らーめん茂助オフィシャルサイト!

東京赤坂『らーめん茂助』店長の味のこだわり、味との闘いを毎日書き上げていきます。

9・11におもう

2004年09月12日 | グルメ
 私はジョン・レノンが好きだ。それは理屈じゃなくて体がジョンの声を求めているのかもしれない。しかし、イマジンやパワー・トゥー・ザ・ピープルは好きではないと思っていた。世界の人類は1つといった考え方は好きになれない。そんな気持ち悪い考え方には嫌悪感さえ持ってしまう。世界は平和の中で動くはずはない。戦争と戦争の間の休戦状態が平和であるに過ぎない。世界平和をどう実現するのか。そんなもの実現なんてしないのさ、と私は答える。
 3年前、ワールド・トレード・センターのテロでいろいろな人がコメントしていた。「テロ対策を充実すべきだ」とか「事件の背景にあるアメリカとイスラム諸国の関係を理解すべきだ」とか知識人と称する連中が相当に的外れな議論をしていて、私にはしっくりこないオピニオンばかりであった。それは本質とかけ離れすぎた言葉遊びに過ぎないからだろう。
 それでは私に確固とした考えがあるのかと問われると、ない。ひとつ私が思うのは、戦争や対立が共同体を媒介にして起こっているということということである。私たちはおのおのの生活において共同体としての国家やたとえば、会社などの組織から恩恵をこうむっている。といってそのような共同体を構成するのは私たち一人一人の個人であることは間違えない。その個人である私たちは本来は幻想として概念化されているに過ぎない共同体に実体を感じて生きている。共同体と共同体のあいだで利益の対立があった場合、私たちは自分が所属すると思い込んでいる組織に価値を見出そうとする。そして戦争がおこってしまう。アメリカ対イスラムの対立構造を作り上げているのだ。
 戦争なんてなくなるわけがないと私は断言してしまったが、私に何か解決法があるのかというとない。このことも述べた。それではあまりにもニヒルなので、私はこう考えることにしている。国家をはじめとする共同体意識を破壊すればいいと。なぜなら戦争は共同体が利益を確保するためにはじめられることだからだ。こんなことをいうと右翼に怒られるかもしれないが、右翼せよ左翼にせよ、暴走族の連中とおなじで、一人では何もできない、組織の背景があって初めて自己主張しているに過ぎない。そこで組織間の対立が生まれる。個人になりなさい。といって個人主義を礼賛しているわけではないのであるが。
 個人のつながりに国家や国籍は関係ない。人を愛してしまうのは理屈じゃない。その相手の属する背景なんて考えて恋をするナンセンスなやつがいるだろうか。肌の色なんて気にならない、恋する相手に関しては。つまり、個人と個人がお互いに理解して、理解しようとして、人のつながりが生まれるのである。このつながっていること、このことが大切であり、それが少しずつ自分のまわりに広がっていくこと、そして自分が知らない人にまで何かが伝わっていくこと、そしてそのネットワークが国境を越えていったとしたら少しは世界もましになるような気がする。これで戦争が回避されるかというとどうだか知らないが、根本的に共同体幻想が人類の対立を生む以上、個人的なつながりが本質的解決法としかいいようがないのである。あなたのそばにいる人たちを思いやっているだろうか。あなたのとなりにいる人を愛することができないなら、それより大きな共同体をどうして平和に導くことができるだろうか。ジョン・レノン的平和ではなくて、個人と個人の余計な概念や抽象論など介在しない、具体的で現実にある人のつながりに目を向けることが9・11の悲劇を避ける方策なのかもしれない。それでも人は殺しあうと思うが。
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スパイス狂時代

2004年09月12日 | グルメ
 ポルトガル人が喜望峰を越えてインドのマラバール海岸に到達したのは1498年のことである。1510年にはインドのゴアを占領しアジア支出の拠点としている。翌1511年にはマラッカを占領し、モルッカ諸島に到達している。15年に満たない間、一挙にポルトガルはアジア進出した。ポルトガル人たちを航海へ導いたものとは何だったのだろう。
 ヨーロッパでは古くからキリスト教国に関する一つの伝説があった。キリスト教徒のプレスター・ジョン王が統治する国が世界の果てに近いところにあるという伝説である。そこは地上の楽園というべき国で果物が至るところに実をつけ、ワインが川になって流れている、まるでエデンの園みたいな土地であるという。
プレスター・ジョンの国がインドなのか中国なのかはっきりしていたわけではない。マルコ・ポーロの説いた「カタイ国(中国のこと)」と考えられたり、インドと考えられたりした。といっても、当時のヨーロッパ人はインドや中国が実際に存在していることを確かめたわけではなく、どこにあるのかさえ分かっていなかった。
 プレスター・ジョンの王国に使者を送るべく航海計画を立てたのはポルトガルのエンリケ航海王子である。彼の後を引き継ぐ冒険家たちも地上のユートピアを探索している。ポルトガルのエティオピア探検はそのような宗教的理由が動機である。しかし、より現実的な冒険の理由は直接ヨーロッパから買い付けに行けるスパイスルートの発見と確立というところにあった。
 スパイスはヨーロッパで異常なほど人気があった。牛や豚、にしんやいわしのオイル漬けなど動物性の食物を主食にする彼らは、保存のため防腐剤としてスパイスは欠かせないものであった。肉の臭味けしとしてスパイスは有効であったし、脂っぽい食べ物にはスパイシーさがアクセントになって食べやすくなる。しかし、スパイスを争って血を流す彼らのことである。もっと切実な理由があったはずである。
 中世ヨーロッパで恐れられたモンはヴァイキングとペストであったといわれるように、ペストを初めとしてコレラ、チフスなどの伝染病がたびたび流行し、多くの人々が命を落とした。スパイスは流行病の唯一の特効薬と考えられていたのである。死の病を救う薬となればどうしても手に入れなければならない。エイズの薬が開発されれば現代人は飛びつくであろう。それと似ている。また、ほとんどのスパイスは胃腸の薬とされていた。スパイスの多い料理を前にして「胃に悪そう」という人がいるかもしれないが、スパイスは漢方でも胃腸の薬と考えられることが多いのである。実際に現代でも胃腸の薬として使われているスパイスもある。ともあれ、スパイスは命を救う薬であり、体の調子を整える薬であって、長い間薬局で売られていたのである。絶対に必需品となれば高価な値段が当然つく。冒険家たちは命を省みず、未知の世界に船出したのであった
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東インド会社の末裔

