思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

モシリの曲を作っているアトゥイのインタビュー

2017-05-17 17:09:08 | 思想、哲学、宇宙論
我ありて神あり

 

                             アイヌ音楽家 アトゥイ

                             ききて 俳優 苅 谷(かりや)  俊 介(しゅんすけ)


苅谷:  北海道東部の屈斜路(くっしゃろ)湖です。北海道はかつて アイヌ語で、「アイヌモシリ」、人間の静か な大地と呼ばれていました。屈斜路湖の畔に も、昔から多くのアイヌの人たちが暮らして きました。この屈斜路湖畔に、アイヌ民族の 伝統的な生き方を、音楽で表現している人が いると聞いて、会ってみたいと思いました。 その人の名は「アトゥイ」。アトゥイとは、 アイヌ語で「海」という意味です。

私が訪ねた時、アトゥイさんは日課の釣りをしていました。閑さえあれば毎日湖 へ出るそうです。

 


 

苅谷:  お帰りなさい。
 

アトゥイ:  釣れなかったね。

 

苅谷:  どうでした。

 

アトゥイ:  ダメでしたね。

 

苅谷:  全然。

 

アトゥイ:  ええ。今日はもう湖の神様も味方してくれなかったですから(笑い)。

 

苅谷:  帽子取られたらどうですか。

 

アトゥイ:  ああ、これ。いや、これ結構ね、日射しが強くて。

 

苅谷:  やっぱり空気が相当澄み切っているでしょうね・・日射しだけは。

 

アトゥイ:  あの台風が過ぎた後は、特に雨が降った後は、空気がとっても綺麗になりますよ ね。

 


 

苅谷:  アトゥイさんは湖畔でドライブインを経営しています。ウグイ やヤマメが釣れれば食堂のメニューに魚料理が加わります。

 


 

苅谷:  装飾がどことなく違いますね。

 

アトゥイ:  レストランに入って来たと思って、お客さん が大体ビックリするんですよ。
 

苅谷:  これですね。

 

アトゥイ:  これアイヌ語で、「ハシ イナウ」と言うんで すね。

 

苅谷:  「ハシ イナウ」。

 

アトゥイ:  こういうのが飾ってあって、天井みたら照明があったりね。

 


 

苅谷:  このドライブインでアトゥイさんは仲間と一緒にライブコンサートを行っていま す。

 



苅谷:  出演する方も・・・アトゥイさんも?

 

アトゥイ:  出演する連中、あそこにいる連中がそうです。 今、ラーメン作ったりしてね。

 

苅谷:  厨房に入っている人?

 

アトゥイ:  涼しい顔してやっているけど、夜になったら妖しく化粧塗ってね、変身するんで すよ。

 

苅谷:  アトゥイさんは十二人、お子さんが居て。

 

アトゥイ:  亜伊(六女)・・・お出で。
 

苅谷:  彼女・・・彼女はいくつですか?

 

アトゥイ:  今年中学を卒業して・・・いくつだ、お前。

 

子ども: 十五。

 

アトゥイ:  今年、中学を卒業して、家(うち)はね、「高校へ行く」と言ったらね、「借用証書を取 る」と。

 

苅谷:  借用証書?

 

アトゥイ:  かかった金は大人になったら返してもらうと。どっちがいいと言ったら、「ここ で働く」と。今、踊りを一所懸命勉強している。

 


 

苅谷:  十二人いる子どもたちのうち、七人が今、アトゥイさんのステージに出演してい るんだそうです。夜七時、食堂はステージに早変わりします。四月から十月まで の間、アトゥイさんたちは毎晩此処でコンサートを行ってきました。グループの 名前は、「アイヌ詞曲舞踊団モシリ」。「モシリ」とは、アイヌ語で「大地」とい う意味です。アトゥイさんの子どもたちとドライブインで働く仲間たちがメンバ ーです。ライブはお客さんが一人でも居れば開演します。この日の客は十人ほど、 何度も聞きに来ているという常連も少なくありません。

 


 

質問者:  よく来るんですか?

 

旅行客A:  ええ。もう大ファンです。

 

質問者:  どこがいいですか?

 

旅行客A:  やっぱり北海道を感じる曲だと思うんですけどね。

 

質問者:  北海道を感じる?


旅行客A:  北海道の大自然を感じる曲ですね。すごく元気になります。

 

旅行客B:  旅行で来たんですけど、ガイドブックなんかで、此処でライブ やっているというのを見たんで、是非見たいなあと思って来た んです。

 

質問者:  どちらから?

 

旅行客B:  東京からです。

 

旅行客C:  えーと、今日で五十四回目。

 

質問者:  五十四回目?

 

旅行客C:  五十四回目です。よく友人たちに、「何故そんなに見るんですか」と聞かれるん ですけども、言葉ではちょっと表せないですね。

 

旅行客C妻:同じです。来る度に違う感動が伝わってきます。


質問者:  何度見ても感動なさるんですか?

