思想家ハラミッタの面白ブログ

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途轍もない日本語の表現力

2017-07-13 11:04:54 | 思想、哲学、宇宙論
https://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-12250387600.html



日本人てすごい 21 「てにをは」の持つ途轍もない日本語の表現力



2017-02-23 04:34:17
テーマ:日本人てすごい


今回は日本語が英語などヨーロッパ言語や中国語にない特殊な構造ゆえに日本語が他の言語と比べて途轍もない表現力を持った言語であることを、理系的な視点から論証してみます。また、時々巷で私が耳にしたことがある、



「ヨーロッパ言語の方が日本語に比べて論理的な表現に適した言語である」



との俗説の反論にもなっています。私は、物理学者として、日本語を使って科学的な表現をする努力と訓練を今までずっとやってまいりました。その経験に基づいた話です。



さて日本語の凄さは「てにをは」すなわち助詞の持っている驚くべき力にあります。言語学者の間では常識なのですが、日本語では文章の中で各言葉の役割は主に助詞が決めます。語順の場所ではありません。ですから、助詞が適切に付いているならば、その言葉が文章のどこに出てきてもその役割は変わりません。ところが、英語や中国語では、言葉の役割は主に文章の中に現れる場所で決まります。例えば、



「太郎はご飯を食べた」







「ご飯を太郎は食べた」



と書いても、あるいは、会話の中では、



「太郎は食べた、ご飯を」



と言っても、それが同じ動作を表していることに皆さん同意するでしょう。ところが、英語では、



Taro ate a meal. (太郎はご飯を食べた)







A meal Taro ate (太郎が食べたご飯)



は全く意味が違ってしまいます。多分言語学の本では、この違いがあることを指摘するだけに止まり、それ以上は、言語構造のもっと緻密で詳細な分析に興味を向けて論じて行くのでしょう。しかし、この違いからくる言語の表現力の違いを、多分言語学者が語らないような理系的な視点から分析してみます。



まず、言語は時系列的に並んだ1次元空間の列で表現されています。そして、英語や中国語はその1次元の空間の中の位置で役割が決まっている。この場合、物理学者は英語や中国語は1次元的な自由度を持つといいます。そして、この空間は例えばx軸という一つの空間軸だけで出来ていることになる。



ところが、日本語ではその1次元空間の位置で役割が決まらず、自由自在に位置を入れ替えることができる。すなわち、「てにをは」によって場所を自在に動かせるという、英語や中国語にはない自由度をもう一つ持っているのです。ですから、日本語のその側面だけを取っても、日本語はx軸だけで構成されている1次元空間の位置で表すことができない。日本語には、時系列的なx軸とは独立な「てにをは」軸、あるいはy軸とでも名付けられるもう一つの軸が存在しているのです。別な言い方をすると、日本語は少なくとも2次元的な空間構造を持っている。



このことは、話し言葉ではそうですが、それが書き言葉になるともっと多次元になっている。実際、その表現として、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、という自由度まで持っているのです。さらに、日本語では漢字に音読みと訓読みという自由度がある。だから2次元どころか、それ以上の多次元構造を持っているのです。これは、世界的にも類を見ない言語構造です。



例えば、私たちが日本語を書くときに、漢字とかなの出方のバランスを無意識に考えながら書いています。ちょっと漢字が多すぎたと思ったら、ある部分を意識的にひらがなで書いてみるなんてことをしばしばやっている。そのことに関して、ある日本の文学者が米国の詩人に次のような質問をしたと、ある本に書いてありました。すなわち、英語のアルファベットの中にも、hやtやkのように頭の高い文字があり、gやjやyのように尻尾が下に出ている文字があるが、その文字の並びのバランスを考えながら書いたりすることがあるかと。その詩人は「そんなことはない」とびっくりして答えたとのことでした。普通の日本人でも、それを別に訓練をされているわけでもないのに、そんなバランス感覚の表現は日常茶飯事のこととしてやっているのですね。そんな芸当は、日本語が多次元的言語であり、日本人はそんな多次元の世界に生きているから出来るのです。



実は理系の人間なら誰にでもわかることなのですが、次元が1次元多くなると、その少なかった次元の世界よりも無限大倍の可能性があるのです。例えば、数学にはこんな面白い定理があります。曰く



「どんな小さな領域の2次元平面の面積でも、それを1次元の曲線で覆うことができない。」



すなわち、どんなに稠密に1次元曲線を描いても、2次元平面の中の無限に多くの点を取り残してしまうことが証明できるのです。このことを日本語に敷衍すると、



「日本語は2次元構造を持つので、英語や中国語などの1次元構造を持った言語と比べて、無限大倍の表現能力がある」



ということができます。その能力の根源が「てにをは」なのです。日本語ってすごいでしょう。



これで話が終われば、めでたしめでたしなのですが、その日本語の自由度のゆえに、困ったことも起こり得るのです。逆に、自由度が多すぎるゆえに、それを使いこなしきれない人も時々いるのです。そのことが原因で一番最初に述べたような、ヨーロッパ言語の方が日本語に比べて論理的な表現に適した言語であるとの誤解をする人が出てきてしまうのです。



上に述べたように、日本語はヨーロッパ言語よりも自由度が多い。ですから、もちろん、ヨーロッパ語と同じ語順で表現することも可能なのです。ですから、ヨーロッパ語と同レベルの論理的表現は常に可能なのです。ところが、一般の日本人や、あるいは文学部出の国語の先生は、普段から日本語の持っている自由度を無意識のうちにフルに使いながら会話をし文章を書いている。そして、それでもちろん日本人には通じるのです。ところがそんな国語の先生は、自由度の制限されたヨーロッパ言語特有な表現には慣れていない。そして、そんな日本語的表現をそのまま外国人に打つけてしまうので、外国人から見ると何を言ってるのか支離滅裂に受け取られてしまう。そんな痛い経験を繰り返して行くうちに、知識走った外国かぶれな日本人の中に、「日本語はヨーロッパ言語と比べて論理的な表現には不適切な言語である」なんて妄想が出てきてしまうのでしょう。



私の持論なのですが、常々、



「理系で博士論文を書く訓練を受けた日本人には、少なくとも現代文の書き方や読み方を教える高校の国語の先生の免許を与えるべきである。その方が、余程文学部出の国語の先生よりも、しっかりした現代文を教えることができる」



と言っております。










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