2004年09月11日 | グルメ
 産業革命をきっかけにイギリスの綿工業は飛躍的に発展し、インドの綿工業を破壊した。東インド会社が開拓してきたインド市場を本国の木綿工業資本家に明渡したことになる。1780年代からランカスター地方を中心に木綿工業が発展し、1792年ごろからインドからの輸入は東インド会社が独占するとしても、輸出は自由にすべきだという意見がグラスゴーやリヴァプール、マンチェスターの商人や製造業者の間で起こった。こうして1793年の条例で輸出貿易は個人商人に一部公開されることになった。さらに東インド会社は20年間は独占を許されるけれど、1813年にはインドとの貿易は全面的に公開されることになった。東インド会社のインド貿易独占は廃止された。
 東インド会社が独占を主張できるのは中国貿易だけになった。この頃イギリスは対仏大同盟の盟主として戦っていたが、1815年に戦争が終わるとフランスの脅威がなくなり、私貿易商人たちが続々とインドに渡っていった。商人たちがインドを目指した背景には対中国貿易におけるアヘンの売り込みがあった。1784年以降活発になった茶輸入は19世紀になるとますます活況を呈した。茶に対する対価としてインドで栽培したアヘンを中国に売り込み巨額の富を得ることができたからである。対中国貿易自由化を主張する商人たちに対抗して東インド会社もアヘンを大量に栽培した。
 東インド会社の中国貿易独占に対する批判が工業資本家や商業資本家によっておこった。
1833年には中国貿易の独占は廃止された。東インド会社は貿易の独占権を失ったのである。おりしも中国貿易の拠点をイギリスが獲得した時代のことである。T・ラッフルズは東インド会社の社員であった。1800年オランダ本土がナポレオンに占拠されていたときに彼はジャワ島を占領した。1814年ナポレオンが失脚するとジャワはオランダに返還されたが、ラッフルズは1819年マライ半島の突端にあるシンガポールを獲得し商業の自由を原則に港湾を整備した。インド洋と太平洋を結ぶ拠点としてシンガポールは繁栄し、イギリスの中国進出の重要な足場になった。
 インドでのアヘン栽培はますます広がり、広東へのアヘン流出は増加していった。中国政府はアヘンを禁止するがアヘン患者は増える一方であった。こうして1840年イギリスと中国の間にアヘン戦争が勃発する。シンガポールを開いたラッフルズは香港領有の必要性を主張していたが、1842年の南京条約で香港はイギリスの租借地になる。香港総督は東インド会社とかかわりが深いポッティンジャーであった。アヘン戦争は東インド会社がはじめたようなものだった。インドでは東インド会社による征服戦争でインドはイギリスの植民地になりつつあった。1857年のセポイの反乱はインド全土を巻き込んで1858年に終わる。
 しかしこのような東インド会社のやり方は批判の対象になり、1858年に東インド会社は解散させられる。1858年はイギリス本国の産業資本家の勝利を意味している。インドは1877年ディズレリー首相の下でイギリス本国が直接支配する植民地になった。ヴィクトリア女王が統治するインド帝国が成立した。しかし東インド会社の利権は形を変えて引き継がれていき現在に至っている。ジャーディン・マセソン、香港上海銀行などイギリス系の資本がインド、中国に影響力をもっている。東インド会社は歴史の教科書に登場する過去の伝説ではなく、現在進行形のビジネスとしてその末裔たちが受け継いでいるのである。
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長月の夜の雨