 

旅行客C妻:そうです。

 

旅行客C:  そうですね。ちょっといい歳で恥ずかしいんですけども、涙が ポロッ・・・おそらくこれは聞くなり見て頂いた方でなかった ら理解出来ないところがあると思います。

 


 

苅谷:  モシリの音楽は、アイヌ民族の伝統をベースに、シンセサイザ ーなど、現代的なアレンジを行ったものです。作詞、作曲はす べてアトゥイさん。舞台での振り付けもアトゥイさんが行って います。アイヌの人々にとって「カムイ(神)」、つまり神と は自然のことです。一本の木も神様なら、鳥や魚も神様、火や 水もすべて神だと考えてきました。
 


 

神々よ 大地よ

美しき大地よ
アイヌの同胞よ 大地とともに

日本人よ 大地とともに

 

アイヌの同胞よ

日本人よ

ともに起ち上がれ

 


 

苅谷:  あのライブを拝見していても、アイヌ民族のなかの、要するに、ライブは小さい ですけどね、すごい迫力がありますね。

 

アトゥイ:  ああ、そうですか。

 

苅谷:  男の踊りというのは非常に勇壮ですし、女性は非常に身軽に、コミカルに、優雅 だし、こういうのは確かに我々が忘れている世界なんですよ。

 

アトゥイ:  そうですか。

 

苅谷:  あるんでしょうけど、忘れている世界なんです。見せてない世界なんですよ。

 

アトゥイ:  僕は幼い頃の体験の中に、まだ小学校にあがる前の話なんですけど、近所にいる アイヌのおばあちゃんが、「お前、大人になったら、人間をふたつ重ねて呼んでも らえるような立派な人間になるんだよ」とこう言われるんですよ。それはアイヌ 語では、「アイヌ・ネノアン・アイヌ(人間らしい人間)と言うんですけど。俺、 人間なのにな、人間ふたつ重ねて呼んでもらう、って、どういうことなのかなあ って、素朴に子ども心に思ったものですよ。そうしたら、おばあちゃんに、「どう したら、人間ふたつ重ねて呼んでもらえるような、立派な人間になれるの?」っ て、聞くわけですよ。そうしたら、おばあちゃんは、「お前、自分の心を揺らせ。 魂とか心というものがあるんだから、揺らしなさい」。いよいよ訳が分からなくな って、また質問ですよ。「ところで、おばあちゃん、どうやったらそんな心を揺ら すこと出来るんだ?」と質問すると、アイヌ語で、「ヤイレス ヤン」。これを日本 語に直すと、「自らを育てなさい」と言うんです。簡単に教えてくれないんです ね。でも、優しくね、おばあちゃんはヒントをくれるんですよ。ほら、今日なん か見たら綺麗な雲がたくさん出ていますけど、こうやって、空に手を翳して、「ほ ら、雲見てごらん。雲はとってもこの空いっぱいに上手に絵を描くんだよ」って。 「雲はとっても絵を描くのが上手な神さまなんだよ」って。そして、小鳥の声が 聞こえてきたり、カモメの声が聞こえて来ると、「ほら、カモメがお前に歌を歌っ て聞かせていてくれているじゃないか」。そして、風が吹いて、木が左右に揺れ動 いていると、「ほら、木がお前に、上手に踊りを踊ってみせてくれているじゃない か」と言われるんですよ。で、ヒントをくれるんです。

 

苅谷:  「心を揺らせ」ということですね。

 

アトゥイ:  ええ。つまり、人間は頭で考えることも大事だけど、頭で考えると同時に、自ら の心を揺らして、揺らすことが考える、ということなんです。つまり、両輪でい くんです。

 

苅谷:  言ってみれば、今風に言えば、もっと感性を磨け、ということなんでしょうね。 そう言うと、つまらない無機的な言い方ですけど。

 

アトゥイ:  これは取りも直さず、「人に教えて貰うんじゃなくて、自分で自分の生き方の価 値観、哲学を、自ら構築していきなさい」ということなんです。

 

苅谷:  「心を揺らせ」とか言われたものが、ずうっと心の中に生きづいていて、で、今 の、この音楽がどっか誕生しているような、僕には感じられるんですけどね。繋 がっているような。

 

アトゥイ:  どうだろうね。ただ、音楽に関しては、僕が一番感受性の強い時に育ったのが、 白糠(しらぬか)という町で、海の側だったんですよ。その海の側に住んで居て、その目と鼻 の先に、「神さまの婆(ばば)」と言われている─家の親戚なんですけど─おばあちゃんが おりましてね、日本人の方もアイヌの方も困ったことがあったら、神おろしをす るようなおばあちゃんが居たんです。何故かそこのおばあちゃんのところには、 近所のアイヌのおじいちゃん、おばあちゃんたちが集まって、夜になると、焼酎 を手に持って、囲炉裏にお酒を捧げて、そのうちに歌ったり踊ったりするんです ね。子ども心にも、とってもそれが美しく聞こえてね。僕の今の音楽の基礎とい うのは、あの夜中、朝明け方まで、アイヌのおじいちゃん、おばあちゃんが、焼 酎を呑みながら歌ったり踊ったりしている。それがやっぱりなんかベースになっ ているんですね。

 

苅谷:  アトゥイさんが最初にこういう音楽をやろうと思ったのは、いろいろ身体のなか に、昔から聞いた子守唄にしても、おばあちゃんから語られたこともいろいろあ ったと思うんですけど、直接自分が、自分の手でやろうと思いだしたことの動機 というのはなんですか。

