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エゼキエル書2 主はエルサレムに住む 25~48章

2017年05月19日 | Weblog
  エゼキエル書2 (主はエルサレムに住む) 25章~48章
 はじめに
 主がエルサレムに住むという思想はソロモンによる神殿建設以降一般化しています。主は神殿建設中のソロモンの前に立ち、あなた方がわたしの前において完全であるならば『わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない(Ⅰ列王記6:12~13)』と述べています。この思想は詩篇などでも詠われています(詩篇46,48,76他参照のこと)。
 エゼキエル書は、ケベル湖畔の町テルアビブでの主の幻=ケルビムの出現に始まり、再建された神殿と回復したエルサレムの幻で終わりますが、この間、主が一端、エルサレムを見捨てた状況が語られています。主は仰せられます「わたしの前で完全であるならば」と、しかしイスラエルの民は決して主の前で完全ではなかったのです。主に背き続けたのです。それで主は怒り、バビロンを使って、この町を廃墟とします。すると人々は、「あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れだした、彼らの神=主を捨てて、他の神々に頼り、これを拝み、これに仕えた。そのために主はこの全てのわざわいをこの人たちに下されたのだ--------(Ⅰ列王記9:9)」と。しかし主は、エルサレムの崩壊をあざ笑ったイスラエルに敵対する周辺諸国を罰します。基本的には主はイスラエルと共にあったのです。主は「聖なるわが名のために」自らの選びの民を冒涜することをお許しにならなかったのです。次に周辺諸国に対する審判預言について見ていきたいと思います。

 諸国民への審判預言とその背景

 上記の周辺諸国はエジプトを除いて全てイスラエルに敵対する国々であり、イスラエルの崩壊を歓喜し、あざ笑った国です。しかし、なぜか、バビロンに関する審判預言はありません。当然あってしかるべきです。ここにエゼキエルの意志を感じます。エゼキエルはバビロンに好意を持ち、イスラエルの民に対し降参してバビロンに仕えよとまで言っています。機会を待てと云っています。勿論その背後には主が居ます。
主はイスラエルを崩壊させた張本人です。その主が、イスラエルの崩壊を歓喜し、あざ笑った国々をなぜ裁いたのでしょうか。一見、矛盾しています。
 創世記12章3節には次のような主の言葉があります「あなたを祝福する者を、私は祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う」と。主は自らが選び、契約まで結んだイスラエルを、その不義ゆえに罰しはしても、「その聖なる名のゆえ」に滅ぼしはしなかったのです。そこにはイスラエルに対する愛がありました。それゆえ、選びの民であり、契約の民であるイスラエルを呪い、その崩壊を喜ぶ諸国を許すことが出来なかったのです。特にエドムに関しては25章に語られていますが、べつに、独立の章(35章)がもうけられ、そこでも改めて審判預言が語られています。特に、エドムとはヤコブ(イスラエル)によって長子権を奪われ、その正統性も奪われ、傍系に甘んじたエサウの子孫の作り上げた国です。長子権を奪われた時、エサウは怒ってヤコブを殺害しようとしますが、のちに和解しています。その信義に反して復讐を試み、イスラエルの崩壊に乗じて、あわよくば国を回復しようとしてバビロンと共にエルサレムに侵入したのです。そのため主の怒りが及んだのです。

 ツロ:南フェニキヤの有力な商業都市であり、貿易によって巨万の富を築いた海洋都市であり、軍隊によって守られた豊かで、美しい都市でした。その豊かさを27章では詳細に描いています。この強固で美しい都市が主の鞭(バビロン)の前でもろくも滅び去るのです。その滅びはその他の諸国と同じくイスラエルの崩壊をあざ笑ったことにあると同時に、その強さと豊かさゆえにこの国の王が高慢となったことにあります。われこそは海の神と「自分は神なり」と高ぶったのです。「神はわれ1人」と誇る主にとって自分以外に神があってはならないのです。神は謙虚さを要求するのです。「お前は人であって神ではない」と主は言います。
ツロは反バビロン的立場を鮮明にし、エルサレムの熱狂的反バビロン分子と呼応してバビロンと事を構えようとして滅ぼされます。主はエゼキエルを通じて親バビロン的立場を鮮明にしてこれに仕えよ、と戦火による滅亡を避ける方法を模索していたのです。