2004年09月10日 | グルメ
 夜の雨は人をもの思いに耽らせる。特に秋の入り口のこんな季節であれば。人はお互いに相手に近づきたくて、相手のことを知りたいとおもう。そして自分のことを知ってもらいたくて言葉にならない言葉を伝えていと思う。お互いに近づいて行きたいと願うとき、逢いたいと思う。その気持ちは夢見るような、甘い時間とともに流れていく。
 人は人のことを愛したいと思う。その気持ちのサインが時としてちょっとした誤解を相手に抱かせてしまうかもしれないとしても。そして人は一人では生きていけないものなのかもしれない。同時に自分のエゴが相手を傷つけるかもしれない。相手をやさしく受け入れようと思っていても、自分を知ってもらいたいという気持ちが勝ることだってある。すれ違い。避けては通れないこと。どうすれば相手の気持ちをやわらかく包んでいられるか分からなくなることもある。
 やわらかい雨に打たれながら、何かを叫びたくなる胸の中で、季節が変わろうとしていることに気がつく。恋している二人が別々で夜をすごすとき、雨音が空っぽのこころのなかで響く。恋をしている矛盾。一人で過ごさなければならない夜。そして恋する人が目の前に現れるのを期待している人。I don’t know what love is. 雲に隠れた月を思いながら、やわらかい雨に頬を濡らす。あいたい。
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東インド会社とアフタヌーンティー

2004年09月10日 | グルメ
 南海「泡沫」会社事件でゆれたイギリスの中で東インド会社は、比較的健全な経営を維持していた。しかし1つ深刻な問題があった。銀不足である。この頃東インド会社は木綿、キャラコを輸入しており、のちに中国茶も輸入するが、それらの商品はヨーロッパからの銀で購入していた。南海恐慌でイギリスは経済的信頼を失っており、銀(ブリオン)がロンドンからオランダに流出する可能性があった。また銀行が貸付金の回収を急いでいたおり、貴金属の価値が高まった。そしてブリオンを保有する商人たちは、それを手元に置いて放出しようとしないことが、ブリオンの高騰に拍車をかけた。東インド会社は現地で資金調達するよう支持して1721年の財政危機を乗り切った。
 ウォルポール首相はイギリス経済立て直しの政策を迅速に進めた。ウォルポールはウィッグ党の党首でありながらトーリー党と協調して重商主義的な保護関税制度を導入する。保護関税によって、国内製造品の輸出とその製造に必要な材料の輸入に対する関税は免除された。東インド会社について言えば、輸入品が消費財ないしは豪奢品であったので、高い関税がかけられた。そこで保税制度が行われるようになる。国内に輸入した場合は関税がかけられるが、東インド会社はイギリスに到着した商品をヨーロッパ各国に再輸出していたので、それら再輸出される商品は倉庫に一旦納めておいて国内に入るときだけ税金がかけられた。1723年ウォルポールは茶、コーヒー、ココアの保税倉庫を設置し、利用義務を課して脱税を取り締まった。
 過度に課税された商品のなかでも特に問題になったのは中国からの茶であった。茶は17世紀後半に東インド会社によってイギリスにもたらされた。18世紀にはキャラコと並んで重要な輸入品になっていた。アメリカ独立のきっかけになったボストン茶会事件が東インド会社が運んだ茶から起こったことを考えると、茶と東インド会社の結びつきの強さがわかる。1662年国王チャールズ2世に嫁いだポルトガル王女キャサリンが茶と喫茶の風習をイギリスに持ち込んだといわれている。こうして始まった茶は、1688年にオランダのウィレム3世とともにやってきたメアリ2世がオランダで身に付けた飲茶のスタイルを持ち込むことで流行した。茶を飲むことは上流階級の女性から始まり、紳士の間ではコーヒーハウスが用意されていた。
 東インド会社の茶の輸入量は1664年に2ポンド2オンスだったものが1744年には200万ポンドまで増えている。1724年ウォルポールによる関税改革で高い税率を課せられていた茶ヨーロッパ各国からの密輸が後をたたず、1784年トマス・トワイニング立ちの運動で関税が引き下げられ、一挙に大衆の間に普及した。紅茶は女性を中心に広がったので家庭のなかで飲まれる飲み物として定着した。男性のみの議論の場所で飲まれるコーヒーにとって変わって紅茶がイギリス人の飲み物になったのである。東インド会社は1690年から中国茶を輸入したが1717年からは中国から直接に仕入れることになった。陶器の茶道具も同時に輸入され、アフタヌーン・ティーの文化が生まれた。
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イギリスとキャラコ