 

アトゥイ:  それは小さい頃、あまりいい話ではないんですけど、アイヌであったということ もありまして、と同時に、家が非常に経済的に貧乏だったんですね。それで、周 りに一緒に遊んでくれるお友だちが居なかったんですよ。その時に、一所懸命表 へ出て働いて、その当時は、「雑品」と言ったんですけど、人の捨てた瓶とか、鉄 とか、銅とか、そういったものを、ゴミ場を漁っていた時に、たった一本だけ弦 のついているギターが落ちていたんですね、ゴミ捨て場に。勿論、共鳴板も壊れ ていますよ。それを拾って、ポンと音を出したら、その時すごく気持良かったん ですね。その音の気持の良さになんかこうグッときちゃって、子ども心にも。そ れでじいちゃん、ばあちゃんの歌っている歌を気がついたら、一本の線をたどり ながらなぞっていたんですね。それでたまたま隣に友だちが居なかったというこ ともあって、それがいつの間にか自分の心の友だちになってしまったんですね。 いつも自分の気持ちを慰めてくれる。それが自分で音楽を奏でるきっかけです。 気がついたら、アイヌのじいちゃん、ばあちゃんたちが、焼酎呑みながら歌って いた歌をつま弾きながら、無意識のうちに自分で聞こえてくるもの、自分で感じ たものを音にしだしたんですね。僕がほんとに曲らしい曲を作ったのは、十二歳 位の時です。

 

苅谷:  ほおー!

 

アトゥイ:  だから、あくまでも、これは他人(ひと)様に聞かせて喜んでもらうとか、そういったこ とから始めたんではないんです。自分を慰めるために始めたのがきっかけなんで すね。

 

苅谷:  捨ててあったたった一弦のギターが─。

 

アトゥイ:  だから、もうほんとにあのギターを捨ててくれた人にほんとに感謝しているんで すよ。


苅谷:  そういう出合いだったんですか。

 

アトゥイ:  はい。

 

苅谷:  私は最初から音楽を勉強していたのかと思ったんですね。

 

アトゥイ:  いや、僕は小学校三年の一学期までしか行っていませんから、今、難しい漢字を 読むことも出来ませんし、ましては楽譜を読むことも出来ませんしね。

 

苅谷:  じゃ、此処で今やっていらっしゃる音楽というのは全部楽譜はない?

 

アトゥイ:  まったく楽譜はないです。

 

苅谷:  みなさんは?

 

アトゥイ:  だから、身体で覚えるまで。昔アイヌのじいちゃん、ばあちゃんたちも、楽譜が あって覚えたわけではなくて、

 

苅谷:  口承ですね。

 

アトゥイ:  口承で。身体が記憶するまで勉強する。敢えて勉強しなくても、そういう生活空 間が昔あったんですね。だから、一度覚えたら忘れないですよ。知識として覚え ているんじゃないから。

 

苅谷:  ああ、身体に・・・身に付いちゃって。

 

アトゥイ:  指が覚えていたり、身体が覚えているから。

 

苅谷:  僕が、昨日の夜、ライブを聞かせて貰って、今のお話の中で、いわゆる「心を育 てろ」と。「心を揺らせ」と。あれはあの音楽の中で、僕はすごく感じていますね。 言葉では、今おっしゃられた、「あ、こういうことなのか」というのを、今分かり ましたけどね。心が揺れていましたよ、確かに。ああいう音楽の律動と言うんで すかね、あれがやっぱり人間の一番根底にあるものなんだろうと思いましたけど ね。

 

アトゥイ:  今はちょっと恥ずかしながら、お客さまから二千円という大金を頂いて、ああや っているんですけどね。でも、大事なことはきっと僕に影響を与えてくれたアイ ヌのじいちゃん、ばあちゃんは、自分のために歌ったり、踊ったりしたんですよ ね。そこに居て、観客がいるわけでもない。そして、歌ったり踊ったりしている 姿を、カムイ(神)に見て貰っていたと思うんです。そういった光景が僕の幼い 時の体験としてあるものですから、僕は今でも、自分の音楽というのは、自分の 魂に聞かせる。そして、魂に聞かせることによって、それが心の栄養剤になって いく、ということがあると思うんですね。だから、今でも基本は、お金を取って いますけど、お客さまに迎合して、歌ったり演奏したりするんではなくて、あく までも、「ああ、今日は一日また空気よ、ありがとう。水よ、ありがとう」とこう ほんとに礼拝しながら、そして、僕の歌をなんか感謝の気持ちを込めて、カムイ に聞いて貰いたいなあ、捧げたいなあ、と。そして、自分の心が豊かになってい きたいなあ、というのが、 頑固に変わらないんです よ。
 


 

苅谷:  「ペウタンケ(危急の声)」。 この曲には近代文明の発達 とともに、傲慢になってしまった人間が、多くの神々、つまり自然を傷付けてし まったことへの問い掛けが託されています。

 





