日常一般

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アブラハム=イスラエルの民の父祖

2014年01月26日 | Weblog


アブラハム=イスラエル民族の父祖

 旧約聖書はイスラエル民族の建国史として読むことが出来る。その歴史の初めに立つ存在がアブラハムである。人類救済の出発点として神によって選ばれた最初の預言者(神によって選ばれ神の言葉を伝える使命を帯びたもの)である。
アブラハムの記述は、創世記の11章から25章にかけて描かれている。
アブラハムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖と云われている。

 ユダヤとイスラムの対立の源
さて、同じ神を頭にいただくユダヤ教とイスラム教が、今日、何故いがみ合っているのだろうか?それを知る手がかりが、アブラハムにある。アブラム(アブラハムの旧名)とその妻サライ(サラの旧名)の間には長い間、子が無かった。そこでサラはその婢(はしため)ハガルをアブラムに与え、その子を、アブラムの子孫にしようとした。ハガルはエジプト人であり、異教徒だった。そしてハガルは男子を産む。それがイシュマエルである。その後、サライは、神のお告げ通り、子を授けられる。それが、イサクである。アブラハムの歳はその時100歳であった。イシュマエルを生んだ時は86歳であった。イシュマエルの立場は微妙となる。サラは、イシュマエルとハガルの母子を荒野に追放する。ほっておけば、母子は、野垂れ死にしたであろう。しかし神は救いの手を差し伸べる。イサクをアブラハムの子孫とし、イシュマエルも、一つの民の父祖とする。彼もまたアブラムの子だから、と述べる。その通りになった。イシュマエルは成長し、荒野に住んで、弓を射るものとなった。ハガルは、彼のためにエジプトから妻を迎え入れた。これがイスラム教の始まりである。今日のイスラム教と、ユダヤ教の対立の構造の源はここにある。しかし、対立の構造は、これだけではない。神は、ハランに住むアブラム(後にはモーゼに)にカナンに行けと命令する。そして、この地をおまえに与えると契約する。この時カナンにはカナン人が住んでいた。この先住民との間に争いが起こらないといえるであろうか?
次に、神とアブラムとの契約について述べてみたい。

 神とアブラハムの契約
キリスト教における契約とは、神が救いのみ業を成し遂げるために、人間との間に結ぶ恵みの関係を指す。契約とは本来、相互的なものであり、代価の無い契約は無い。神は、ハランに家族と住むアブラムにカナンに向かえと命令する。そしてこの地を、アブラムに与え、永遠の所有者とし、多くの民の父となるようにと神示する。
カナンとは現在のレバノンの南から、イスラエル一帯を漠然とさす名称である。聖書はこの契約について随所(12章1~9節、13章14節~18節、15章8節~20節、17章1節~22節)で述べている。この、契約によって、アブラハムとその子孫は神に選ばれた民になる。その証しとしてアブラムはアブラハム(創世記17章節)にアブラハムの妻サライはサラ(創世記17章15節)と名を変える。
神はアブラハムに恵みの契約を与え、その代価として、神に対する従順を命じ、更にこれを破った場合の罰則まで規定する。まさに契約である。
契約の内容については先にも述べたが創世記17章をもとにして詳しく述べてみよう。
その恵みの契約とは
1.カナンの地をアブラハムに与える(創世記17章8節)。
2.この地をアブラハムおよびその子孫に永遠の所有地として与える(創世記17章8節)。
3.アブラハムの子孫を限りなく増大させ(創世記17章2節)、多くの国民の父祖とする(創世記17章4節)。
の3つに要約する事が出来るであろう。
そして一方の当事者であるアブラハムとその子孫に
1.自分を唯一の神とし、神の前で完全であれ(創世記17章1節)
2.肉体に刻まれた永遠の契約の証しとして、子々孫々にわたって割礼を施せ(創世記17章9節~13節)と神示する。この結果、アブラハムは99歳で、イシュマエルは13歳で(創世記17章24節~25節)、イサクは生後8日目に割礼(創世記21章4節)を受たのである。勿論、アブラハムの一族郎党も割礼をうけたのは当然である。。
そして、これを破った場合の罰則規定として、
 「自分の民から断たれねばならない(創世記17章14節)」とした。
 ここには1、唯一神への信仰、2、民族の増大、繁栄、3、土地所有に対する特権的支配の承認、がある。アブラハムは神との契約を果たし、カナンの地に確固たる地盤を築いて175歳で没する。
 そしてこの契約は、その後のイスラエルの歴史を規定する。モーゼの出エジプト、然りであり、シオニズム運動、イスラエルの国家建設、と、流浪の民となり、世界各地に分散し混血を繰り返しながらも、イスラエルの民を統一させ結束させる原動力となったのである。それ故、イスラエルの民は血縁で結ばれた民と云うより、唯一神によって結ばれた民と云うべきであろう。イスラエルの建国はパレスチナを永遠の所有者とする神との契約を実現させたものである。3000年以上にわたって、宗教的結束を守り抜き建国と云う悲願を達成させたイスラエルの民の存在は驚異と云っても過言ではあるまい。

