思想家ハラミッタの面白ブログ

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意識の所在

2016-10-11 15:15:00 | 思想、哲学、宇宙論
http://mitsuno-y.com/file/200810/20_162601.html




意識の所在

意識はどこにあるのか。これは哲学、心理学、脳科学をもってしても未だに答えが得られていない問題だ。

霊的世界を葬る役目を演じた近代西洋哲学は、幾度かこの問題に挑戦したが、ほとんど目に見える成果は上げられなかった。近代哲学の父といわれるデカルトが言った「コギト・エルゴ・スム」=「われ思う、ゆえに我あり」という有名な言葉があるが、今では完全に論拠を失っている。これは、全てを疑ってもその疑っている意識だけは疑えない、ということを言ったものだが、しかしすべてを疑っている意識さえ疑い得ることを現代哲学は論証した。デカルトの後、ヘーゲルやフッサールが精神現象学という分野に挑み、意識についての論考を試みたが、結局意識そのものの所在や由来は解明できなかった。

近代哲学が果たしたのは、中世のキリスト教スコラ哲学からの脱却で、神と関わった論考から、神と切り離した論考へと変えたことだ。これは言い換えれば、神中心の考えから人間中心の考えへと変えたということになる。その意味するところは大きい。なぜならこの過程で人間の霊性と霊的能力を共に葬り去ったからだ。

イメージ近代西洋哲学は論理至上主義へと突き進み、その果てに機械論へとたどり着いた。これは人間の霊性を理性に置き換え、自然現象を原因と結果による無機的な過程と見做し、人体を化学的・電気的反応ロボットと看做すようになった、ということだ。そこから現われてくるのは自然は征服すべきものだという発想であり、東洋人が持つような自然との共生という発想は入り込む余地はなくなり、人間が肉体以上のものであるという発想も許されなくなった。現代の欧米人の基本的なものの考え方はこのようなものだ。

近年脳科学が発達したと言われているため、一般の人たちはやがて脳の機能も解明されるにちがいないと思っているかもしれない。しかし学者たちは脳の内部外部の電気的反応および化学的反応を、単にデータ化して読み取っているだけだ。実のところ脳の機能の全体像や統制の中枢など、本質的なことは何も解っていない。

1935年にアドライアンが脳波の測定を行なった時、世界中の人がもうすぐ脳の仕組みが解明され、しかも人間の考えていることは外部の脳波測定装置によって捉えられるだろうと思ったものだった。しかし実際はそうはならなかった。人間の精神活動は電気信号や化学反応に還元できるほど底の浅いものではなかった。しかし脳科学者たちは、アドライアンの脳波測定から70年以上も経っているのに、現在の研究の先に物理的解明の時が来ると信じているようだ。

デカルトが『方法序説』を書いたのが1637年だから、哲学史を含めれば370年以上も意識や認識についての考察・研究を行なってきている。それでも本質的なことは何も分からず、認識の基本となる、見たものをどう脳の中で映像化しているのかという問題にさえほとんど答えられないでいる。

西洋哲学がかつて主要なテーマの一つとした認識論は、このようについに何らの具体的成果を上げることなく現在に至っている。これは一体何を意味しているのだろう。もう一度東洋的な霊的解釈に戻らなければ、この問いには切り込めないということを示唆しているのではないだろうか。




所長の見解


認識論について言えば、東洋では紀元前のインドで、仏教の誕生前後からすでに議論されている。そして部派仏教の時代に入ると本格的な究明が試みられ、煩雑な解釈がなされている。その挑戦は私の印象ではフッサールの現象学よりはるかに壮大で奥が深い。

しかし東西を問わず、現在なお最終的な解明には至っていないのも事実だ。実は意識は、私が思うには宇宙の始まりの問題と同じく最も本源的な問題で、神とは何かという問題と深く関わっている。というのも、第一に、宇宙だけが存在してもそれを意識する何者もいなければ存在しないも同然となるからで、その様子は宇宙が機械仕掛けの巨大なロボットとして、エネルギー交換と化学反応を繰り返しながら勝手に動いている状態にすぎないと見做すことができるからだ。これは意識的な存在である我々には想像し難いことだが、この場合は岩も水も植物も動物も意識を持たず、化学的・電気的反応をしている単なる物質にすぎないことを意味している。

第二に、もし宇宙を造った何者かがいるなら、神と名付けられたこの存在は、宇宙を造る決断をしたという意味で、意識を持っていることを前提としており、意識あるものが意識的な宇宙を生み出した、と考えることができる。なぜなら最初の意識体が、意識を持たない宇宙をわざわざ造ったとは考えにくいからだ。したがって人間が勝手に分類した「生物と無生物」といった言い方はこの場合意味をなさなくなり、すべては意識的でなければならないことになる。言い換えれば初めにあったのは意識であり、意識以前には何も存在しなかったことになる。

このように宇宙という場合、それが意識的なものかどうか、また意識されるものかどうかが大きく関わっている。これは宇宙創成の時期まで遡る問題であり、実は現在の宇宙論はこうした重要な問題を無視し、避けて通っている。

宇宙イメージ『さて最初の意識体は神で、神が宇宙を創造したと想定してみよう。すると神は創造の時、どこにいたかが問題となる。思うに神は宇宙の外側にいて宇宙を造ることはできなかったはずだ。何故なら宇宙に外側があるなら、そこも宇宙に含めなければ宇宙全体とは言えないからだ。だとしたら神は宇宙の内側にいて宇宙を創造したのだろうか。するとここにも矛盾が生まれる。宇宙内、すなわち宇宙の内部にいるということは、神以前にすでに宇宙があったことになるからだ。わかりやすく言うと『私は海の中にいる』といった場合、先に海があってその中に入ったことを意味するからであり、先に私がいて後で海がやってきたわけではないからだ。

このように考えると、神は宇宙の外にも内にもいなかったことになってしまう。ここで議論は行き詰まりになってしまうように見えるが、しかし一つだけ問題解決の道はある。それは神がこの宇宙そのものと考えればいいのだ。すべては神であり、宇宙のどこをとっても神の一部分であり、したがって我々も神の一部である、と考えれば矛盾のない説明となる。

神が意識をもって自らを展開してきたのがこの宇宙であり、したがってすべての存在は意識的であり、我々も意識的な存在である。この議論はループして元に戻り、神とは意識そのものだということを意味することになる。神は意識であり、その意識体が宇宙として自らを展開し、我々もその一部として意識を持っている。しかも宇宙は神自身なので、その中にあるすべてのものは有機的に結びついている。したがって我々はこの宇宙のすべての存在と細かな網のように結びついており、あらゆるものと感応することが可能であり、あらゆることを知り得る。

これは言い方を換えれば、神は霊であり、我々は神の分霊であり、すべての存在には霊が宿り、しかもこの霊とは意識そのものである、ということになる。』

現代の欧米人の宇宙観・人間観はすべての物事を重力・化学反応・電気的反応・エントロピー・熱反応など、無機的な物理法則に還元して考えようとするものだ。このため意識についても脳内の何らかの反応であるとして、その存在のありかを脳に求めている。最近は脳内における量子論的な同時多発的反応が意識を発生させる、などといった訳の分からない学説まで出てきている。私に言わせれば、では量子論的な同時多発反応を機械の中で起こさせれば機械も意識を持つようになるのか、と問いたいところだ。

このような考えは欧米人から始まったものだが、今や日本を含めた欧米の経済的影響下にあるすべての国で受け入れられ、宇宙は意識を持たない物理的法則に従う単なる『物』となり下がっている。


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