地理講義   

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251.奈良井宿の鍵の手 長野県塩尻市

2017年08月08日 | 地理講義

中山道奈良井宿の町並は東西の長さ8町余、ほぼ1000m、天保年間には戸数409、うち本陣1,脇本陣2、問屋2,旅籠5であったと記録に残る。人口は2,155人であった。旅籠5と少ないのは、商家・農家が宿泊客が多い時には旅籠になるからである。今日の民宿のようなものが多かったのである。

奈良井宿の東端と西の端には枡形があり、奈良井宿に出入りする者を監視していた。東の枡形は大きく、西の枡形は小さいが、枡形には宿場町防衛拠点としての本来的役割はなく、道路デザインの象徴に過ぎないから、大小は問題ではない。単に存在することで奈良井宿の境界を定めることに意味があった。道しるべのようなものである。



奈良井宿東端の枡形の石積み。本来は城の防衛のために設置されるものだが、中山道奈良井宿では町の出入り口に設置されている。

奈良井宿西端の枡形は若宮様の向かいにある(右下)。見落とすほど小さな花崗岩の積み石である。中津川から塩尻に向かう旅人を出迎える位置にある。

 西の枡形近くには道路が屈曲した鍵の手がある。多くの宿場町には枡形がなく、鍵の手だけである。一般に鍵の手は宿場町の端の境界となるのだが、奈良井宿の鍵の手は境界となるほどの端ではない。
水飲み場のすぐ裏手が本陣跡である。本陣を復元すれば観光の目玉になったであろうが、幕末に火災で消失したままで復元の手がかりがなく、現在は公民館として利用されている。本陣が鍵の手にある、変則的な配置である。

鍵の手は枡形とも言われることがある。しかし、奈良井では鍵の手と枡形は明確に区別され、鍵の手は本陣にある。奈良井宿の鍵の手には水飲み場・神社・道祖神があり、宿場町の端とみなすことができるから、奈良井の本陣は宿場町の端にあったことになる。

1958年に文化庁の重要伝統的建造物群保存地区(伝建)に指定され、宿場町としての復元が一挙に進み、中山道の宿場町の伝統を色濃く残す観光地となった。道の両脇には映画村のセットをさらにグレードアップしたような家並みが1,000mにわたって続き、訪れる観光客を感動させる。建物の高さの違いの雑然さや格子のくすんだ色が、江戸時代のままのようである。

しかし、よく見れば、水飲み場の背の低い屋根は伝統的な石置板葺屋根だが、他の住宅はトタン板よりも高価な鋼板である。地味な塗装なので、板葺屋根のような錯覚に陥る。
屋根の高さは、明治末までは3.6m~4.3m、大正から戦前までは5m~5.7m、戦後は6m以上である。屋根の高さは宿場町の家格によるものではなく、高い屋根ほど新しい建築なのである。復元時に屋根の高さを統一するほどカネをかけることが不可能であったし、居住者の生活破壊にもなりかねないので、屋根の高さをそのままにし、道に面したつくりを統一復元したのである。鋼板の屋根には置石はない。

 

 
天保年間の宿場町が目の前によみがえる。中山道奈良井宿は奈良井川沿いの河岸段丘面に、長さ1kmにわたって続く宿場町である。映画のセットのようなベニヤ張りではない。どれもが本格的なつくりであり、その1軒1軒に暮らしがある。江戸時代から連綿と続く暮らしがある。暮らしの根付いた町並みは、2005年に手づくり郷土大賞、2007年に美しい日本の風土100選、2009年に花の観光地づくり大賞などを受賞している。
2005年の重要伝統的建造物群保存地区の指定(文化庁)により、建物の増改築や色彩変更などの現状変更が規制され、奈良井宿の町並は長期にわたり、保存されることになった。

櫛問屋の中村家は天保年間に建てられた出梁づくりの商家である。中村家の解体問題から、奈良井宿全体の保存運動へと発展した。

鍵の手を枡形と呼ぶことがある。宿場出入り口の道路の屈曲部分である。奈良井宿ではここに水飲み場、神社、道祖神が置かれた。他の宿場町との違いとして、水飲み場の裏手が本陣跡であり、本陣が宿場町の端にあったことである。なお、水飲み場は、伝統的な板葺石置屋根である。

道祖神は集落境界にあり、集落への厄災の及ばないことを祈願するものだが、旅人の道中安全を祈願する意味もある。男女の仲睦まじい石像が多い。中山道は参勤交代や日光例幣使のような1,000人を越える大集団が通る。

 

しかし、宿場町の建造物の復元はできても、居住者の生活を復元することは不可能である。水飲み場があっても水道は現代生活においては絶対必要である。食事の支度に火を使う。天保時代のような薪炭を使うことは、効率的にも防火上も不可能であり、ガスに頼らざるを得ない。奈良井宿にもプロパンガス配送トラックは来るのである。電線の地下埋設により、電柱はなく、空が広い。

そしてまた、住民も自家用車のない生活などできない。奈良井宿をしきりに乗用車が往復するのである。軒下を駐車場とするケースもあるが、天保年間の馬に相当するとみなすべきだろう。

江戸時代には隠れキリシタンが、日本各地に散らばっていた。現代は信教の自由、信仰の自由がある。江戸時代の宿場町では表に出ることはなかったが、現代の復元宿場町ではキリスト教が大手を振っても構わないのである。

 

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