 イサク献供
 ある時、神はアブラハムに試練を与える。その記述は創世記22章1~19節に渡って述べられている。神はアブラハムにその愛し子イサクを全焼の供犠として捧げよと命じる。聖書には何も書かれていないが、アブラハムは悩み苦しんだと思う。しかし神の命は絶対である。神に捧げるべき刀を振り上げ、イサクを屠ろうとする。神の使いの天子がこれを留める。アブラハムはこれが、神の試練であったと知り、イサクの代わりに全焼の生贄として牡羊を神に捧げる。神は愛し子まで神に捧げようとしたアブラハムの信仰心の深さに喜びを示し、アブラハムの子孫の増大繁栄を保証する。と云うのが大筋である。
 しかし、この話は少しおかしい。神は、アブラハムの愛し子であり、年老いてやっと生まれたイサクを神に捧げよ、という。たとえ、これが試練であっても、アブラハムはこれが試練であるとは知らない。だから、これはあってはならない試練である。神はアブラハムにイサクを与えた時、「私の前に出て、完全であれ、この子をアブラハムの後継者として子々孫々まで増大繁栄させる」と契約している。そのイサクを神に捧げよという。屠れという。これは明らかに矛盾であり、契約違反である。裏切り行為である。試練であると知らないアブラハムにとっては、まさに、そうである。契約は、この試練に先行している。契約した以上試練は必要ない。契約は守られなければならない。これは一般社会の常識である。この話は、一般的にはアブラハムの信仰心の深さ、強さを表したものであると評価しており、聖書もそうであると認めている。しかし、一方では生かせと云い、他方では屠れという。これをどう解釈すればよいのか?先にも述べたように、これは試練であるという弁解は通用しない。しかし、神のみ業は全て善きこと、人知を超えた行為に対して僕が批判する資格は無い。とでも云っておこう。
 更に考えたいのは、神に対する愛か?人に対する愛かという問題である。人に対する愛は神に対する愛の前では犠牲にされても良いのか?と云う問題である。愛には2つのかたちがある。1つは受ける愛であり、もう1つは与える(返す)愛である。これはあくまでも人を中心にした愛である。イエスは人の罪を一身に背負って十字架に架けられた。これはイエスが人に与えた愛である。だから人はこのめぐみに対して、返す愛を行わなければならない。この場合、神を含めて、相手は誰でも良い。犠牲を伴う場合もあり得ると云う事を自覚する必要があろう。神に対する愛、親の子に対する愛、兄弟愛、師弟愛、友人同士の愛、恋人同士の愛、戦友、人類に対する愛、等々、その愛を貫くため、死によって他者を救う場合もある。自分を捨てて相手のために生きる。愛とは優しく、かつ厳しい。自分を空しくすることは、自分を貧しくすることである。それによって、相手に恵みを与え、富ますことが出来る(新約聖書コリント人への手紙Ⅱ、8章9節)。これが神が人に与えた契約である。
 さて私は『契約』を中心にしてアブラハムについて述べてきたが、聖書はこのほかに様々なエピソードについて述べている。それについて述べてみよう。