アトゥイ:  そこにあるのは、アイヌ語で、「ヌササン(祭 壇)」と言うんですけど、これは我々アイヌ 民族にとっては、とっても大事な場所で、ち ょっと来たら礼拝をするんです。これがイナ ウなんです。此処は基本的には、魂を送る場 所なんですね。だから、その魂を送る祭りで、 とても有名な「イヨマンテ」ってありますよ ね。あれは熊の魂を神の国へ送る時に使われ る。これはやっぱり熊の頭です。とってもこ れは我々アイヌにとっては神聖な場所で─。



 

苅谷:  この場所はそれじゃ古くから、そのままあっ たんですか。

 

アトゥイ:  はい。場所は別の場所にもあったんですけど、 今こういう一つの時代の流れで、今、この木の大木の側で。
これはですね、一段こう低い所にありますね。これは「ランヌ サ」と言うんですけど、これは先祖を供養する時。だから、此 処で一年に一度は必ず地域の人たちが集まって供養する。

 

苅谷:  実際に来て、身体で感じると違いますね。写真で見るのとも違 うし、やっぱり説明を聞いていると、成る程、これが昔からの 伝統的なものなのか、と。まあ信仰ですね。

 



苅谷:  私は考古学に興味を持ち、役者をする傍ら、 多くの発掘にも関わってきました。古い遺跡 を掘る中で、縄文文化とアイヌ文化とが深い 絆で結ばれていることを実感し、アイヌの人 々の信仰に心引かれるようになったのです。




 


 

苅谷:  僕は今日、高台でいろいろ見ましたけど、この屈斜路湖の湖が夜になった時に、 もし青空で、星が煌(きら)めいて、山の稜線がずうっと出たら、非常 に恐いだろうなあ、と。そういうところに、神を感じる人が今 の現代人に何人いるだろうかなあ、と考えるんですよ。僕は感 じますよ。というのは、そういうところに入り込んでしまった のかも知れないんですから。
 

アトゥイ:  「アイヌ」というのは、日本語に直すと「人間」という意味な んですね。だから、「アイヌモシリ」というと、つまり「人間 という生き物が安心して生活出来る空間」を、僕は言っているんじゃないかと思 うんです。「カムイモシリ」というのは、これは「神々が生活する空間」だと思い ますね。

 

苅谷:  要するに、目に見えないもの。アイヌ語でいう「カムイ」というのは、日本語の、 いわゆる「神」とはちょっと違って。

 

アトゥイ:  そうですね。言葉には、民族によって言霊(ことだま)がありますよね。つまり西洋人の考え る神の概念と、日本人の考える神の概念と、アイヌの考える神の概念とは、やっ ぱりニューアンスが違うんですね。我々アイヌ民族が考えるカムイの概念という のは─つまり神の概念ですね─これは、「到底人間の力では計り知れない、及ばな いもの」と考えるんですね。人間は空気を作ることも出来ないし、立派なすごい 魚を創造することも出来ないし、こんな樹木も作り出すことも出来ない。水も作 ること出来ない。つまり、人間の手によって作り出すことの出来ないもの。そし て、到底力及ばないものを、僕は「カムイ」という尊称を与えて、尊敬して付き 合ってきたんではないか、と考えるんですね。だから、アイヌの考える神という のは、実に人間的で豊かなんですね。このカムイが絶対じゃないです。だから、 例えば、子どもが、湖とか川で溺れて、死んだとしたら、その神さまに向かって、 我々の祖先は、アイヌ語で、「カムイコ チャランケ(談判)」、要するに、談判を したらしいんですね。談判をされた神さまもちょっと面食らうと思うんですね。

 

苅谷:  そうですね。

 

アトゥイ:  どういう談判の仕方をするかというと、とってもユニークなんです。本来、神さ まは人間を守る役割を持っていらっしゃる、と。その役割を怠った、と。私は、 常日頃─カムイ─川の神さまでも湖の神さまでも尊敬して付き合ってきている、 と。その尊敬して付き合っているカムイに対して、ほんとに真心を込めて祈り、 そして、真心を込めてイナウ─イナウというのは御幣なんですけどね─を作って、 お酒を捧げ、イナウを捧げ、誠心誠意付き合ってきた、と。オシッコ一つするで も、ああ、どうか一つ、トイコロカムイ(土の中の神さま)よ、どうか私の汚し たこの水を、再び私の飲み水として、あなたの力で受け取って下さい、と言って。 そういう気持でお付き合いしているものですから、結果として、幼い子どもの命、 人間の命を取った神さまは、どうしてくれるんだ、と文句をいう。つまり、これ は神さまに向かって文句をいうということは、これは普通の一般常識では考えら れないことですね。

 

苅谷:  神道(しんとう)では考えられない。

 

アトゥイ:  考えられないんですね。絶対神的な側面がありますから。それだけちょっと裏返 して考えると、如何に自然をカムイとして尊敬して、心からお付き合いをしてき たか。結果として、改造したり破壊したり汚染したりすることは非常に少なかっ た。それだけ自信があるから文句を言える、と僕は思うんですね。そういった意 味では、アイヌの考える神というのはほんとに親しいんですね、神さまと。つま り、「神ありて我あり、我ありて神あり」と考えるんですよ。それはどういうこと かというと、神さまがいらっしゃるから、我々人間もこうして生活していかれる、 と。我々人間が居るから、実は神さまも生活出来るんだ、と。これは面白い話だ と思うんですけど。例えば、人間が居なくなったら、イナウを作って捧げてくれ る人はいない。人間が飲んでも神さまが飲んでも、あんな美味しいお酒を捧げて くれる人も居なくなる。だから、相互信頼を持って、神々の役割、人間の果たす 役割ということを、実に心静かに考えて付き合ってきた。それがアイヌの神に対 する考え方なんですね。

