森田宏幸のブログ

Morita Hiroyukiの自己宣伝のためのblog アニメーション作画・演出・研究 「ぼくらの」監督

正しい批判の仕方

2006年07月29日 16時11分55秒 | ただの日記
 数年前、私がイノセンスを批判していると、
「森田さんの批判を聞いていると、ますますイノセンスを見たくなります」
 と知人に言われた。
 最初、皮肉を言われたのかと思ったけど、相手の態度は真剣そのものだった。
 これは嬉しかった。それは私が、ほんとの批判とは、そういうものであるべき、と常日頃から思うからだ。

 今、私のまわりでは「ゲド戦記」と「ブレイブ・ストーリー」と「時をかける少女」の感想が飛び交っている。この夏話題の三本だ。新聞や雑誌でも、各種論評が出ているけれど、公開中の作品は、宣伝の都合上、悪く書けないとか、評論家の人たちも気を遣うらしいけれど、そもそも評論とは、客観的に論じることなのだから、理由が具体的であれば、悪く書いてもいいと思う。   
 良かったか、良くなかったか、という話は、人それぞれの好み。問題はよかった理由、よくなかった理由の部分で、それが具体的に述べられていれば、その論評は客観的なものになる。逆に言えば、具体的な理由を示さなければ、褒めることもまた、正しい論評とは言えない。それは単なる感想だと思う。さらに言えば、その理由のところが具体的であれば、良かったか良くなかったかはどうでもよくて、それは観客にゆだねられればいいと思う。

 たとえば、「猫の恩返し」は、観客から「軽々しくて見応えがなかった」とよく言われた。でも、そんな中「気軽に楽しめてよかった」という声もあった。つまり、良く言っている論評と悪く言っている論評の、理由の部分が「軽々しかった」という点で共通していた。この共通する部分がつまり、客観性の部分であって、この部分こそが論評として大事な部分だと思う。極端な話、「『猫の恩返し』は軽々しいアニメーションであった」ということを言うことだけが、評論家の仕事なのだと思う。評論家は、なぜ軽々しく見えたのか、ということについて細かく分析すればいい。それが良かったか良くなかったかを決めるのは、観客の役割だと思う。

 さきのイノセンスに話を戻すけれど、私はキャラクターの歩きの動きが、同じキャラクターなのにシーンごとに違っていることを気にしていた。実は私は、イノセンスの原画を描いていて、作画のシステムがパート作画監督制で作られていたことを知っていた。沖浦さんをはじめ、ひとりひとりはとてつもない実力を持った作画監督さんだったけれど、パート分けしているため、同じキャラクターでもシーンをまたがると、歩きの重心の移動の仕方が変わるのだ。イノセンスは特に、ゆっくりした歩きのカットが多いため、気になったという話を知人の前でしたのである。
 すると、本当にそうなのか見て確かめたくなった、と知人はやる気を出したというわけである。私が悪く言っているのにである。批判の仕方が具体的だと、悪く言っても興味がそそられる。そういうものではないか?
 その後批判の矛先は3DCGの話にうつる。イノセンスのラストシーンのカモメ(じゃないのか?ウミカラス?)は、ストーリー上バーチャルなのか、現実の風景なのか? ストーリー上現実の風景っぽかったのだけれど、鳥のフォルムと動きが固くて、映像から受ける印象はバーチャルだった。監督の意図はどっちだったのか? イノセンスはバーチャル世界と現実世界がせめぎ合う話だから、この曖昧さは問題ではないか、と。
 これを聞いた知人は、自分の目で見て確かめてくると言って、ついに劇場に足を運ぶ意志を固めていた。是非是非、劇場にお金を払って見に行って来て欲しいと、私もその知人に言った。私はいつの間にか、イノセンスを宣伝していたのである。いいことをした、と思う。
 
 ただ、具体的論評はネタバレを起こす。私はネタバレ抜きに正しい論評はあり得ないと思うので、ある程度は大目に見ていいのではないかと思うのだけれど、難しいところだ。ちなみに、「時をかける少女」を先日見てきて、上記のような具体的感想を書きたい衝動にかられたけれど、、しばらく書くのは我慢する。。
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