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昭和一桁の自己表現:いろいろと、あれこれ書きます

ある大学教授の趣味(落語)と研究の生かし方  ~保育者養成と定年後の生き方に大きなヒント~

2017-03-12 17:14:47 | 教育・保育
幼児保育と高齢者社会には「落語的マインド」が必要 
ケーススタディ「ソーシャル・キャピタルとしての老人力」


 大学院出身講座の後輩である住岡英毅(滋賀大学名誉教授)さんから論文が送られてきた。
 「伝統芸能による教育─日本人の教養基盤を培う」(大阪青山大学紀要2015)というタイトルである。今もってワーカーホリックの多いわが国のことだから、「日本人の休養基盤を培う」 という論文は、「さすが落語家の住岡君らしい」と一瞬思ったが、よく見たら「休養」ではなくて「教養」であった。
 彼は長年、ファンとして落語を愛してきた。数多い東京への出張のたびごとに、時間をやりくりしては必ず寄席に通うようになったとのことである。

 彼が落語の魅力にとりつかれたのは、子どもの頃だったらしい。広島市に生まれた彼は、3歳にして両親を亡くした。母親は病死、1ヶ月もたたないうちに父親は召集され、沖縄に輸送船で送られる途中、米軍魚雷によって殺された。そのため祖母に引き取られ,大学に入るまで, 瀬戸内海の島でおばあちゃんと二人で,苦しい戦後の生活を送ることになった。典型的な戦争犠牲者である。

 彼とはじめて会ったのは、昭和46年、私が広島大学に助教授として赴任してきたときである。当時、私の所属部門「幼児教育学」には大学院がなかったので、大学院手当をもらう関係もあって,出身講座の「教育社会学」の「特別研究」という授業に参加していた。これは講座の教授から新入学の院生に至るまで、講座所属の全員が参加する必修科目である。その年、住岡さんは助手に採用されていた。
 私の研究室は本部キャンパスから徒歩で5分ほど離れた附属幼稚園の2階にあった。それで授業の時以外にも,会議などで本部キャンパスに行ったときは、たいてい住岡さんの研究室に行って、お茶を飲みながら話し込むことが多かった。
 当時かれは、どことなく陰を感じさせる木枯らし紋次郎(中村敦夫主演の人気ドラマ)みたいな雰囲気を持っていた。でも私とは何となく気が合って、2年後に私大に転出するまでの間に、十年の知己のように親しくなった。先輩ということもあって、遠慮会釈なく、いろいろなことをズケズケとものが言える仲のひとりになっていた。
 私は広島大学を定年で辞めるとき、後輩や教え子たちからのメーセージを寄せてもらい、それを5章に編成してコメントを付けて,A4判62ページの「偶然がくれた贈りもの」という小冊子を作った。住岡さんも小文を寄せてくれていたので読み返してみた。 
 。
 当時彼は、広島大学に設置されたばかりの計算機センターの大型コンピュータ(といっても現在の数万円のパソコンよりも機能は低い)を使って、データ処理をやってたらしい。教育社会学の助手は、講座の実証的な調査研究を差配することが,彼より10年前の助手だった私の頃からの主要な仕事であった。だから講座の共同研究のデータ処理を,一手に引き受けていたのだろう。
 研究室を訪ねると、いつも熱心に「FORTRAN入門」という本を読んでいた(フォートランというのは世界最初のプログラム言語)。大型コンピュータの利用をやらされていると知らないものだから、「計算機は研究の道具なんだから、そんなもんは職人に任しておいたらいい。私たちはもっと創造的な仕事をしないとダメだよ」という意味のことを、私は言った。コンピュータはいずれインターフェースの開発によって、だれもが使える便利な道具として発展するだろう、と予測はしていたが、えらそうなことを言ったものだと思う。今思えば冷や汗ものである。
 彼だってFORTRANをやりたくて勉強していたのではないだろう。何しろ彼の学位論文は「ブルードンの教育思想」というもので、コンピュータとは縁遠い研究テーマなのである。十九世紀フランスで活躍したプルードンの思想や政治的実践は、マルクスに高く評価された。しかし彼のアナキズム的な思想は、後にマルクスの「哲学の貧困」の中で手厳しい批判を受けることになった。
教育思想史上あまり出てくることもないプルードンの教育思想の研究そのものが珍しい。それも教育社会学を専攻した人が学位論文にしたのだから。よほど独創的な発想がないと出てこない研究テーマである。その住岡さんが、プログラミング言語の勉強をするなんて、どだい似つかわしくないではないか。
 当時私も計算機センターのコンピュータを利用して、大量調査データの処理をやっていたが、理学部の助手に依頼してプログラムを組んでもらい、その謝礼はポッケトマネーで支払っていた。それより10年前の私の助手時代は,手回しのタイガー計算機が教育学科には1台あっただけである。教育財政学のN先生が学部に購入したモンローの電動計算機を借りだして、教育社会学講座の専用機みたいに使っていた。
講座所属の院生たちは、自分の個人研究は二の次で、講座の共同研究のデータ処理に夏休みにも狩り出され、あたかも徒弟教育のごとき有様であった。しかしそれは、研究者として独り立ちする、すなわちマスター(親方)になる(大学院で修士号を得る)には必要なことであった。(研究者養成にとっての「徒弟教育」の意味については稿をあらためて書くことにする。)
 住岡さんとの思い出は、ここに書き切れなほどたくさんあるので本題に戻ろう。