2004年09月10日 | グルメ
 第一次英蘭戦争(1652〜1654)はクロムウェルが出した航海条例がきっかけとなった。オランダ船がイギリスの港に荷を運ぶことを禁じられたオランダは海上での戦いを開始する。一旦おさまった戦いの結果、イギリスはインドと極東アジアの貿易を開放された。1660年チャールズ2世によって再び航海条例が出され、1665年第二次英蘭戦争がはじまる。イギリスは苦戦の末に勝利し、ニューアムステルダム(ニューヨーク)を獲得し、西アフリカの奴隷貿易に参加する機会を得る。1672年に第3次英蘭戦争が起こる。これらの戦争は貿易戦争であり重商主義的な近代戦争といえる。
 しかしこの戦争が行われていた期間、貿易の主役はスパイスからキャラコ(インド木綿)に変わっていく。オランダ東インド会社の場合、1670年に全輸入量の36%であったアジアの織物が1700年には55%に増加している。イギリスの場合オランダ以上にキャラコに熱中した。キャラコは木綿で作られた織物であるが、木綿はインド原産で中国やアジア諸国に伝わった。アフリカでも新大陸でも普及したのであるが、イギリス人が木綿を知ったのは1600年以降であるらしい。15世紀にはヴェネツィアの船がシリアのアレッポから買い付けていたのだが。イギリスは羊毛からの毛織物の国だったからだろうか。そもそも東インド会社はイギリス産の毛織物の販路を開拓すべく成立した会社といえるが、結果は皮肉にもインドから綿織物を輸入することになったのである。
 品質はリンネルと同じで値段が3分の1であるキャラコは1670年代から80年代にかけて「キャラコ熱」と呼ばれる大ブームを迎える。キャラコはインド人手工業者のすぐれた技術と安価な労働によって安く製造された。1700年代イングランドでならば12ペンスで製造される織物がインドではわずか2ペンスでできた。1660年ころまでキャラコはカーテン、テーブルクロスで使われていたが王政復古時代頃から衣服に使われるようになった。キャラコの持つエキゾティックなデザインも人気があった。こうしてすべての階層にキャラコは普及していくことになるが、それは東インド会社が巻き起こしたブームだったのである。
 イギリスは毛織物の国である。東インド会社はイギリス国内から銀を持ち出してインドのキャラコを買いあさったが、国内の毛織物業者から批判を浴びることになる。この時代ルイ14世の圧制を逃れてイギリスに渡来したフランスのユグノーたちの技術によって絹織物工業も定着しつつあった。1680年代になるとキャラコ批判が大きくなってくる。キャラコ論争はコーヒーハウスにおけるパンフレット合戦となって議論されたが、イギリス毛織物の版図拡大をもくろむ人たちの方に軍配が上がる。1700年にはキャラコ輸入禁止法が下院を通過した。しかしその後もキャラコ輸入は増大していく。ジョージ1世統治下の1720年とうとうキャラコ使用禁止法が可決されることになる。キャラコ論争は貿易摩擦問題であり、国内産業保護の立場からキャラコは排斥されてしまった。商業資本である東インド会社が繁栄する17世紀、同時に工業資本家が少しずつ成長し、イギリスは18世紀を迎えようとしていた。
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インドの支配者

2004年09月10日 | グルメ
 イギリス東インド会社は貿易をつかさどる商社であった。しかし1757年のプラッシーの戦いを境にその性格を変えていく。東インド会社はカルナティック戦争などでフランスと戦っていたが、東インド会社が後押ししたベンガル勢力が勝利すると、東インド会社はベンガル地方の自由通商権を獲得し、さらにはディーワーニー(徴税権)も得た。徴税権はベンガル、ビハール、オリッサの3地方にまで及び、事実上これらの地方の支配者になった。1765年ロバート・クライヴの報告によれば、ディーワーニーからの税収は年間165万ポンドの純利益を東インド会社にもたらした。
 東インド会社の増益は人々に期待を与え、東インド会社株は人気を集める。1766年以降、ロンドンだけでなく、アムステルダムやパリでも極めて投機性の強い株式の異常なブームが起こり、1720年の南海会社の投機熱を思わせる状態になった。株取引は高水準で推移したが1772年〜73年にかけて世界的に経済が混乱し、相場の総崩れが起こってしまった。東インド会社株は暴落した。おりしもオランダなどのライバルにアメリカ市場を席巻され、インド現地における軍隊の維持その他の経費は嵩む一方であった。この状態を立て直すために政府が介入してきた。1773年のノースの規正法である。東インド会社に政府は140万ポンドの融資を行い、ベンガルの行政統治は国王が選んだ総督が管理するようになる。事実上、イギリス政府が直接インドを支配するようになった。
 ウォーレン・へースティングは東インド会社の社員であったが、1774年初代ベンガル総督に任命された。ベンガル地方は農業生産の多いところであったが、東インド会社の税の取立てがあまりに厳しかったこと、1770年に大飢饉が発生したことで疲弊していた。へースティングは畑に穀物の代わりにケシを栽培させ、塩の独占販売を行ってインド民衆の生活を圧迫し続けた。東インド会社はイギリス政府に代わってインドを植民地化する会社へと性格を変えていた。1784年のピットのインド法成立によって東インド会社は商業的インド支配から領土的インド支配を行うようになった。ちなみにピットは首相にもなったが、父の大ピットも7年戦争を戦った首相であった。マドラスでダイアモンドの鉱脈を発見したウィリアム・ピットは彼らの先祖である。
 プラッシーの戦いからちょうど100年後の1857年セポイの反乱がおきる。セポイとは東インド会社軍の傭兵であり、イスラム教徒やヒンドゥー教徒で構成されていた。彼らは東インド会社のためにインド征服戦争(マイソール戦争、マラータ戦争)に協力し、イギリスのインド統治が拡大するにしたがって規模が大きくなった。はじめ2千人であったが1857年には20万人の大群に膨れ上がっていた。こうしてインド人自身の手でインドはイギリスの植民地に成り下がる。
 またこの時期はイギリス産業革命が進行中であり、イギリスの機械がインドの産業を破壊していく。東インド会社が大量に輸入したインドキャラコはキャラコ論争を生み、1700年には輸入禁止法が出され、1720年には使用禁止法が成立していた。しかし、1760年代ごろからアークライトの水力紡績機などの発明によってイギリスの織物産業は飛躍的に発展する。マニュファクチュアーから機械制大工業に転換したからである。イギリスは綿布の市場を拡大してゆき、インドに輸出するようになった。その結果、インドのキャラコ職人たちは職を追われ、1820年代には「インドの木綿織布工の骨が平原を白くしている」といった状況になってしまった。インドのキャラコ産業は産業革命に成功したイギリス人のエゴのため滅亡した。
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イギリス東インド会社

