ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

柴田元幸、高橋源一郎 小説の読み方、書き方、訳し方 河出文庫

2017-03-20 00:43:24 | エッセイ

 こういう本は、とにかく、読んでいて楽しい、うれしい。気楽に読めるし。

 2009年に単行本『柴田さんと高橋さんの「小説の読み方、書き方、訳し方」』として出版され、2013年に文庫化されたとのこと。8年前か。

 柴田氏は、翻訳家。1954年生まれ、東大教授を退官して名誉教授。

 高橋氏は、小説家。1951年生まれ、明治学院大学の教授だが、もともと学者ということではなく、小説家であることから、展開して大学教という経過。柴田氏は、もともと学者で、その後翻訳家、という経過である。

 

「僕がたくさん訳しているのはもう否定しようもない事実なんですが、じゃあものすごくたくさん読んでいるかというとそんなに読んでいない(笑)。ときどき、読まなくても訳せるような気がしてしまいます(笑)。」(柴田 16ページ)

 

 読まなくても訳せるなどということはあるはずがないが、柴田さんなら、実際、できそう、みたいに思えてくる。名人芸、の域に達しているはず、とか。

 ま、それは、置いておくとして、柴田氏が、翻訳を始めたきっかけは、村上春樹らしい。

 

「村上春樹さんによるアーヴィングの「熊を放つ」のプロジェクトが最初ですよね。」(高橋 85ページ)

 

 村上春樹の訳文を、専門家5人でチェックする、ということをしたらしい。

 それ以降、そのチェック役を続け、現在は柴田氏ひとり残っていると。

 それまでは、英文学者ではあっても、翻訳家ではなかったと。

 

「自分の翻訳をする前から、村上さんの翻訳を舐めるようにチェックする仕事を何冊かやらせてもらって、その中で「あっ、これはこう訳せばいいのか」みたいに、なんとなく思ったことがいっぱいあった。それが僕にとっての唯一の翻訳の勉強で、あれは得難い経験でした。「そうか、こういうふうに主語は抜いていいんだな」とか「こういうふうに引っくり返してもいいのか」とか、実際のノウハウの基本を学べたと思います。」(柴田 86ページ)

 

 そうか。これまでは、柴田元幸が、村上春樹の翻訳の先生なのだと思い込んでいた。実際には、ことのなりゆきは逆だったわけだ。言葉自体の意味とか、使われ方の例とか、学者として専門的な知識はあるとして、英文を具体的にどういう日本語の文章に置き換えていくか、その呼吸のようなものも含めて、村上春樹に学んだのだという。なるほど。これは、発見だった。

 このふたりの関係性は、どちらかが一方的に先生であるというのでなくて、お互いに、先生であり、教え子であるという非常に特殊なもののようだ。現在の日本文学において、全く特別な二人組、現在の文学的達成のある部分を担った特別なチーム、であると言えるのではないか。

 片岡義男のことも出てくる。

 

「僕も自分で原文で読む以外に、柴田さんとか植草甚一さんとか、そういう人たちが輸入してくれたアメリカ文学像というのがあって、その一つに片岡義男さんがいて、僕はすごく面白い存在だと思ったんです。片岡さんって人は、もしかすると村上春樹になっていたかもしれない存在だったと思うんです。」(高橋 92ページ)

 

 ここは、なんとも、意外な言葉である。

 片岡義男は片岡義男であって、村上春樹になる必要はないはずである。ああ、しかし、そうか、村上春樹は、そういう存在になってしまっているということか。

 片岡義男は、最近、再発見したところだ。

 2014年に、翻訳家鴻巣友季子との共著「翻訳問答」(左右社)を読んで、おや、と思い、昨年暮れに、短編集「豆大福と珈琲」(朝日新聞出版)を読んだ。

 なるほど、これは、と膝を打った、というようなこと。

 私としては、村上春樹は、デビュー当時、「風の歌を聴け」とか、ピンボールとかの時は、まんが家のわたせせいぞうとか、片岡義男とかと同じ括りと捉えていた。軽くておしゃれでセンスがよくて、まあ、ウェスト・コーストのビーチ・ボーイズみたいな。

 その後、どんどん深く高く豊饒になって、重さもあって、大江健三郎のような、というと違うのかもしれないけど、私の中では、別格のものになっていくわけだが、一方で、片岡義男は、あえて、買って読むとまでは行かない存在であり続けた。「スローなブギにしてくれ」は、映画で見て、レコードは買って、さんざん聴いてカラオケでもさんざん歌ったが、ひょっとすると本としては読んでいなかったかもしれない。

 ここ数年で、どこかの雑誌かなにかでちらと出会って、おや、というところがあって、「翻訳問答」という興味を引く本が出たので、読んでみたら、これはこれは、かなり興味深かった。いまさらこんなことを言うのは単なる無知をさらすだけかもしれないが、相当の学識の方だったのだと気づかされた。

 で、最近「豆大福と珈琲」を読んで、まあ、これが、コーヒーのこと、喫茶店のことでもあり、いちいち、そうそう、そうだそうだ、みたいなことになったわけだ。出てくる女性が、これがまた、みな、それぞれに魅力的でないものはない。端的に言って「ノックアウトされた」と。

 

「片岡さんの小説は角川文庫に入って映画にもなって、青春小説として消費されるという不思議な運命をたどるんですけど、あれは変な小説で、何のリアリティもない話が延々と続いているんです(笑)。だから今はあんまり片岡さんの小説って読まれてないと思うんですけど、僕はある意味、片岡さんが早すぎたのかなって思って、もちろん村上春樹さんとは非常にタイプが違うんですけれど、共通性のほうが大きかったかもしれないと思うんです。それは、小説よりも先にライフスタイルがあるという考え方ですよね。」(高橋 93ページ)

 

 高橋が「読まれていない」というのは、この対談の行われた2008年か9年ころのことであり、「豆大福と珈琲」は、2016年の出版である。

 ということで、存分に楽しませていただきました。ちなみに、解説は鴻巣友季子氏。

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