ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

佐々木中 戦争と一人の作家 坂口安吾論 河出書房新社

2016-10-17 00:30:56 | エッセイ

 安吾と言えば、堕落論。高校の教科書で読んだ記憶がある。というか、いずれにしろ、安後の著作は独立した書物の形では読んだことがない。高校の教科書でしか読んだことがない、と言って間違いないはずだ。

 私の場合、こういうことはままあって、誰かの本自体は読んだことがないのに、その誰かについての評論は読んでいる、というのがある。実は教科書でしか読んでいない作家というのもままある。

 告白みたいになるが、実は漱石は、少年少女向けにリライトされた「坊ちゃん」以外は、教科書でしか読んだことがない。しかし、漱石についての評論は、ずいぶんと読んでいる。いま、いちいち思い出すこともできないが。

 さて、この安吾論の帯にこう書いてある。

 

「君はもう堕落している。」

 

 安吾は、「堕落論」で「堕落せよ」と叫ぶ。しかし、われわれはもう既に堕落しているのだ。「堕落」から「堕落」する。

 「堕落」した地点から、さらに堕落することによって、なんらかの開けた場所にたどり着くことができる、ということなのだろう。

 これ、「マイナス」の「マイナス」は「プラス」であるというごく当たり前の、つまらないお話し、といえば、まさしくその通りのことだ。

 しかし、そんな解釈で、すべて分かった気になっているとしたら、まさしくお笑い草ということになる。

 では、いったい、どういうことなのか?

 その回答は、この本の中に、それなりには書いてあるはずである。

 

 「堕落とは何か。それは、ある道徳性、ある制度性から脱落し、その道徳、制度を破却することである。しかしその堕落が『母胎』となって『案出』するのは、次の『制度』であり、道徳性である。その次の「制度」からもいつか人は堕落するだろう。せざるをえない。」(158ページ)

 

 永久革命のようなものである。

 しかし、実は、民主主義というものも、出来合いの制度を崩し、そこから新たな制度を創造し、その制度が既存の制度となって、破壊されというふうに、繰り返していくものなのだ。永遠に完成はないのである。

 

 帯の惹句の続きは、

 

「『戯作(ファルス)』を求めた作家・坂口安吾はなぜ特攻を賛美したのか――?」

 

 そうか、安吾は特攻を賛美していたのか。

 ところで、ファルス、というのは精神分析関係の書物では男根―肉体の一部である男根そのものというよりは、象徴的な男根、ひとびとのイメージの中に奥深く巣食っている攻撃性であったり、色欲そのものというか―のことなのだが、ここでのファルスとは戯作、笑い話、笑劇のことで、そもそもまったく別の言葉のようである。

 笑い話の方は、farce。男根は、Phallus

 なるほど、全然違う。

 佐々木氏は、当然、カタカナで書いたときに、それだけではどちらと見分けがつかないことは先刻ご承知のことである。むしろ、そういうことを念頭に、前提に書いているわけである。しかし、混同してはならない。佐々木氏も、決して混同していない。あくまで、笑劇のほうのfarceである。

  

 「安吾の一連の創作の過程は、大きく、あまりにも大きくうねっては驚嘆すべき傑作とひとを唖然たらしめる駄作をそのつど生み出し、後世へ多種多様な種を撒き散らすことになった。その連続するうねりの一つずつが、その手になるファルスの定義を裏切っていくことを、われわれは見ることになるだろう。そしてその試行錯誤を抜けて、――戦争をもくぐり抜けて――或る遙かな地点に達することを、それをよく見るためにも、まず厳密にかれ自身のファルスの定義を追わなくてはならない。」(7ページ)

 

 理路は整然としているようだが、しかし、一読、何を描いているのか、瞭然ではない。

 そのファルスの定義をここに引いても良いが、その定義を抜き出して読んでも、さほど意味あることにはならない。

 丹念に、この小難しい書物のページを手繰っていくほかはないものだろう。

 ときおり、こういう理路の分かりづらい書物を読むということも必要なことだ。

 

 さて、この書物は、「安吾論」の後ろに短く「はだしのゲン」についての論が掲載されている。「ゲン、爆心地の無神論者――『はだしのゲン』が肯うもの」。広島での講演をもとにした評論のようである。

 

 「ここで、敢えてこういわなくてはなりません。『はだしのゲン』は偉大な凡庸さに徹した漫画です。(「偉大な」から「です」まで傍点あり。)愚直に証言し凡庸に反戦・反核を訴えた漫画です。それでいいのです。だからこそよいのです。」(251ページ)

 

 確かに、それでいいのだ、と思わされる。愚直な、力のある文章であると思う。実際の公演も聴いてみたかったとも思う。

 

 「……そうですね、悪い物を食うてしまったんです。われわれは中沢啓治先生の『はだしのゲン』という、すばらしく悪い物を食ってしまった。とてもとても悪い物を。すっかり「かわいそうに」「頭にきて」しまった。どうしても忘れられない。どうしても吐き出すことはできない。/だから重傷ですね。すっかり頭にきてしまって、ゲンのように言い続けることになってしまった。「わしの絵を見て 世界中が平和になるようにしてみせるぞ」と。「原爆は絶対になくさんといけんのじゃ そのためなら、わしゃ何回でも本をつくって みんなにみせてやるわい」と。何度だって、何度だってね。」(280ページ)

 

 と、この論は閉じられる。

 ところで、「藝術」の表記のことだが、まあ、とやかく言うことでもないのだろうが、これ以外は、いっさい文語体でもないし、旧かなづかいでもないし、正字を使っているわけでもないのに、芸術だけ、藝術と表記するというのは、どうなのだろうか。でもこういう衒学的なところが、また、心地良いところもある。この作家の愛すべきところでもあるのだろう。

 実は、この本、読み終えて2週間近く経っている。冒頭だけ、少し、書いて放置していた。なかなか書きづらかった。今夜も、書き終えなくてもいい、とりあえず、いくつかの引用個所を書き留められればいい、という程度で開いたところだ。しかし、なんとか、それなりのまとまりまで書き進め、とりあえずの終わりまで来ることができた。

 

 で、この本を読んで、安吾を読みたくなったか、といえば、そう簡単ではない。この本で、一定程度つかめた、というふうに思えた、といえばそういうことかもしれない。


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