2004年09月10日 | グルメ
 こしょうを初めとするスパイスはイギリスやオランダという新興国の商人の夢も膨らませる。ポルトガルに続いてインドへの道を模索することになった。イギリスはドレイクやキャヴェンディッシュ、ホーキンズが世界一周に成功しており、1600年にイギリス東インド会社を発足させた。イギリス東インド会社は一航海ごとに株主を募る会社だったのでオランダ東インド会社のように永続性のある本格的株式会社とは呼べなかった。このことがオランダ東インド会社に遅れてアジア進出した原因の1つになった。
 こしょうを初めとするスパイスは非常に貴重なものであった。イギリス東インド会社が発足したころヨーロッパの食卓では欠かせないものになっていた。「風で飛び散らないように窓を閉め、大商人が一粒一粒こしょうをピンセットで数えた」という記録もある。しかしイギリスはスパイス獲得競争に敗れてしまう。オランダに大きく差をつけられてしまう。イギリス東インド会社は資本金を集める方法が当座性の強い一時的な出資に過ぎず、オランダ東インド会社のように大きな資本を集めることができなかった。またチャールズ1世のもとでの私貿易が横行し、1642年ピューリタン革命がはじまるころますます私貿易が激しく行われるようになり、イギリス東インド会社は窮地に追い込まれることになる。
 ピューリタン革命の政策担当者はオリヴァ・クロムウェルである。彼は東インド会社の改革を行う。それによって1657年イギリス東インド会社はオランダのように永続的経営が可能な会社組織を持つことになった。こうしてオランダのスパイス独占に対抗する基礎が築かれた。イギリス東インド会社はインド東海岸のグジャラート、ベンガル地方、コロマンデル海岸に進出していく。1660年代にはこしょうなどのスパイスに加え、キャラコ(インド木綿)、絹織物、コーヒー、茶など18世紀型の東インド貿易がはじまった。
 イギリス東インド会社は急速にスパイス輸入を促進していく。1670年代のこしょうの輸入量は世紀前半のそれよりも2〜3倍に近い年平均411万ポンドに及んでいる。1688年にオランダ東インド会社が見積もったヨーロッパの年間こしょう消費量は720万ポンドと試算している。しかしオランダもスパイス輸入を増大させる。1668年のこしょうの輸入は800万ポンド、1670年には934万ポンドに達している。このためヨーロッパにおけるこしょうの価格は大幅に下落してしまい、両国の東インド会社は巨大な損失を出してしまった。利益を無視してまでイギリス東インド会社がこしょうを大量に輸入するのはオランダに対抗するためであった。
 しかしこしょうの価格下落はスパイス時代の終わりを意味していた。1670年代、こしょうの値段は1ポンド当たり18ペンスから9.6ペンス、1675年には7.2ペンスと半値以下に下落している。イギリス東インド会社はスパイスから次第に輸入の主体をインドキャラコ、コーヒー、茶といった商品に移行していく。重商主義戦争や貿易競争が激しくなる中でスパイスは時代を象徴する商品ではなくなっていくのである。
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商業革命と東インド会社

2004年09月10日 | グルメ
 チャールズ2世とジェームズ2世の王政復古時代(1660〜1688)はイギリス経済が発展した時代である。オランダとの戦争、ロンドン大火、ペストの流行などの災害はあったが英国全体の生活水準は大幅に向上した。1665年から1688年までに国民所得は8%上昇したと当時計算されている。その繁栄はキャラコ熱、インドブームといわれる商業革命によってもたらされた。産業革命以前にイギリスは商業革命によって国富を増やしていたわけである。
 1660年から1760年の100年間がイギリスの商業革命の時代である。輸入品はこしょうを初めとするスパイスやキャラコ、コーヒーやお茶と多様化していく。この1世紀間の年平均輸入額は2.3%であった。輸出の方は毛織物、銅、明礬であったが、ヨーロッパの品物はアジアであまり売れなかった。したがって、新大陸から流入した銀をアジアに持ち込んで商品を買うパターンが17世紀、18世紀のインド貿易の特徴といえる。とはいえ、輸出の方も年平均2.1%ずつ増加していった。東インド会社が果たした役割は大きい。
 1600年に発足したイギリス東インド会社は1650年頃まで航海ごとに資金を集める当座会社であったが、ピューリタン革命後の共和制政府のもとでより永続性のある合同合本制の会社になった。この1657年のクロムウェルの改組によって、東インド会社は資本金を分配、分割するのではなく、収益分を株主に配当する株式会社になった。これはオランダ東インド会社に倣った制度であった。1665年には会社員の有限責任制が確立されて近代的株式会社の特性を備えるようになった。
 商業革命の流れに乗って東インド会社の株式は人気を集めた。より投機性の高い株取引が始まる。キャピタル・ゲインを求めた株への投資はギャンブル性の高いものであったが、そのなかからジョサイア・チャイルドのように株式操作によって会社を動かす巨大株主が現れる。チャイルドのやり方に不満を感じる勢力がいたのは確かであるが、彼は多額の献金によって国王権力と結び付き批判をかわしていた。
 ところが1688年名誉革命によってジェームズ2世が追放されると、チャイルド反対派は勢いをつけウィリアム3世に請願書を提出し、東インド会社解体を要求した。その結果1698年「東インドと貿易する英国カンパニー」という新会社が誕生した。1690年代は東インド会社の貿易が危機といわれ、イギリス経済は不況の中にあった。この不況を背景にして2つの会社は合同されようとしていた。1702年、両会社と国王との間で協定が成立し、1709年に合同東インド会社が設立された。近代的で民主的な株主総会のもとで取締役会代表が選出され会社経営が行われた。こうして18世紀前半は、織物、コーヒー、茶、などのアジア工業製品を輸入し、銅、鉄、銀を輸出する構造の貿易が盛んになる。その他の輸入品は、ダイアモンド、カルダモン、砂糖、ターメリック、麝香、乳香などであった。
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バブルと消えた南海会社

