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科学論―数理科学を中心として―

2017-06-07 18:02:54 | 思想、哲学、宇宙論


http://blog.livedoor.jp/kamokaneyoshi/archives/52717996.html


科学論―数理科学を中心として―




私は反科学主義との戦いで、科学の定義が必要となり、自分が納得できる定義を提唱することを迫られた。私の定義は自然科学に限定してなされた。その際、数学と情報科学は自然科学には含めていなかった。ところが、数学は物理法則を表現する上で欠くことができない分野である。純粋数学、応用数学、情報科学の3分野を合わせて数理科学と呼ばれることがあるが、数理科学の研究者で数理科学を科学ではないと思っている人は恐らく一人もいないであろう。また、自然科学の研究者のうち、少なくとも物理学者は、数理科学を科学に含めることに同意するであろう。ここで述べた数理科学者や物理学者の主観はそれらの研究者の科学観に基づいたものである。それでは、彼らの科学観に基づいて、自然科学のみならず、数理科学も含むような科学の定義は可能なのであろうか。今回は数理科学を中心として科学論を展開してみる。


自然科学の定義に当たって、客観的外界―物質世界―の存在、外界に生起する現象を統べる法則の存在、およびその法則を探求する研究者集団の存在は必須である。数理科学が自然科学に含められなかったのは、数理科学の対象が物質世界の中の存在(=物理的存在)ではないからである。そこで、自然科学の定義に倣って、数理科学的対象(複数)の客観的存在、数理科学的対象を関係づける定理(複数)の存在、およびその定理の発見と証明を追究する研究者集団の存在の3点を用いて数理科学を定義することが考えられる註。ここで、数理科学的対象に対してそれが客観的存在であることを要請したが、数理科学的対象は物質ではなく、その存在も物理的存在ではない。数理科学的対象は人間の心の中にだけ存在するものであるが、それは数学の言葉(記号)を用いて記述することができる。数理科学者の中で数理科学的対象の客観的存在を疑う人はいないだろう。もし、そのような人がいるとすれば、その人は己の営為の意義を否定することになるからである。そのような存在は数理科学的実在と呼ぶことができる。数理科学の定義は、自然科学の定義に登場する物理的実在、法則および実験的検証をそれぞれ数理科学的実在、定理、証明により置き換えたものに他ならない。


数理科学的実在の承認は自然科学で言えば素朴実在論に対応するだろう。他方、自然科学に対する相対主義の数理科学における対応物は社会構築主義である。私は、自然科学のコアとして物質科学―物理学と化学を合わせた分野―を据えることにより相対主義と対抗してきた。現代において、物質科学はもはや揺るぎない存在となっているからである。それでは、数理科学のコアとしては何を持ってくれば良いのだろうか。数学の場合、定理はその証明が誤りでない限り揺るぎない存在と考えられている。それでは、すべての定理の集合体である現代の数理科学自体を揺るぎない存在と考えていいのだろうか。あるいは、数論など幾つかの分野はすべての数学者が承認するだろうが、分野によってはその「実在」についてすべての数学者の合意が得られていないのだろうか。もしそうであるならば、数理科学的実在論を確かなものにするためには、数理科学においてコアに相当するものが何であるかについての議論が必要である。この辺については数学者に聴きたいところである。


ニセ科学という用語は存在するようであるが、ニセ数学という用語は存在しないようである。既存の数学と矛盾する命題が却下されることについては問題ない。現代の数学ではユークリッド幾何学とともに双曲幾何学など様々な幾何学が共存している。ユークリッド幾何学と双曲幾何学は直線や角度など共通の幾何学的対象を含んでいるが、両者の間で異なった定理がある。他方、例えば関数論とグラフ理論の間には共通の対象が存在しないように見える。それでも、グラフ理論は母関数の理論などを通して関数論とのつながりを持つ。現代数学との間で共通の対象が存在しないような「数学的体系=無矛盾な公理系」は存在し得るだろう。もし、そのような体系が存在したとしても、それと現代数学との間で衝突が起こることは無く、従って、両者は共存可能である。すなわち、その体系は現代数学に追加されることになる。その意味で数学は一つなのだろう。


以上、物理的存在と数学的存在が異なることを根拠として、数理科学が自然科学とは異なる科学として存在することを論じてきた。ところがことはそれ程単純でない。前にも述べたが、物理法則は数学により表現される。この場合、物理法則は物理的存在なのか数学的存在なのかという問題が生ずる。これについては、物理法則の表現に用いられた数学は物理的存在であると同時に数学的存在でもあるとするのが妥当な線であろう。ひとつの物理法則に対して複数個の数学的表現が提案された場合、それらが互いに数学的に等価でない限り、そのなかの一つだけが残る。どれが残るかは、実験的検証により決定される。ただし、このときに棄却された数学が別の物理法則に対する数学的表現として復活することはあり得る。このような例は物理学史で必ずしも稀ではないだろう。数理科学の成果の中で、物理法則の表現に用いられるのはその一部だろう。ここで注意しなければならないことは、このことが、自然科学が数学の単なる応用であることを意味しないことである。物理法則を表現するために新しい数学分野が誕生した例は数学史上珍しいものではない。自然科学と数学は持ちつ持たれつの関係にあり、相思相愛の夫婦関係に喩えられよう。


自然科学と数学との関係と同様なものは、技術と数学との間にも存在する。自然科学、技術、数学の3者は友好的三角関係―形容矛盾であるが―と言えよう。


以上により、私の科学論に数理科学を含めることができた。それでは、言語学や経済学は科学に含めることができるのだろうか。このとき重要なのは、これらの専門分野と数学との関係である。私は、ある専門分野が科学と呼べるためは、その分野で数学が使用されているだけでなく、定量性が必要だと考えている。定量性がないと、議論が思弁的に陥りがちであり、明確な検証・反証ができなくなるからである。人文科学や社会科学の多くの専門分野において、物理の発展に倣って、近代化が図られたようである。残念ながら、「近代化」が成功した分野は少ないようである。ただ、経済学は近代化の優等生と言えるかも知れない。計量言語学や数理言語学など、専門分野に計量-や数理-などの接頭語がついたものが近代化を指向した専門分野のようである。これらの分野の今後の発展を期待したい。


前にも述べたと思うが、ある専門分野が科学かどうかはその専門分野の価値とは無関係である。科学かどうかは研究方法のカテゴライズにおける区別に過ぎない。


私の科学論は一物理学者から見た科学論である。科学論は本来科学哲学者の研究課題である。ところが、哲学の専門分化がかなり進んでおり、現代の哲学者がまともに科学論に取り組むことは容易ではないように思われる。科学論には科学と称されるあらゆる研究分野が関係する。また、自然科学や数理科学ではその進歩が著しい。物理学の専門家で数学にもある程度詳しい人が科学論について見解を表明することはそれなりの意義があろう。






註:数学的命題は証明された後に初めて定理となるので、この文脈における「定理」は「命題」と置き換えるべきかも知れない。




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