 彼は国立大学を定年になったとき、長年魅惑されてきた落語を、アマチュア落語家として演ずる側、喋る側に立とうと決意した。「こんな楽しい話ができる人になれたらいいのに」と、中高校生時代、落語の放送がある時間には必ず隣の家に行ってラジオを聞かしてもらっていた、その年来の願いが、いよいよ実現することになったのだ。
 インターネットで大阪のECC落語教室(現在は閉鎖)があることを知り、週1回通い始めた。お師匠さんは桂蝶六(現・三代目桂花團治)。教室が閉鎖された後も、花團治主宰の「愚か塾」の塾生となり、付けてもらった高座名は「愚家小がん」(おろかや。こがん)。「小がん」は滋賀大学に赴任して以来住んでいる大津市の琵琶「湖岸」をもじったものだと、この度教えてもらった。琵琶湖の空を渡っていく親子の「雁」かと思っていたのだが、違っていた。私のイメージ力が、ちょっとロマンチック過ぎたのである。
一度だけ彼の高座を聴いたことがある。先週書いた新堀通也先生の米寿の祝いがひらかれた大阪のホテルで、講座出身の後輩たちといっしょに聴いた。あのときは落語を習い始めて2年目ぐらいだったので、お世辞にもうまいとは言えなかった。あれから10年、腕を上げた彼の噺を、もう一度聴きたいものだ。
 なにごとも三日坊主に終わる私と違って、高齢者になってもより高いレベルを目指して精進している彼の努力は敬服に値する。さらに住岡さんが素晴らしいのは、落語を趣味の域にとどめず、専門的な研究テーマにし、社会的に展開していったことである。研究としてはアナキズム研究よりこちらの方が、教育社会学専攻者としては似合っているようにみえる。かれは滋賀大学では、社会教育・生涯学習を研究者・実践者としての活動のメインにしていた。落語を研究対象にするとともに社会教育の場で演ずることは、まさに彼の研究・実践にぴったりの生き方でもあった。

国立滋賀大定年後勤め始めた大阪青山大学では、桂花團治師匠を客員教授として招き、子ども教育学科で将来保育者を目指す学生たちを相手に、言語文化とコミュニケーション技術の授業を開設した。保育者養成にとって落語的なコミュニケーション技術や感性(落語的マインド)が必要だと考え、日本の古典文化研究の視点から、大学教育のカリキュラムに早速取り込んだ実行力も大したものである。
 生涯教育・生涯学習の指導者・実践者として、住岡さんが落語の世界を趣味の域を超えて社会的に広げていったのは正解であった。落語だったら幼児からお年寄りまで、生涯教育の相手を選ばないからである。
 インターネットを見ると、師匠や学生といっしょに幼稚園に行って、園児を相手に落語を演じている高座の写真が載っている。幼児保育者がもし「落語的マインド」を身につけていたら、本人の心理的余裕はもちろんのこと、園はもっと明るくなるだろう。子どもも同僚も日常的に笑いのある集団生活が送れるにちがいない。住岡さんが保育者養成コースに落語を取り込んだ、いわば一粒の種が、今や保育の現場で花を咲かせつつあると言えよう。
 ここで用いた「落語的マインド」は新造語であるが、これは「非真面目的遊び精神」とほぼ同じ意味で使っている。広くは
「遊び心」と同意義である。

 これからの超高齢化社会にあっては、後期高齢者の仲間入りをしようとする人が、新しい演目の落語を覚えるだけでも大変だと思う。高齢期に入った人が、年来の願望だったとは言えアマチュア落語家を目指し、高座で喋れるようになるまでの努力は、団塊世代の人たちにとっては、高齢者の生き方にヒントを与えてくれるのではなかろうか。超高齢化時代の地域社会においては、高齢者はケアの対象であるとともに主体である。地域を基盤としたケアシステムの構築がなされない地域は、否応なしに崩壊の危機にさらされる。
地域社会が衰退しないようにするには、コミュニティに潜在しているソーシャル・キャピタルを活用することが必須である。住民の自発的動機づけに基づく自ら進んでの社会参加が望ましいが、社会としてはメンバーの自己有用感や達成感を充足させるシステムの構築が必要になる。
現職時代に仕事を通して身につけた知識や技術や人間力を社会的に還元する意欲を、多くの高齢者が持ってくれることが前提になる。高齢期に入った以降の住岡さんの生き方は、いろいろな社会的意味を持っている。本人の脳活や健康長寿にとってはもちろん有効だ。それだけではない。
彼の生き方は高齢者に勇気と元気を与えてくれるし、まわりに人に対する動機づけ力としては大きいものがあると思われる。彼に触発されて、社会への「貢献意欲」と「自己有用感」に気づく人もいるにちがいない。ソーシャルキャピタルの一部として、25年問題に立ち向かおうとしている団塊の世代の生き方にたいして、彼の生き方は重要なヒントを与えてくれるのではないかと考えて紹介した次第である。

<追記>贈られた論文の内容紹介のつもりだったのが、懐かしさのあまり執筆者の紹介になってしまった。現存者についての私的な内容を書く場合は仮名を使うことにしているが、今回はご本人の了解をいただいてかなり個人的なことも紹介させていただいた。論文の内容につては次の機会に譲ることにしたい。