2004年09月10日 | グルメ
 合同東インド会社が1709年に成立し、会社組織は近代化され、民主化された。アジアの商品をヨーロッパ各地に売りさばく商業資本家ではあったが、長途の困難な航海の時間と危険を負担しなければならず、それらを少しでも軽く、安くするためには政治権力の保護を必要とした。東インド会社は王室の寄付と議会への働きかけをしなければならなかった。1709年に始まるスペイン継承戦争でイギリスはフランスと戦っている最中であり、ロンドン商業界は銀不足に悩まされていた。その中でも順調に業績を伸ばす東インド会社に対する評価と信用は高まっていった。それは政治権力の保護によって達成されたのであった。
 東インド会社は順調に資本を集めることができた。1710年には39万ポンド、1711年には32万ポンド、さらにはイングランド銀行から12万ポンドの融資を受けている。経営状態は好調で1710年に11.1%、1711年に16.7%、1712年には20.4%に達している。工業はまだ家内工業のレベルであったが、18世紀初めのロンドンは17世紀のアムステルダムを凌ぐ勢いでヨーロッパ世界の資本主義的商業の中心地になった。商業がイギリス経済を牽引していた。
 ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」は1719年、スウィフトの「ガリヴァー旅行記」は1726年に発表された。イギリス人の未知の世界や遠いアジアの国への憧れがどれほど強いものであったか分かる。こうしたなかで西インド諸島をはじめとする大西洋への期待が高まる。南海会社が誕生するのはこのような背景からである。南米地域との貿易を目的とする南海会社は、1711年に会社設立のための法案がイギリス議会を通過する。ルイ14世が孫にスペイン王を継承させようとしては決まったスペイン継承戦争の結果、実質フランスが影響力を持つ南アメリカ諸国との貿易をイギリスが許可されたために南海会社は具体的に動き出そうとしていた。
 南海会社は南アメリカ諸国でのプランテーション経営、奴隷貿易などの独占的特権を認められて1720年4月2日に南海計画法案が下院を通過した。計画の責任者ジョン・ブラントは4月14日に2万株の南海会社株を売り出した。南海会社は人気を集め額面100ポンドのものが300ポンドで売り出された。その後も人気はとどまる事を知らず、貴族、大臣、議員、商人、銀行家、地主で南海会社株を買わなかったものはいないという状態になった。ホープやスウィフトも貯金をはたいて株を買った。誰もが株の値上がりを信じて投機熱の赴くままに浮かれたように南海が社株を買った。なかには自分の土地を手放してまでも金を作り投機するものも現れた。この結果、1720年6月末には1株1050ポンドの株価を記録し、わずか半年足らずの間に10倍の株価上昇をもたらした。
 同時にこの同じ時期に経営内容がいかがわしい「泡沫会社」が次々と設立され、イギリス経済全体が異常なまでの投機ブームのなか実体を伴わない株価の急上昇という現象が起こった。もちろん健全な会社も設立されていた。ダービーのコークスによる鉄精錬法(1709年)、ニューコメンの気圧機関(1711年)、ロームの絹織物機械(1718年)でポールのローラー紡績機(1738年)につながっていく。しかし大部分の会社がバブル経済にあおられたインチキ企業であった。
 そして8月18日を迎える。比較的大きな泡沫会社であった王立絹布会社など特許状を受けていない会社の取締りが始まったのである。これを契機に大衆の株への信頼が揺らぎ株が売りに出されたのである。南海会社の株は8月の17日に900ポンドだったものが9月1日には770ポンド、9月19日には380ポンド、9月28日には190ポンドにまで急落してしまう。深刻な大恐慌がイギリスを襲った。新聞は破産した人々を記事一杯に報じ、相次ぐ自殺者の情報を伝えた。貴族といえども財産を失い土地を手放してしまい、自殺した。死ななかったものは西インド諸島などの植民地に流出していった。大恐慌はこのように破産、自殺、人の海外流出を結果的に生んでしまった。首相ウォルポールは1721年南海会社の残した財産の没収、関係者の逮捕をすすめ後始末に奔走した。南海会社は残務処理のためその後何年間存続した。
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日ごろのご愛顧

2004年09月09日 | グルメ
日ごろのご愛顧まことにありがとうございます。お客様に還元セールということで特別サービスを明日から行います。たとえば、
茂助ラーメン¥750→¥680
しおラーメン¥750→¥680
冷しラーメン¥750→¥680
になります。いままでのランチセットをディナータイムにも販売いたします。ぜひ来てくださいませ。
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オランダの世界進出