 

苅谷:  両手の掌を上にして、前に挙げますね、これは何か崇めるというのは何となく分 かるんですが。

 

アトゥイ:  あれはアイヌ語で、「オンカミ」というんですね。「オンカミ」というんですけ ど。日本語に直すと、「礼拝(れいはい)」ですね。これはとっても意味がありまして、アイヌ の人たちは必ずと言っていいほど、こうやって礼拝するんですね。それは自らの 心、魂と、大自然の神々の魂と、魂が心静かに、心優しく響き合いますように、 という気持が感謝の現れなんです。

 

苅谷:  でも、この仕草が、さっきのヌササンでやるのも同じですけど、ステージの中の 踊りの音楽と非常によく合うんですけどね。

 

アトゥイ:  だって、音楽に合うかどうか分かりませんけど、私たち日常生活の基本ですから、 礼拝は。崇め奉る礼拝ではなくて、カムイと親しくなりたい礼拝ですから。仲良 くしたいんですよ、神さまと(笑い)。

 

苅谷:  僕らがやるとぎこちないですけど。非常によく合いますですね。

 

アトゥイ:  だから、大自然をほんとにカムイ、神さまとしてほんとに信じていないと、こう 礼拝したって嘘っぽくなりますよね。知識として知っているんではなくて、我々 は。心と心でなんか感じ合っているんですね。それはああいう所作に現れるんで すね。

 

苅谷:  それから、踊りの中で、女性が髪を振りますね、これも昔からの─。

 

アトゥイ:  ああ、これはほんとに、僕が子ども心が付いた時から見ていますから、いつから、 何百年、何千年、何万年やっているか分かりませんけど、相当古くから伝わって いる振りだと思いますね。


苅谷:  あれはなんか意味があるわけですか。

 

アトゥイ:  あれね、木がもの凄く揺れるじゃないですか、台風がきてね。 そうすると、柳の木なんか地面を這うように揺れ動きますよね。 それを表現しているんです。

 

苅谷:  やっぱり自然を、自然そのものが全部こう表現されて─。

 

アトゥイ:  アイヌの踊りというのは─つまり、歌、ものの考え方─先程、自然が教師と言い ましたけど、大自然の情景を取り入れて、魂を表現しているんですね。例えば、 踊りなんかでも、身体を上下運動をしますね。これは海の波ですよ。そして、陸 であれば山ですよ。そういう自然からの、鳥が羽ばたけば・・・こう鶴が羽ばた く。昨日の踊りでも鶴が出てきましたね。丹頂鶴の羽を現して、丹頂鶴になった ような気持になって。

ペウタンケの中で、男性が剣を持ちますね。気が付いたかどうか分かりませんけ ど、剣は─刀ですね─あの刃がどっちに向いているか気が付きましたか?

普通、刃は自分の方に向けます。剣というのは、アイヌの考えでは、人の首を切 ったり命を取るもの、とは考えないんですね。すごい魔力的な力を持っている。 で、魔を払うんです。悪い神さまを払う。だから、決して、アイスは、剣は人を 殺すためのものではなく、悪い神さま─ウエンカムイというんですけど─悪い神 さまを払う。だから、刃は自分に向けて踊るんです。だから、ペウタンケの中で、 何故僕はあれを取り入れているかというと、きっと今生きている人間は、なんか 悪い神さまによって動かされているんじゃないか、と。悪い神さまに支配されて いるんじゃないか、と。悪い神さまに向かって、「どうだ。これが目に入らぬか」 と言って、悪い神さまを追い払う、という役割で、あの剣を使っているんです。

 

苅谷:  あらゆるものがその中にあるんでしょうけど、一つだけ僕らには出来ないなあと 思うのは、「オー・・・」とやる。

 

アトゥイ:  あれは主に男性がするんですね。アイヌ語で、「ウココセ」と言うんです。これ は、僕がアイヌの老人で尊敬していた山本多助(たすけ)さんと言えば、亡くなりましたが、 この方に聞いたところ、こう言っておりましたよ。ウココセの意味は、「神々を自 分の手元、この場所に降ろすんだ」と。だから、アイヌの男性にとっては、あの ウココセはとっても大事なんですね。

 

苅谷:  あれは震わしていますよね。あれはどういう意味があるんですか。

 

アトゥイ:  あれは、「オーオーオーオー~~~」とやるんですけど。これは何故震わすかと いうと、つまり、音が揺れますよね。声を出す時も魂を乗せる。乗せると魂が揺 れる。声が揺れる。どうもそれを神さまはとっても喜ぶ、と言われているんです よ。「アアー」じゃ、あまり喜ばない、と。ほんとに全身全霊真心込めて声を震わ せて、僕は音の魂─音霊(おとだま)と言っているんですけど─その魂を揺らすことによって、 実はそれを聞いた神さまはとっても喜ぶ、という具合に聞いているんです。

