。

 このお二人の対談は、國分氏の「民主主義を直感するために(晶文社)」に収録されており、深く感銘を受けたところである。

 山崎亮氏については、先般、気仙沼で講演された折の様子を書いたところだ。

 東北芸術工科大学の教授、さらに気仙沼市の次の総合計画策定のコンサルティングを担う、スタジオLの代表者である。

 

 國分氏は、「はじめに―ポストモダンの素敵な社会主義」と題して、次のように書きはじめる。

 

「いま、「社会主義」と銘打った本を出すのは決して容易なことではない。前世紀におけるその壮大な実験に失敗の烙印が押されていることは否定しがたい事実であろう。」(7ページ)

 

 社会主義など、現今、流行らないし、嫌われているといっていい。しかし、だからこそ、彼らはあえて、このタイトルを用いたのだろう。インパクトはある。

 

「コミュニティデザインと哲学を生業とする僕ら二人は、偶然に知り合い、そしてまた偶然に互いが共通の関心を抱いていることを知った。二人ともラスキン、モリス、オウエンらの名前で知られるイギリスの初期社会主義に強い関心を抱いていた。ぼくらはただ、語り合わずにはいられなかった。」(7ページ)

 

 この初期社会主義とは、エンゲルスによって「空想的社会主義」と切って捨てられた思想である。あるいは、諸思想、統一されたひとつの主義というよりは、様々なひとがとなえた様々な思想。

 

「山崎さんも僕も、イギリスの初期社会主義に魅了されていた。…二人とも心奪われていたのである。…一言で言うならば、それはとても素敵な社会主義である。楽しさと美しさを心から肯定する、そのような考えの社会主義だ。」(8ページ)

 

 では、なぜ、今、彼らは、社会主義に魅了されている、と言うのだろうか?

 

「國分…二一世紀の現在、社会の状況は一九世紀に近づいてしまっています。労働者の権利が骨抜きにされ、貧困と格差が大きな問題になっている。」(13ページ)

 

 ブラック企業だとか、過労死とか、メンタルがどうこうとか、そういう言葉に象徴されるように、現在の就労状況が、大きな問題を抱えていることは明らかなことだ。

 こういう状況を、革命で一挙に変革、問題解決してしまおうということではなく、社会主義と呼ばれる思想の中に、よきヒントを見つけて行こうとする姿勢と言っていいだろうか、特に山崎氏のスタンスは。

 

「山崎…國分さんと対談させてもらって、社会主義にもいくつかの種類があって、十把一からげで社会主義を否定してしまうのは、その中に埋もれている大切な宝が見つけられないことになるんじゃないか。そんな気がしました。」(14ぺーじ)

 

 山崎氏は、労働の楽しさ、その結果としての製品の美しさに着目する。

 

「山崎…彼(モリス)は常々「機械で作った粗悪品を使っていてはダメだ。生活まで貧相なものになってしまう。良質なものを使う生活を実現しなければならない」と言っていました。また、「美しいものは、それを作った人が楽しみながら仕事した結果でなければならない」とも言っていました。つまり、「楽しく働いた結果としての美しい製品に囲まれた生活」を広めたいと思っていたわけです。ところが、楽しく働いた結果としての美しい製品は値段が高くなった。工場で楽しくない労働によって出来上がった粗悪な製品のほうが安い。その結果、モリス商会には金持ちばかりが通うようになってしまった。一人でも多くの人たちに美しい生活を広げたいと思っていたモリスは悩んだことでしょうね。結果的に、モリスは製品の作り方や販売方法だけでなく、社会のあり方自体をデザインし直さねばならないと考えた。」(28ページ)

 

 そして、國分氏は、その流れの中で生活に「パンだけでなく、バラも」と、モリスの言葉を取り上げる。

 

「國分…モリスはそこから芸術に彩られた生活、僕の言葉で言えば、パンだけでなくてバラもある生活を提唱した。モリスにとって芸術とは、有名作家が作ってそれを金持ちが買い取るというような商品ではなくて、広い意味で人々の生活を豊かにするためのものでした。」(30ページ)

 

