地理講義   

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130.第3次全国総合開発計画  定住圏もテクノポリスも失敗

2014年01月24日 | 地理講義

安定成長期の総合開発計画
第1次石油危機(1973年)で原油価格が高騰し、日本のエネルギー浪費型の重化学工業は、国内公共事業の縮小とともに行きづまり、高度経済成長は終わった。高度経済成長後の景気停滞時期、甘い言葉で表現すれば日本経済の安定期に、生活環境の整備を目標とした総合開発が、第3次全国総合開発計画であった(1977年福田内閣~1987年竹下内閣)。

定住圏構想(1979~2008年)
政府の財政難から大型公共事業(新幹線、高速道路など)を中断し、各地に44地域、300市町村を「モデル定住圏」とした。地方都市と周辺地域を一体化して生活基盤整備を進めて住みやすい地域づくりが目標であった。そして、商業・農林水産業との振興を図って、地方都市から首都圏への人口流出を止めて、地域間の所得格差を解消することが最終的目標であった。
しかし、地方都市では高齢化が進み、巨額の産業基盤整備への投資にためらいがあった。首都圏や既存の工業都市から、地方移転をめざす政策的誘導はあっても、採算を最優先する企業には、低賃金の若年労働者を集めることが困難なことは分かり切っていて、労働集約的な工業の移転は少なく、広い土地を利用する工場だけが移転した。地方にとっては、定住圏構想のメリットはなかった。
地方自治体と政府は財政難であり、公園・病院・上下水道などの生活基盤整備はできなかった。地方都市を住みやすくする具体的な計画はなく、かけ声だけの定住圏構想で終わった。
以後、日本の総合開発は次々と机上の空論つまり計画倒れになるが、その第1号が定住圏構想であった。

定住圏モデル1979年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

定住圏44

 

テクノポリス(高度技術工業集積地域。1983~1998年)
日本の鉄鋼・石油化学産業のような素材型産業は1960年代に成熟段階に達した。1973年の第1次石油危機以降の鉄鋼産業は輸出が急増し、世界各国と貿易摩擦を起こした。国内産業を高度加工産業に転換するため、全国26地域をテクノポリスに指定した。
大学・研究所は先端産業に人材を投入し、国際競争の激しい高性能半導体開発、付加価値の高い自動車産業の育成、農畜産物の新品種改良はど、研究開発型の地域指定であった。
指定された地域には、大学があり、低賃金労働者も多いのだが、2つの点で誤っていた。
先ず、ハイテク産業の工場建設に要する費用が、5,000億円から1兆円という巨額のものであり、テクノポリス指定市町村の財政規模をはるかに越えていて、最先端の半導体工場や自動車工場の立地は、財政的に困難であった。
次に、日本のハイテク産業、特に電子関連の工場では、既存の工場周辺では、低賃金労働者が底を尽いていた。そのため、地方空港周辺(臨空港立地)や高速道路沿線に半導体工場や電子部品工場を建設して、低賃金労働者を集めた。九州各空港に半導体工場ができ、九州全域を、アメリカのシリコンバレーに対抗してシリコンアイランドと呼んだことがあった。
投資回収のため、24時間フル稼働させる工場が多かった。早番は午前6時から、遅番は午後2時から、夜勤は午後10時からの8時間労働でった。高卒者はチリ一つないハイテク工場に勤務することを誇りにした。しかし単純な仕事、拘束時間の長さ、賃金の安さに、2,3年後には退職し、次第に高校新卒者は集まらなくなった。農家の中高年労働者が増えて、ハイテク工場は農作業日程との両立を図らなくてはならなかった。中高年労働者は、次々と新製品の生産に切り替わる技術革新に、手先も視力も体力も追いつかなかった。
労働集約的な企業は、国内の地方工場を集約したり、マレーシア・韓国などに移転した。日本国内の多数の汎用半導体工場は閉鎖された。特別な用途の半導体工場だけが残った。
市町村の多くは、テクノポリスを機会に、山林・農地を工場用地に造成し、進出する企業を税制面で優遇した。しかし、進出企業は少なかったり、労働者を必要としない装置産業であったり、しかも、3年~5年の優遇税制の適用期限が終わると、企業はすぐに工場を移転した。
テクノポリス構想による地方の工業化への期待は裏切られた。優良農地を、工場用地から復元することはできずに荒廃したままになった。産業基盤整備に熱中した地方自治体は赤字財政に陥り、市町村の大合併(平成の合併)で急場をしのぐ結果になった。