 

苅谷:  それが考古学的に証明できることではないんですけど、そのアイヌのウココセを 聞いた時に、「あ、これは確かに神を呼ぶものだな」と思ったんです。それが弥生 時代になると、銅鐸というのが出来るんです。あれは非常に、「カーン」という、 甲高い音なんです。銅鐸を復元して鳴らすと、「カーン」という、半鐘みたいな音 がするんです。あれが、単に、「カーン」と鳴らすんじゃなくて、今のみたいに、 「ガラガラガラ・・・」と鳴らすんだと思うんです。そうすると、大自然にあの 銅鐸の音が、「ワアッ・・・」と響いていくんだ、と思うんです。弥生時代は、あ れがお祭りの中の最高の祭儀なんです。あの音というのは、そのまま今のウココ セに繋がってくるんです。それともう一つ、神主さんが上座の前でやる時に、「オ ーオー・・・」とやりますね。あれは真似、同じようなことなんですか?

 

アトゥイ:  真似というより、やっぱり人間という生き物は、お互いにこの文化接触を行うこ とによって、影響し合いますからね。だから、もしかしたら、アイヌ文化からな んか感じ取ったのかも分かりませんし、また逆に、アイヌが、神主から影響を受 けたのかも分かりませんし、その辺は定かではないんですけど。確かに、神道と 言われている、つまり日本の神社思想なんかみていると、神主のやっている所作 とか、祝詞(のりと)を聞いていると─御幣ってあるでしょう。あれは紙で出来ているけど、 アイヌの場合は木で出来ている。あまりにも似すぎているんですね。

 

苅谷:  それがずうっと原始神道を辿っていって、それこそ古墳時代とか、弥生時代まで いくと、声は残っていないんですけど、仕草があの辺から出来上がってくるんで すよ。そうすると、枝葉が分かれたかも知れませんけど、根本的には、アイヌ文 化の、今の「オーオーオー」という音は、やっぱり弥生時代の銅鐸の音であり、 神主さんが神を呼ぶ時の声であり、ウココセであり、というふうに、分かれてい っている。その基本的なものがやっぱり残っているんだ思うんです。それが今の 音楽と非常に合うんですよ。神主さんのあの「オー・・・」というのは音楽と合 わないです。

 

アトゥイ:  神主さんは震わさないんですよね。「オー・・・」と。

 

苅谷:  だから、ちょっと違うんですよ。その辺が、アイヌの音の方がむしろ僕らには合 う。こういう動きになってくるんですね。それから、作曲されている音楽の音律 というんですか、あれの中にやっぱり子守唄がありましたね。あの中に出てくる あの音律なんかは、僕らの小さい頃の童歌(わらべうた)の音律がずうっと入ってくるんです ね。

 

アトゥイ:  ああ、そうですか。

 

苅谷:  あの感覚というのは、なんで生まれたのかな あ、と。
 


 

苅谷:  この子守唄は、アトゥイさんが、幼い日々へ の追憶を込めて作った曲です。優しい調べは、 日本人である私の心の中にも、どこか懐かし く安らぎに満ちた記憶を呼び起こしてくれました。

 


 

アトゥイ:  子守唄というのは、人間が─子どもであっても、大人であっても寝るということ は、一番無防衛な状態になりますよね。無防衛な状態な時が一番人間が安心しな ければいけませんね。安らぎを持つわけですから。よい静けさを持つわけですか ら、いっときね。だから、ほんとに人間という生き物は、一番安心して、無防衛 になれる音が子守唄だ、と思うんですよ。

 

苅谷:  小さい頃、自然に、例えば、「何々ちゃん、遊ぼう」とかいう音律がありますね。 これはそのまま童歌の中に出てくる音だと思うんです。人間の音階というのは、 頭の中で、「ドレミファソラシド」がなくても、節を付けていつもいっていますよ ね。

 

アトゥイ:  「ドレミファソラシド」という理論は後から出来たものですからね、便宜上。

 

苅谷:  そういう音律というんですか、それがすごくアイヌ文化の音の伝統の中に、節の 中に残っていて、どこかそれを、なんか身体に付いていたものがこう出てきてい るんじゃないかなあ、という気がしましてね。

 

アトゥイ:  人間という生き物の感性というのは、本人が考えなくても本能的なもので、ちゃ んと遺伝子の中に組み込まれていると思うんですね。だから、僕は曲を作る時に、 「さあ、曲を作るぞ。作曲するぞ」と思ったことは、今まで一度もないんです。 自分の遺伝子に仕組まれている感性が、なんか自然に触れて、刺激を受けるのを 待つんですよ。そうすると、実は聞こえてくるんです、音がね。だから、僕が家(うち) らの仲間と音楽をやっている時に、夜中、突然起きるんですね。そうしたら、気 が付いたらピアノに向かって、メロディが聞こえてくる音を弾いている。ギター を弾いている。そして、昼間でもそういうことありますよ。何時でも聞こえてく るわけではないんですけど。僕は、最初、家(うち)にいるメンバーや周りの人たちもみ んな聞こえているものだ、と思ったんです。そうしたら、「わあー、聞こえてくる、 聞こえてくる。お前ら、聞け!聞け!」と言ったら、キョトンとして、「何にも聞 こえてこないよ、私たちには」と言うんですね。