 山崎氏が代表を務めるstudio-Lは、コンサルタントとして、気仙沼市の新しい総合計画策定に関わっておられるが、こんなことを述べられている。この本の文脈的には、筋の通ったお話である。

 

「山崎 自分でマネジメント(ハンドリング)している割合が多くなれば、楽しさも増してきますからね。ラスキンが分業を嫌ったというのも、これと通じる話ですね。分業では仕事が分けられるだけでなく、人間自体もまたバラバラに分けられてしまう。そういう働き方・生き方をしていれば、人生を楽しむことができない。僕はこの考え方に少なからず影響を受けているので、studio-Lのスタッフにも「地方自治体の担当者とチームをつくったらきちんと企画を書き、住民と対話し、成果物を美しくつくり、最後まで責任を持って取り組みなさい」と言っています。できるだけ分業をしない。そういうシステムにしていますね。」(109ぺーじ)

 

 今朝(平成29年9月3日(日))の地元・気仙沼地域をエリアとする三陸新報の一面トップが、総合計画策定について、「市民主導で議論重ねる」と、写真入りで大きく紙面を使い報道されている。studio-Lが関わる計画づくりである。大いに期待しているところだ。

 

 第3章は「ディーセンシーとフェアネス」と題されている。

 人間が平等に生きていくべきというときの平等とは何か、という問題である。これは、なかなかに難しい問題をはらむものだ。

 

「國分…僕は「平等」という言葉にこだわりたいと思う一方で、やはり使い方が難しいこの言葉を言い換えた方がいいかもしれないという気持ちもあって、その点でフェアネスとディーセントというのは、これらを日本語にどう翻訳するかという問題はさておき、とてもいい言葉だと思う。「誰しもがディーセントな暮らしのできるフェアな社会」は目指すべき社会像のイメージとして悪くないのではないか。」 

 

 ディーセントの言葉の意味は、この引用の直前にもいくつか並べて書いてあるが、ぜひ、この本を読んでいただきたい。

 ちなみに、私はこの言葉、数十年前に大江健三郎のエッセイだったか、小説ではじめて出会い、それ以来、好きな言葉のひとつである。「静かな生活」いう小説だったか。

 

 ところで、先日8月26日に開催された自治体学会山梨大会の自治体職員の仕事についての分科会で、会場から挙手して、少し発言させてもらった。

 自治体の仕事は、福祉の増進、ひとを幸せにする仕事であるが、先進的な良き事例は全国に情報が伝わり、他の自治体に対して良き前例になり、学ぶべきものとなり、やがて到達すべき課題になり、さらには少しでも良き点数を目指して競争に投げ込まれてしまうというような実態がある。これは、良きことであると同時に、悪しきことにもなってしまうという現代社会の大きな問題点である。グローバル化の両側面というべきか。そのとき、ひとを幸せにするというときの「ひと」、それが地域の住民であることに間違いはないが、その「ひと」には、職員自身も含まれていることを忘れてはならないのではないかと発言した。そして、たまたま読書中のこの本を引き合いに出して、「ひとの生活にはパンだけでなくバラも必要である」と述べた。会場内では一定の共感をもって受け止めていただいた感触はあった。すると、次に発言された方は、移動の車中でこの本を読み始めたばかりという方であった。

 もちろん、これは狭く自治体だけの問題ではない。すべての企業のすべての職場に当てはまる問題である。抽象的な秤の目盛りで良き点数を目指すばかりでなく、いつも具体的な等身大の人間の関わり、ということを忘れてはいけないのだ。そこには、パンはもちろん必須であるが、バラも必要である。おいしいコーヒーも必要なのだ。そして、もちろん、美しい労働の成果物も。

 ということで、「僕らの社会主義」、広く読まれるべき書物である、と私は考えている。

 

 以下、私のブログで紹介したもの。

國分功一郎「民主主義を直感するために(晶文社)」

http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/fc86f5efc49f8049aeaa5e9c543cbbaa

 

 山崎氏の講演について

第2次気仙沼市総合計画キックオフイベント「これからの気仙沼を考える市民フォーラム」に参加しての感想

 

 http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/4d8b60dde6c7eb8c52eaa51a61adccdf

 

 


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