テクノポリス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

第3次全国総合開発の中止(1987年)
計画の理念は、環境問題と国土保全であった。工業開発から生活優先の国土形成への転換であった。定住圏構想は生活環境を整備し、魅力ある地方都市に人口定住を促進する構想であった。
定住圏とは都市・農山漁村を一体とした圏域であり、具体的には経済圏・通勤通学圏・生活圏であった、定住圏構想の実施主体は市町村であるとした。1979年に40圏域がモデル定住圏の指定を受けた。しかし、第3次全国総合開発計画の実行主体は地方自治体にあり、政府主体ではなかった。財政基盤の弱い地方自治体は、投資効果の少ない定住圏構想に取り組むことはできず、部分的にできたのはゼネコン主体の広域下水道計画だけであった。下水道は高速道路建設並みの巨額の財政支出になり、利用者から使用料金を取ることができ、公共事業としては魅力のある計画はであり、ゼネコン主導で進められた。
テクノポリスは日本がアメリカとともに世界の電子工業を永遠に支配できる、見通しの誤りがあった。日本の高い技術はいつまでも世界的優位にあり、Nics、次ぎにASEANが、日本に代わる電子工業の立地地域になるとは想像ができなかった。
日本は高い技術はあって、過剰性能で高価な工場製品を大量に生産した。しかし、世界市場では日本の工業製品の過剰品質と価格の高さで売れず、韓国・台湾。中国などの新興工業国の安売りに負けた。日本のハイテク製品は輸出先を失った。企業経営者の清算計画の見通しの悪さ、予測の甘さが失敗の原因であった。技術が高ければ売れる、という発想の誤りに気づくのが遅れたのも、大きな原因であった。
第3次全国総合開発計画は、1987年、計画途中で打ち切られた。地方自治体は農地を工業用地に造成したが、大半は売れ残った。進出企業があっても、新興工業国に再移転し、雑草におおわれた工場用地だけが残った。
なお、竹下内閣は1988年にふるさと創生1億円事業の名目で、使途を限定しない1億円を、各市町村に分配し、地域活性化を促した。
 

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NEC秋田工場
NEC秋田工場は1981年6月に半導体工場として発足した。秋田市周辺の女子労働力を使い、秋田空港から半導体を国内外に送り出す、典型的臨空港型立地工場であった。しかし、過剰品質と、特定目的のための少量他品種生産であり、中国・韓国・台湾などとの汎用半導体との価格競争で負けた。販路はNEC系列に限られてしまった。
3全総終了後の1995年、NEC秋田工場は赤字体質一掃のため、特殊用途の半導体と液晶の生産に特化するとともに、中国の中航光電子有限公司との合弁企業NLTテクノロジーとして生まれ変わった。また、NEC鹿児島工場を閉鎖し、生産を秋田工場に移転統合した。

NLTテクノロジー社長のごあいさつ(会社案内から)
私たちNLTテクノロジー株式会社は、 「ディスプレイの市場創造をとおして、 人々に優しく豊かな社会の実現に貢献します。」を経営理念として、 産業分野に高品位な液晶ディスプレイを供給する産業系ディスプレイソリューション・カンパニーです。現在、全売上げの約7割を海外輸出が占め、世界2000社以上のお客さまに製品をお届けしています。
このように産業系ディスプレイ市場において幅広く多くのお客さまに当社製品を使っていただくためには、研究・開発・設計・生産・販売にいたるすべてのプロセスにおいてカスタマーフォーカスに徹し、常に技術的な優位性を堅持する革新とチャレンジ精神にあふれた取り組みが欠かせません。私たちは、これまで培ってきた4つのコアテクノロジーの強化と、さらに親会社の中航国際集団傘下の天馬微電子集団との開発から生産に及ぶ広範囲での協業を推進することにより、これまで以上にお客様にご満足いただけるディスプレイソリューションを提供し続けるとともに積極的な環境経営を推進し、地球に優しいモノづくりに努めてまいります。

 



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