 エジプト:エゼキエルの時代エルサレムはバビロンに包囲されていました。この時エルサレムの指導者層は、エジプト派とバビロン派に分かれて争っていました。大国に挟まれた小国イスラエルが生き残って行く為には、どちらかに頼る以外に道は無かったのです。イスラエルの熱狂的分子はエジプトに頼ってバビロンと闘おうとします。エゼキエルの平穏、かつ平和的戦略(バビロンに仕える)とは当然対立します。
 当時、エジプトは、強力で、美しい国でした。エデンの園にも例えられていました。これらすべては主の恵みだったのです。それにも拘らず、それを自らの力と過信し、エジプトは高慢となったのです。「ナイル川はわが作品」とエジプト王パロは言います。主は怒ります。自然の創造は神以外にあり得ないのです。その高慢に対して主の裁きが下ります。裁きの鞭ネブカデネザルによってエジプトは滅ぼされます。しかし40年の廃墟の末にエジプトは回復します。主は言います「40年の終わりになってわたしはエジプト人を、散らされていた国々の民の中から集め、エジプトの繁栄を元どおりにする。彼らをその出身地パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足らない王国となる。どの大国にも劣り、2度と諸国の民の上にぬきんでることは無い。かれらが諸国の民を支配しないように、私は彼らを小さくする。イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる(29:13~16)」と。ネブカデネザルによるエジプト征服の知らせはバビロンに捕囚になっているユダの人々にエゼキエルの言葉こそ真実であることを知らせるものだったのです。
 このようにエジプトもツロもそのおごり高ぶりは、自らを神に見立て主を冒涜するものでした。更に偶像を作り異教の神を信じたのです。主の最も嫌われる行為です。主はこれを罰します。主の関心は、この世の智恵、富、権力ではなく主への信仰、救いにあります。

 イスラエルの回復の預言(わが聖なる名の故に) 
 神のご計画の最終目的は、エデンの園(新しいエルサレム)の再現にあります。主の栄光を世界に輝かす為には、自分の選びの民であり、契約の民であるイスラエルを滅ぼすことは出来ないのです。「わが聖なる名の故に」イスラエルは輝いていなければならないのです。イスラエルを愛する前に、主は自らを愛しておられたのです。イスラエルはあくまでも主のご計画を達成する為の手段に過ぎなかったのです。「イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなた方のためではなく、あなた方が行った諸国の民の間であなた方が汚した、わたしの聖なる名のためである(36:22)」。
「わたしのために、あなた方は裁かれ、認罪し、悔い改め、わが前に立ち返れ、この時『あなたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる(37:23)』」。
 エドムの章が回復預言にも含まれたのは、過去の経緯はともかくとして、イスラエルの地は主がイスラエルに与えた相続地であり、嗣業地であるという事です。この地を奪おうとすることは主に対する冒涜です。主の怒りがエドムに向かったのは当然です。この地は将来的に捕囚の民が帰還を果たすべき土地です。主はエドムを一掃して廃墟にしたのです。後顧の憂いを取り除いたのです。
 主はエゼキエルを谷間につれていく。そこにはイスラエルの民の骨で満ちていた。主はその骨に息を吹きかけ蘇らせる。彼らは絶望の淵にあった。主は彼らに希望を与える。「神である主はこう仰せられる。『みよ、わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族を取り、それらをユダの杖にあわせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つにする(37:19)』と」。「わたしが彼らを、その地イスラエルの山々で一つの国にするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの国にならない(37:22)」。「わたしのしもべダビデが王となり彼ら全体のただ一人の牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行う(37:24)」。そしてイスラエルは回復し、子々孫々永遠にそこに住み、ダビデが永遠に彼らの君主となる。と主は預言する。ダビデ=イエス・キリストと考えて良いででしょう。

 新しい神殿
 捕囚地にいたエゼキエルの前に再びケルビムが現れ、彼をエルサレムに戻します。そこには神殿がありました。主の御使いがこの神殿を案内します。聖書はこと細かに神殿の構造について語っていますが、よく分からないし、聖書学者ではないので省略します。神殿とは神のお住まいです。主は再びエルサレムに戻りますが、その為には備えが必要です。
 主の御使いがエゼキエルを出入り口へと誘います。水が神殿の敷居の下から流れ出ていました。その水は川となりアラバ(荒地)を下り海(苦い水=死海)に注ぎます。そしてその水は癒されます(真水になる)。その水は各地に流れ込み全ての人に恵みを与えます。漁師に、農民に与えられ,川の畔の果樹は生い茂る、その水が聖なる場所から出るからです。
水=聖なる方(主)、苦い水=罪に満ちたイスラエルの民、苦い水は癒される=救い、
生い茂る=主の恵みを受けて救われる。

 嗣業の地
 イスラエルの地に戻った民(異邦人も含む)には嗣業の地が与えられます。
平成29年5月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
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文化
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