扇央に水田
百瀬川扇状地の新旧の地形図を比較する。旧図(1922年)には、百瀬川の天井川部分を、琵琶湖部分に抜き書きしている。高川では、馬車・自動車が百瀬川を越えることは不可能であったことが分かる。新図(1990年)には、百瀬川の天井川部分がトンネルになっていることが分る。
古い地形図(1922年)
10世紀から扇頂近くの、扇央の浅い谷に水田があり、大野といわれた。旧地形図(1922年)の等高線に書かれた標高の数字[140、130・・・・大沼]の書かれている部分である。扇央の大野がくりかえし洪水被害を受けて扇端に大沼集落をつくり、琵琶湖側の湿地帯を水田化した。扇央の大野の水田も、引き続き利用した。
大沼は扇端に一番先にできた集落だが、わき水を生活用水だけにしたのではない。琵琶湖岸まで開いた水田にも、扇端でわき出る水を利用した。扇央の水田では収穫量が不足したが、新たに琵琶湖岸の湿地帯に水田を開いて、米の収穫量が増加した。
先端集落として、大沼のあとで新保、中庄ができ、湖岸の湿地帯(沖積平野)を水田に変えた。琵琶湖側の水田開発の結果、律令体制下の租として、米を滞りなく納入できた。
水を得られず、水田にできない扇央を桑畑とし、扇端集落では養蚕が盛んになった。調として絹を納入することができた。
旧地形図には、律令国家成立以降、大正年間までの1,000年間、ほとんど変化のなかった土地利用が記録されている。
1922年に高川に百瀬川隧道建設工事が始まって翌年完成し、扇端集落の交通が改善された。
新しい地形図(1990年)
第2次大戦後、日本政府の農業政策として米の増収と水田作業の効率化のため、水田の区画整理と開田が進められた。養蚕は安価な輸入絹布に負け、桑畑は雑木林・果樹園・分譲宅地になった。
扇央の水田
区画整理後であり、かつてここに大野集落(扇端の大沼集落)と水田があった。農業用水は扇頂の水門操作により、コンクリート用水路で供給される。水田は旧流路の浅い谷であり、雑木林の標高はわずかに高い。扇央の林の中に、畑・果樹園が散在する。
写真の水田のかなたに扇端集落、その遠方に琵琶湖が見える。サルが柿園に侵入しないように、周囲をバラ線で囲んでいる。サルが渋柿を食べるないので過剰防衛との考えと、サルは渋柿を食べるので、農家の防御は正当との考えがある。
扇端集落のわき水
扇端では庭先に水がわき出る。琵琶湖へ流れるから、琵琶湖からアユの遡上が、水田区画整理前はあったが、今はない。大きなコイが泳いでいる。
冬のわき水
扇端からわき出る水の温度は、冬でも年間平均気温に近い14℃であり、水道水よりは暖かい。畑で収穫したばかりの野菜の土を、扇端の共同洗い場で落とす。地下水は扇端でわき出て、扇端集落で利用され、その後は琵琶湖岸の水田に流される。
扇端の井戸
扇端でわき出る水が枯れて遠くなったり、湧水口から遠い集落であったりすると、わき水を運んで生活用水を運ばなくてはならない。
その昔、天秤棒でかついだ。天秤棒を肩口から首の後ろで支え、両端には水桶をぶら下げて運ぶ。その水は、扇端では各泉の利用者が決まっていたので、新しい集落は、井戸水を汲み上げて水桶に移し、その水桶を運んで使わなくてはならなかった。井戸の深さは5m程度である。つるべ井戸が便利であるが、直径1mほどの井戸を掘るのが、ひどい苦労であった。つるべ井戸で汲み上げた水を、水桶に入れて自宅まで天秤棒でかついで運ぶことも大変な苦労であった。つるべ井戸と水桶は、10世紀から19世紀まで続いた。
20世紀のはじめには手押しポンプが使われた。10mの深さの井戸水汲み上げることができたが、実際には7~8mの深さが限度であった。井戸水を汲み上げる苦労は減ったが、その水を自宅まで運ぶ苦労は変わらない。下の写真では、つるべ井戸、手押しポンプ、電動ポンプの蛇口の3種類をみることができる。
つるべ井戸
2つの桶の一方を井戸に下ろして水を汲んで、ロープで引き上げる。もう一方は井戸に下りる。水桶を引き上げる力が必要であった。滑車を利用しているように見えるが、固定滑車1個では水桶の軽さは変わらない。つるべ井戸は共同利用であり、水汲みに集まった者の井戸端会議の時間であった。
※このつるべ井戸は、百瀬川のつるべ井戸の参考のため、他地域のものを掲載した。
手押しポンプ
つるべ井戸は地下水脈につくられた。屋敷の石垣をつくる要領で玉石を積んだ。扇状地の扇端や扇頂に近いと地下水位が浅く、井戸を簡単につくることができた。しかし、井戸が10mを越える深さでは、井戸を掘削し維持することも、水を汲むことも難しかった。
多くは10m以下の浅井戸であり、自由地下水(不圧地下水)を利用した。汲み上げ量が多かったり、干ばつになると、井戸水も枯れる。
電動ポンプ
20世紀初頭に全手動ポンプが各各家庭に普及し、水汲みの仕事は楽になった。そして、1960年代の高度経済成長期には[電化ブーム]があり、日本の電器メーカーは手動ポンプに代わる[家庭用小型電動ポンプ]を大量生産した。それまでの手押しポンプに代わり、電動ポンプが水道設備とともに各家庭に普及した。台所まで水道が届く時代になった。
※深さ8mまでの地下水を、高さ8mまで揚げることができる。ポンプ価格は7万円程度だが、電気工事と水道工事を含めると30万円程度になる。温暖地ではモーターは長持ちするが、凍結するような寒冷地では簡単に」モーターが焼き切れる。寒冷地対策が難しい。
融雪装置
地下水は、年平均気温に近い温度である。冬、積雪地帯では大型ポンプで地下水を大量に汲み上げ、道路の中央から散水して雪を融かすことが、全国的に流行した。使いすぎて地下水の枯渇や家庭用ポンプの空回りの問題があったが、積雪地帯の自動車交通を確保することができた。百瀬川扇状地の扇端集落にも融雪装置があるが、地下水は百瀬川の伏流水が豊富であるし、使い過ぎれば琵琶湖からの逆流する地下水もあり、融雪装置は十分に役だった。
※ 中央の舗装の色の違う帯状部分を地下水のパイプが通りる。積雪時には、1m間隔の穴から地下水を噴水のように出して凍結を防ぐ。積雪地帯のほとんどの道路には、このような融雪装置がある。しかし、多くの地域では地下水の枯渇が問題になっている。
扇端の湧水
扇端では地下水がわき出る。百瀬川の伏流水(地下水)が扇端でわき出るが、利用者がなければ泉となって存在する。周囲は湿地であり、その下流は琵琶湖に達する水田地帯である。