 アブラハムの権力へのすり寄り
次に同じような話が12章と20章に出てくる。共にアブラム(アブラハム)が、時の権力者にすり寄り自分の安全を守るために自分の妻を妹と云い、富を得た話である。それを比較対照してみよう。
1.時代背景
(ア)12章 アブラムの住む地域が飢饉に襲われ、住み辛くなったので、エジプトに避難する
(イ)20章 特に記述なし
2.時の権力者
(ア)12章 エジプト王パロ
(イ)20章 ゲラルの王アビメレク
3.名前 
(ア)12章 アブラム・サライ
(イ)20章 アブラハム・サラ
4.アブラム(アブラハム)とサライ(サラ)の関係
(ア)12章 私の妹
(イ)20章 アブラハムの父テラの異母兄妹(母は違っていても明らかに近親相姦である)。
5.権力者との関係
(ア)12章 サライはエジプト王パロの妻妾の一人に加えられる。
(イ)20章 王アビメレクトとサラの間には交わりなし
6.権力者に与えた神の罪
(ア)12章 災厄
(イ)20章 罪なし
7.権力者が与えたアラム(アブラハム)の罪
(ア)12章 財産を持ってのエジプトからの追放
(イ)20章 ゲラルに留め置かれて優遇される。
8.妹と云った理由
(ア)12章 自分の安全を守るため
(イ)20章 自分の安全を守るため

       
 私は最初この話はよく似ているので、同一話を繰り返したものなのかと思っていた。しかし良く対照してみると、全く別物である事に気づいた。アブラム(アブラハム)は、時代を違えて同一経験をしたことが聖書によって明らかにされている。アブラハムの息子イサクも同様な経験をしている(創世記26章6節~11節)。ここでもイサクは自分の妻レベカを自分の妹と云っている。まさに親子である。

 罪に満ちたソドムとゴモラの町の滅亡
 次のエピソードは、罪に満ちたソドムとゴモラの街を、神が滅ぼした話である。ソドムには、かつて、アブラハムと一緒に過ごしたことのあるアブラハムの甥のロトが住んでいた。神が、この町を滅ぼすとアブラハムに告げた時、ロトを救いたいアブラハムは神に問う。「この町に50人の神に義なるものが存在していても、これを滅ぼすのですか」と、神はその50人故にこの町を滅ぼさずと応える。アブラハムはその数を45人、30人、20人、10人、と減らしていく。神はその義なる人ゆえにこの町を滅ぼさずと応える(創世記18章23節~33節)。神は一人でも自分に義なるものがいる場合、これを滅ぼすことを望まないのである。
 神は3人の天使をアブラハムとロトの下に差し向ける。一人はアブラハムの下に来て、サラが子供(イサク)を産むと告げる。そして残りの2人はロトのもとを訪れる。そしてソドムの罪に満ちた人間たちに接してこれを滅ぼすことを決定する。ロトには家族を引き連れて速やかにこの町を去れと告げる。ロトはその通りにした。「神は天よりソドムとゴモラの街に硫黄の火を降らせ、これらの町々と低地一帯を、その町々の全住民と大地の若草を滅ぼした。彼(ロト)の妻は後ろを振り向いたので塩の柱になった(創世記19章23節~26節)。この話には後日談がある。二つの街は滅ぼされ、全住民がいなくなったので、ロトの二人の娘には相手になる男性がいなくなってしまった。そこでロトに酒を飲ませ、かわるがわるに父を犯したのである。それぞれ身ごもり、男子を産む。これらの息子はモアブ人と、アンモン人の父祖となった(創世記19章30節~38節)。まさに近親相姦である。聖書は異常愛について、そのほかに、同性愛についても述べている(創世記9章24節~27節)。ノアの方舟で有名なノアは、息子のハムだか、孫のカナンだかは、聖書の記述からはよく分からないが、犯されている。これは同性愛であると同時に近親相姦である。ソドムの街は同性愛の街であったと、聖書は述べている。その善悪を問わないとすれば、当時ユダヤ人の社会は様々な愛の形態があったことを示している。結婚の形態は一夫多妻である。今、文明の最先端を行くと云われているアメリカ社会を見る時、同じような現象が起きている事を知るのである。同性愛結婚を認める州も増えているという。
 まだまだ書き残したことはあるが、アブラハムの記述はこれで終わりにしたい。私はこのレポートの中心に神と人との契約を置いた。この契約はイスラエルの全歴史を貫くものであり、アブラハムから3000年を経て20世紀における建国まで、イスラエルの民の心の中の心棒として、崩れる事は無かった。それが選民意識を生み、排他性を生み、宗教的偏見を生み、周辺諸国との間に摩擦を起こしていることも事実であるが、その事によってこの民の偉大性は決して損なわれる事は無いのである。      
平成26年1月21日(火)
報告者 守武 戢
楽庵会
ジャンル:
文化
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