 

苅谷:  可笑しいじゃないか、って。

 

アトゥイ:  可笑しいじゃないか、って、ほんとに悩んだことあるんですよ。みんなも聞こえ ていると思っちゃうんです。そうでしょう、だって、自分が湖が見えるのに、相 手が見えない、と言ったら、ビックリしますよね。だから、それから、「あ、俺は 自分の内に秘めている遺伝子の感性が、何かの形で刺激を受けたら、フッと出て くるんだなあ」という感じしましたね。

 



苅谷:  人間の手によって滅んでいった多くの生き物 たちの魂を慰めるように、アトゥイさんはギ ターを奏でます。

「ペウタンケ(危急の声)」。その後半は、「ウ ココセ」をきっかけに、一転して激しい曲調 に変わりました。人間のあり方は、今のまま で良いのか。自然を傷付け、子孫に残すべき 貴重な財産を失っているのではないか。アトゥイさんのメッセ ージが、激しくダイレクトに心に伝わってきました。まさに、 音楽に魂を乗せたかのような熱気が、小さなライブハウスを満 たし、私はいつの間にか涙を流していました。
 


 

アトゥイ:  今、僕は、日本人の作った社会の仕組みの枠の中で生活をして いますね。朝起きた時には、「おはよう」とか、「こんにちわ」 とか、「こんばんわ」とか、挨拶言葉がありますね。人と人とが出会った時に、顔 を合わせた時に。まあ今の日常生活には、我々にはそういうのは少ないんですけ ど、その昔は、人と人が初めて会った時、交わす挨拶言葉があるんですよ。アイ ヌ語に、「おはよう」「こんにちわ」「こんばんわ」という言葉がないんですよ。 人と人が初めて出会った時に、こうして礼拝をしながら、「イランカラプテ」と言 って挨拶するんです。これは日本語に直すと、「あなたの心にそっと触れさせて頂 きます」という挨拶なんです。それを受けた相手は、男性であれば、両手の掌を 上にして上げる所作をしながら、「ウエランカラプ アンナ」─互いの心にそっと 触れ合いましょう。このような挨拶の言葉から、人と人としての付き合いが始ま り、それが長く付き合えば付き合うほど、美しさが増していく、と考えるんです ね。だから、僕は民族が違うと、一つの挨拶の仕方、感性が違う。感性が違うと いうことが如何に美しいか、と思っているんですよ。

 

苅谷:  そういうことはまあないですね。

 

アトゥイ:  僕が突然苅谷さんに出会った時に、「イランカラプテ」って、ご挨拶しても、「何 だろ、これは?」と思いますよね。

 

苅谷:  思いますね。ただ、やっぱり人の心をやっぱり感じるものは持っていると、自分 では思っているんですけど。

 

アトゥイ:  さっきからお話を聞いているけど、自分の感性を大事にして、それを理屈抜きに 素直に感じる方だなあ、とお見受けしたんですけどね。僕はアイヌの一人として、 やっぱり祖先がいろいろ教えてくれたものの考え方。これはきっと何かこれから の人間の社会、人類のために、役に立つことが一つや二つある筈だ、と。そして、 アイヌの財産、つまり、我々の祖先が残してくれた精神文化、哲学は、アイヌ民 族だけの財産ではなくて、地球人類が共有する財産である、という。僕はそうい う考えを持っているんです。だから、祖先が教えてくれたことを、歌や踊りに、 そして、「ペウタンケ」に気合いを入れて、心を込めて、あれはきっと死ぬまでや るでしょう。

 

苅谷:  「ペウタンケ」、これはどういう意味なんですか。

 

アトゥイ:  「ペウタンケ」というのは、人間が長い人生生きていく中で、もっとも危急を感 じた時に行う所作のことを「ペウタンケ」というんですね。例えば、物事によっ て変化するんですが、火事になった、と。そうしたら、女性が、もの凄い甲高い 声で、隣の村に聞こえるぐらい、今のように騒音がありませんからね。ほんとに 遠くまで聞こえたらしいんですよ。それで、「この家は大変だ。火事になってい る」と言って、危急を知らせる、という時も「ペウタンケ」と言いますし、それ と、神の前で、「我人間として、何も間違ったことをしていない」と言って、「こ の我の願いを、この声を聞き届けよ」と、言って、神様に呼び掛ける時にも使う んですね、「ペウタンケ」。それを今日(こんにち)のモシリのライブで、最後に定番として取 り上げているのは、「もうこのままでいくと人類危ないよ」と。「今、本気になっ て起ち上げなければいけない。僕は危急の時期だ」というふうに考えて、ライブ に取り入れているんです。つまり、「人間が居なくなても、地球は何も困らない。 子々孫々に残すべき財産は、何なのか。共に考えよう」。そういう意味なんです ね。

 

苅谷:  最後にやっぱりシンセサイザーの、ちょっと不気味な、「ホワーン」という、

 

アトゥイ:  ギター弾いている時と一緒ですね。不安感、もう不安感を感じる。

 

苅谷:  それから、今の「オーオーオー・・・」が入ってきて、あの曲。あの曲を聴いて いる時に、やっぱり僕ら後ろでやっぱり涙が出てきましたね。

 