2004年09月09日 | グルメ
 ネーデルラントは海抜0メートルよりも低い土地である。ライン川河口にあり北海に面したこの国は堤防と埋め立てによる土地造営で国土を広げてきた。ネーデルラントは16世紀当時スペイン・ハプスブルク家のカルロス1世の統治下にあった。スペインはカトリック教国として世界の海に覇を唱える国であった。ネーデルラントはプロテスタント勢力の総本山というべきで、スペインと対立する運命にあった。1556年、カルロスのあとを引き継いだフェリペ2世が即位すると、彼はこの地方の支配強化を進めることになる。
 ネーデルラント北部地方のプロテスタントたちがスペインからの独立に立ち上がったのは1568年であった。この独立戦争は1648年、オランダの独立によって集結するが、16世紀以降に活況を呈する海上商業活動に従事する中産階級の市民による革命であった。商業活動においては王権支配による統制より、自由な経済活動のほうを優先する。オランダはアメリカやフランスに先立って市民革命を成功させ、合理的な商業活動を開始する。
 スペインは穀物や木材を東ヨーロッパとピレネー山脈に依存していたが、それらの商品を運んだのはオランダ船であった。フェリペはオランダ経済に打撃を与えるべく1585年と1595年にオランダ船のスペイン、ポルトガル出入港を禁止した。オランダ人は彼らの「にしん漬け」産業に不可欠な大量の塩を供給するための新しいルートを模索しなければならなかった。オランダは当初、スペインと直接対立するのを避けるために北海から北東方向にルートを見つけようとしたが、1595年からは大西洋経由でジャワにまで達した。こうして「さまよえるオランダ人」は1600年、リーフデ号に乗って日本までやってきた。
 オランダがハウトマン率いる艦隊によってジャワに到達したのは1596年でアジア進出はイギリスに遅れた。イギリスはドレイクが1577年から1580年にかけてマゼランに次ぐ2度目の世界一周を成功させていた。その後もキャヴェンディッシュ(1588年帰航)、ホーキンズ(1595年帰航)が世界周航していたから、イギリスはオランダに一歩先んじていた。しかしイギリスはアジアにおいて略奪や拿捕によって利益をあげようとし、オランダは平和的に商業取引を行おうとした。そのためオランダのスタートは遅れたが、アジアのスパイス取引においてイギリスより早くルートを確立した。
 オランダは1595年から1602年にかけて14の貿易会社が成立し、スパイスを買いあさった。このためアジアでのスパイスの仕入値が高騰し、ヨーロッパでの卸値が下落した。このため1602年、東インド会社を設立し、過当競争による共倒れを避けようとした。こうして誕生したオランダ東インド会社は世界初の本格的な株式会社としてスパイス貿易を独占する。近代的で合理的な会社組織は先任のポルトガルやイギリス、イスラムの商人を圧倒した。
 オランダ東インド会社はインドネシアに進出した。1605年アンボン島のポルトガル要塞を占領し、1614年にはジャカルタに商館を置き、バタヴィアと改名した。オランダはモルッカ諸島から直接にクローヴ、ナツメグ、メースを輸入し、大量のこしょうをヨーロッパにもたらした。
 このオランダに対抗しようとしたのがイギリス東インド会社であったが。イギリス東インド会社はジャワに進出し、1616年にはプロ・ルド島に拠点を求めた。この島はナツメグとメースの産地バンダ諸島にある島である。しかしインドネシアはオランダ東インド会社のテリトリーでありイギリスは容易に入り込むことができなかった。イギリスはオランダと協調することで利益を得ようと協定を結ぶことを提案する。オランダは受け入れた。オランダは1609年にスペイン・ポルトガルと結んだ休戦協定が失効し、また1618年から始まった三十年戦争の影響を受けていたからだ。1619年、イギリスとオランダの協定は成立した。
 しかし本国のこのような流れは現地では通用しなかった。ジャワ島のバタヴィア総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンはインドネシア・スパイスの独占強化を試みる。1621年クーンの艦隊はプロ・ルド島を占領しイギリス人を追放してしまった。また中国人やマライ人、ジャワ、コロマンデル(インドのタミル人)商人たちも排斥し現地人に対して高圧的な態度で望んだ。こうして1623年アンボンの虐殺事件が起こる。オランダ人がイギリス東インド会社の社員を殺した事件である。イギリスは東南アジアからの撤退を余儀なくされてしまった。1648年にオランダが独立を果たしたときすでに空前絶後の財産がオランダに流れ込んでいたのだ。17世紀はオランダの黄金時代といえる。
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新しいとんこつスープ発表!

