地理講義   

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20.日本の米   農地改革

2011年01月09日 | 地理講義
戦後改革としての農地改革

終戦直後の1947年12月に第1次農地改革、1946年に第2次農地改革が施行された。1947年2月に施行細則が制定されて農地改革が始まった。国が小作農地を地主から買収し、それを小作人に売り渡して農地改革が完了した。日本各地に占領軍が駐留していた時であり、地主の表立った抵抗はなかった。日本の全農地の9割が自作農地になり、大地主制度は崩壊した。
新たに自作農となった農家の平均農地面積は1ha、1haとは100m×100mの面積であり、農業のみで経済的自立をするには、狭すぎた。

  



農地改革を急いだ理由

戦前の地主制が崩壊し、戦後は急いで自作農体制に急激に変化した。戦前か農地改革の具体的計画はあったが実行はできなかった。それを戦後、わずか3年で実現したのは、アメリカ軍の支配下にあったからである。アメリカが、日本で農地改革を急いだのは、次の理由による。

(1) 小作農民の窮状を救うための人道的配慮:1929年の世界的不況の時、日本の大半の地主は小作料を引き下げなかったため、小作料支払いのために、小作農民の娘が都会の遊郭などに売られた。

(2) 小作農民の結束による無産運動(共産主義)をおさえるため:歴史的には、貧農が結束して一揆を起こしたことは珍しくなかった。20世紀の戦前・戦中では、共産主義革命に傾斜する若者・労農が多く、特高だけでは押さえきれなかった。当時の政府には、国体維持を目的に、少数の大地主から農地を取り上げ、多数の貧農に配分する計画ができていた。この計画を、戦後の農地改革で実践すると、貧農を小地主として保守化させて、農村の共産主義化をおさえることが可能であった。つまり、農地改革の青写真は、第2次大戦中にできていて、戦後、中ソの共産主義の影響を、農村から排除することができた。

(3) 労働生産性向上のため:地主のために小作農地で働くより、家族のために自作農地で働く方が、仕事に熱心になり、反収が増加した。戦後日本の食糧難をアメリカ産余剰小麦で乗り越えたと占領軍は自画自賛したが、日本の新自作農が、自分の利益のために一生懸命に働いたことも、食糧難を乗り越えた理由である。


農地改革の負の側面

ほぼ1haをメドとして小作農地を安く小作農家に売ったとしても、その面積では家族10人分の米の収穫がせいぜいであり、一生懸命に働いても、米作だけでは生活はできなかった。米作農家が結束して政府買入価格の引きあげを要求しても、都市サラリーマンほどの収入には、及ばなかった。
元小作農家が、農地改革で自作農家になると、生活の維持のために、いくつかの対策を考えた。

(1) 水田では米を栽培するが、冬には裏作として麦を栽培する、いわゆる二毛作である。大麦・小麦のどちらも栽培できた。大麦は米食の増量分になったが、小麦はアメリカ産小麦との価格競争で簡単に負けて、自家用としての利用に限られた。うどん・すいとんなどとして食べた。日本の小麦は収穫期が梅雨のため、パンには不適当であった。

(2) 米作は機械化が進んだので、農作業日数が少なく、冬には東京などに出稼ぎに行って現金収入を得た。半年、出稼ぎに行けば、残り半年は失業保険で暮らすことができた。それらの収入で農機具を買い、米作日数をさらに減らし、出稼ぎ日数を増やすことができた。しかし、出稼ぎに行って戻らず、家庭崩壊が珍しくなかった。とうちゃんは出稼ぎに行き、ふだんの米作はじいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの3人なので「3ちゃん農業」といわれた。

(3) とうちゃんが一生懸命に米作に励んでいた時と比較すると、機械・農薬・化学肥料に依存する程度が過ぎて、米がまずくなった。政府買入米は米の色と形で等級が決まるので、まずい米を政府買米として供出した。おいしい米をヤミ米として、ブローカーに高く売ることができた。日本全体で同じ傾向であり、米穀店で売る政府米はまずく、飲食店などで食べさせるヤミ米はおいしかった。米穀店でも、高値で売れるヤミ米を売った。配給制のための食糧管理法は、骨抜きになった。

(4) 農村の家庭生活を守るため、出稼ぎに代わる現金収入源として、構造改善事業が盛んになった。農村の水田区画を長方形にしたり、自然の小川を農業用排水路としたりした。大規模な土木工事であったが、とうちゃんは東京への出稼ぎを止めなかった。かあちゃんが構造改善事業で稼いだ。1980年前後には、農家の総収入は都会のサラリーマンの収入を越えた。

(5)1986年から政府買入米の価格が下がると、農地は工業団地や住宅団地に転換された。農地改革で手に入れた農地は、構造改善で機械化農業に適するようになった。しかし、農業収入は年100万円程度であった。工業団地・住宅団地に売れば、億単位のカネを手にすることもあった。農地にアパートを建設して、家賃収入で優雅に暮らす農民もいた。

(6) 1970年から減反政策が始まった。減反奨励金をもらうためには、米の代わる作物を水田に植えなくてはならなかった。もともと水の貯まるのが水田なので、大豆・とうもろこしのような飼料作物への転作は容易ではなかった。そこで、気の利いた農家は水田にモモ・クリ・カキなどの果樹を植えて、転作奨励金を得た。果樹は梅雨時に手入れをしないと腐ってしまったが、果樹による収入を考えていなかったので、手入れをせずに腐らせた。腐ると、また植えた。売れない農地を割り振られた農地改革が間違いと思えば、実のならない樹木を植えることに、罪悪感はなかった。

(7) アメリカとの貿易摩擦は、日本製工業製品の輸出過剰が原因であった。自動車工場に出稼ぎに行く者には、それがよく分かった。アメリカが日本に米を無理に売りつけたら、日本の農業と農村が壊滅することは、あり得ないことであった。農地を先に売り抜け、工場労働者になった者が生き延びるような雰囲気が、日本の農村に充満した。元小作農家は、農地改革で農地を安く手に入れたことを、10年間は地主に悪いと思ったが、減反政策で米作が赤字になった1970年代から、高く売れない農地は邪魔な存在そのものであった。元地主を恨むことさえもあった。






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