アトゥイ:  僕はほんとに、言い過ぎかも知れませんけど、私初め現代人というのは、集団自 殺する思想を持って、まっしぐら、もうレミング(lemmig:ネズミの一種。時々大 増殖した死の大行進をする)状態のような気がするんですね。だから、俺も生き ている人間の一人として、自分で果たすことは何なのか。命を懸けて、「ペウタン ケ」を音楽に託して、そして、二千円も払ってくれたお客さんに向かって失礼な んですけど、「あんたがた、これでほんとにいいんですか」と。「こんなにボオッ としていていいんですか」と。「本気になって考えて下さい。起ち上がって下さ い。私も頑張ります」という意味であの「ペウタンケ」を最後にやるんです。こ れは、僕が死ぬまで一生、最後の曲で続けるでしょう。「また同じ曲やっているの か」と、お客さんに怒られてもいいんですよ。これは人類の存亡をかけて。やっ ぱり人間が気が付かないとダメですから。

 

苅谷:  そうですね。

 

アトゥイ:  今、感謝をすること─一杯の水を飲むのでも、美味しい空気を吸っていても、ほ んとに有り難いと思っている人は少ないんですよね。

 

苅谷:  まず、ないですね。

 

アトゥイ:  だから、その辺から、人間は一回考え直す必要があるかも知れませんね。

 

苅谷:  諦めていますけどね。そこがやっぱり僕がダメなところだと思うんですけどね。 自分を諦めないでいいんじゃないかとは思うんだけども。

 

アトゥイ:  もう開き直ったらね、結局、諦めた方が楽になるんですね。だけど、僕には十二 人の子どもがいますから。やっぱり自分の子どもたちに残す心の財産は一体なん なのか。諦めないで、気合いを入れて生きていく。やっぱり人間は諦めてはいけ ない。というのを、せめてその心だけをなんか財産として残したい。だから、親 父も頑張る、というところがありますよね。

 

苅谷:  随分いろいろなことを勉強しましたね。

 

アトゥイ:  いや、勉強しなくていいから、なんか感じてくれればいいんですよ。僕は、苅谷 さんに教えているつもりはないし、僕の感性を素直に語っただけであって、それ を何か感じて頂ければ、これも自然界の神々が縁を取り持って下さったんだなあ、 と。僕も感じるわけですね。だから、僕が、苅谷さん、さっき言ったように、人 が人を教えるという仕組みは、アイヌ社会には非常に少ないですから。互いに刺 激し合って、自らを育てていく。そして、自らの個の確立した哲学を構築する。 そのことを互いに尊重しあう。たまたま同一価値観を共有した時には、ああ、偶 然だった、と。だって、苅谷さんは人間で、俺も人間で、眼が二つあって、鼻が 一つあって、眉毛が二つあって。でも、「ああ、苅谷俊介」「アトゥイ」と言って、 お互いに区別も出来るし、周りも区別出来るじゃないですか。人間には代わりは ない。じゃ、そこで、人間には代わりはないけれども、じゃ、己の感性、感じる 価値観の哲学というのは、人に教えられるのではなくて、自分で構築していかな ければいけない、と思うんですね。僕は、それはとっても人間が幸せになる重要 な仕事だ、と思うんです。だから、感性が違うほど美しいんです。僕は、いつも 異なる世界は美しい。異なる価値観の美しさを発見する旅が二十一世紀だ、と思 っているんです。それは、現代の宗教とか、思想というのは、同一価値観を無理 矢理共有させよう、と。結果として、人が人を支配し易くなる。ややもすると、 戦争にも繋がっていく、ということになりますよね。だから、僕は個の確立とい うのは、大自然と心豊かに語り、そして、人間という生き物は、人間同士互いに 刺激しあって、相手に迷惑の掛けないような価値観を、自分の心の中に構築して いく。それが哲学だと思うんです。だから、哲学というのは、何も学者がするも のではなくて、一人ひとりの生活の中で、個人が常日頃、哲学をやればいいんで すよ。そんなもの学校で教えられるものでも何でもないし。ただ、僕は、哲学者 という人がいるんだけど─学問する人だと思うんだけど─それはそれでさて置い て、でも一般の庶民の一人ひとりの心の中に、そういう哲学する心が、きちんと ある社会が確立されれば、もっと安心して平和に暮らせる、と思うんですね。人 を殺すのが俺の趣味だ、というのは頂けないけど、条件がありますよ。著しく他 人に迷惑を掛けない哲学。そして、ああ、苅谷さんの考えと、俺の考えはこんな にも違うのか。その考え方の違いに美しさを、お互いに発見する努力をする必要 がある、と思うんですね。だから、苅谷さんが僕の話を聞いて、あんまり「ウン ウン」と同意されると、何か背中が痒くなってきて、俺は好き勝手に言いたいこ とを言っているだけなのに、と思うんですよ。

 

苅谷:  よく分かりますよ。よく分かるんです。自分がそういうふうになれるか、という ことを考えて、ウンウンと頷いているんですよ(笑い)。

 

 

これは、平成十三年十一月四日に、NHK教育テレビの

「こころの時代」で放映されたものである。
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