2004年09月09日 | グルメ
 先日来、研究してきたとんこつスープをお客様にお出しすることに決めました。豚のカシラ(目がとても怖いです)、りんご、牛乳で甘味ととこくをアップさせました。味の素を使わなくても、まろやかさと甘味を表現することができました。バランスの取れたスープになりました。おもにも助ラーメンとの相性を考えて研究してきたスープですが、かなりおいしくなったと自負しています。ぜひご来店くださいませ。
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アルマダ海戦

2004年09月09日 | グルメ
 アルマダ海戦はスペインの時代に終止符を打った。世界の海をまたにかけて、世界中の富を一身に集めたスペインは、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国、オランダを中心とするネーデルランドまでも支配していた。その勢力はこの海戦後、イギリス、オランダにとって代わられることになった。
 コンスタンティノープル陥落ののちボスポラス海峡を掌握したオスマン・トルコの勢いはとどまる事を知らなかった。1520年スレイマン1世がスルタンに就任し、ヨーロッパへ勢力を拡大しようとしていた時代にスペイン・ハプスブルク家のカルロス1世がカール5世として神聖ローマ帝国皇帝に即位した。1519年のことである。世界の海では無敵であったスペインだが、東ではトルコとの対立を余儀なくされた。
 スレイマン率いるオスマン・トルコは1521年にベオグラードを占領し、ハンガリー、オーストリアに支配を広げようと狙っていた。地中海では聖ヨハネ騎士団が守るロードス島を攻略し、ヴェネツィアやジェノヴァの領有するエーゲ海の島々にも力を及ぼした。そして1571年レパントの海戦でイスラム教とキリスト教の決戦に決着がついた。地中海貿易で立国するヴェネツィアを中心に、カトリック擁護をもって世界制覇を目指すスペインなどがイスラム勢力と戦った。このレパントの勝利でイスラム勢力は地中海からいっそうされた。
 レパントの海戦と同じ年、スペインはフィリピンにマニラを建設している。フィリピンと言う国名はフェリペ2世に由来している。フェリペ2世は1527年カルロス1世(カール5世)の嫡子として生まれている。彼はスペイン帝国の拡大とプロテスタント弾圧政策を進めていく。1554年にイングランド女王、メアリー1世と結婚する。メアリーは厳しいプロテスタント弾圧で知られ、「ブラッディー・メアリー」と呼ばれた。メアリー亡き後、エリザベス1世に求婚するが断られる。エリザベスはプロテスタントであった。
 オスマン・トルコとの地中海覇権争いに勝利するが、プロテスタント勢力であったネーデルランドの独立運動と戦わなければならなかった。ネーデルランドはカルバン主義が浸透しており、その北部諸州が独立戦争を行った。このオランダの独立戦争は1568年にはじまり、1648年まで続くことになる。
 その一方、スペインは1580年にポルトガルを併合している。ポルトガルはきたアフリカ遠征に失敗し財政難に喘いでいたので滅亡の危機に瀕していたのだ。こうして世界の海を我が物にしたフェリペの勢いはとどまる事を知らず、イングランドと対決することを決意する。1587年に前スコットランド女王メアリーをエリザベスが処刑したからである。フェリーぺ2世は1588年リスボンでアルマダ(無敵艦隊)を編成し、イングランドに向けて航海した。しかし、イングランドの艦隊はドレイクに率いられてプリマス港に集結していた。この戦いにスペインは敗れてしまう。その結果、スペインの栄光はイギリス、オランダに取って代わられたのである。
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マゼラン世界一周

2004年09月09日 | グルメ
 フェルナンド・デ・マゼランは1480頃ポルトガル北部の貧しい貴族の子として生まれた。リスボンに出て、ジョアン2世の妃レオノラの従者として仕え、25歳のときにポルトガル領インドの初代総督フランシスコ・デ・アルメイダのもとでモルッカ諸島探検に参加している。1512年ポルトガルに戻り、北アフリカのモーロ人攻略に加わるがスパイ容疑でポルトガルを追われる。
 マゼランは1517年スペインのセビリアへ向かった。彼はスペイン王カルロス1世(カール5世)に仕えることになる。ディエゴ・バルボサの娘と結婚し、ドイツのフッガー家などの支持を取り付け、カルロス1世から航海の許可を受けることになる。1519年9月20日、サンルカール・デ・バラメダを出帆し、270人の乗組員とともに西廻りでモルッカ諸島を目指した。12月13日にはリオ・デ・ジャネイロに到達し、翌1520年11月22日にはマゼラン海峡を抜け太平洋に出る。
 ドイツの地理学者マルティン・べハイムは現存する世界最古の地球儀を作成した。その地図によると、スパイスアイランド(香料諸島)はマゼラン海洋を抜けた近くに描かれている。マゼランはこの地図を信じていたらしい。ところが目的のスパイスアイランドはいつになっても発見できない。船員は飢えと壊血病に悩まされる。靴の皮を口にし、ねずみやゴキブリまで食べたと言うから、その苦難は想像に余りある。
 よく1521年3月7日にグアム島に達し、4月27日にはフィリピンのマクタン島に至った。マゼラン艦隊はマクタンの王、ラプラプと戦ったが敗北し、マゼランは戦死する。マゼランのあとを継いだデル・カーノ提督がモルッカ諸島に到達するのは1521年11月6日であった。彼らはティドーレ島に上陸する。5隻あった彼らの艦隊はこのときわずかにビクトリア号を残すのみであった。山のようなスパイスを積んでセビリアについたときには出航時の270名のうち18名の乗組員だけが生き残った。1522年9月6日のことであった。
 スパイスアイランドとして知られるモルッカ諸島は、1511年にポルトガル人が上陸している。世界を2分したトルデシーリアス条約に従えば、モルッカはスペイン領になるはずであった。しかしマゼラン海峡経由でモルッカに軍隊を送ることはスペインにとって不可能である。そこでモルッカはポルトガルの支配下に入る代わりに、スペインはフィリピンの領有を認めさせることになったのである。
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