水俣病の現在

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ガーナ、社会主義政策に失敗。

1960年02月09日 | 1960年
アフリカ独立の父エンクルマ 
ガーナのエンクルマ(1909~1972年)は、イギリスとアメリカに留学後、イギリス植民地ガーナの独立運動を指導した。1947年に統一ゴールドコースト会議書記長になり、1949年には会議人民党を組織した。
1957年にガーナの独立を達成すると、初代ガーナ大統領に就任した。エンクルマは、アフリカの多くの国が独立する理論的精神的なバックボーンになって、アフリカ独立の父といわれた。1960年には多くの国が独立し、「アフリカの年」といわれた。
しかし、ガーナの社会主義的経済政策は失敗した。1966年の中国訪問中にクーデターが発生して、エンクルマは失脚した。エンクルマは終生ガーナに戻ることができず、ギニアで亡命生活を送った。

エンクルマの社会主義政策 
エンクルマはガーナの独立(1957年)から、クーデターで大統領の座を追われる(1966年)まで独裁政治を続け、社会主義的イデオロギーにもとづいた経済政策を実施した。アフリカの新興独立国が経済的自立を達成するためのモデルであった。
しかし、エンクルマのいずれの政策も、ガーナの財政を圧迫した。独立によってガーナ国民は自由を得たが、その代償としてガーナ国民は深刻な貧困に襲われた。

公共投資
カカオのモノカルチャー経済では財政収入が少なく、国家の運営が難しかった。エンクルマはガーナの近代化のために工業化路線を選択した。港湾・空港・アコソンボダムを建設し、産業基盤整備の整備を進めた。

工業化政策
植民地時代の収奪のため、ガーナ国内に民間資本(企業)は存在しなかった。独立直後の新興国家には、外国資本も進出しなかった。
エンクルマはガーナの工業化のため、国営企業を設立した。国営企業は、輸入代替型の軽工業と、アコソンボダムの水力発電を利用したアルミニウム製造が中心であった。
国営企業保護のため、競合する工業製品の輸入を規制したり、外資の進出を禁止したりした。また、政府からは国営企業に潤沢な補助金が支出された。
これらの結果として民間企業が育成されず、非効率の国営企業が増加した。国営企業幹部とガーナ政府には、汚職と腐敗が広がった。

農業政策
ガーナはイギリス植民地時代からカカオのモノカルチャー経済が続いていた。他の植民地のような大規模農場ではなく、零細自営農民の小規模農場であった。
エンクルマは大規模国営農場を建設して、大型農業機械による効率化をめざした。しかし、結果は逆に非効率な国営農場ばかりになってしまい、カカオの生産量は増加しなかった。

生活基盤整備
エンクルマは社会主義的な経済的平等を実現するため、教育と医療を無償とした。生活の近代化のため、電気・水道の建設を進めた。貧困と失業者救済のため、カカオ産業には大量の労働者を雇い、国家財政公務員として給料を与えた。

財政の問題
社会主義政策を維持するためには豊富な財源が必要であった。ガーナ政府は財政確保のため、政府機関のマーケテングボード(商業省)によるカカオの独占買い付けを実施した。
マーケテングボードが農民からカカオを安く買い、高値で輸出し、その差益を国家収入とするものであった。カカオ農家の犠牲による社会主義国家建設であった。
しかし、この増収政策は失敗した。
第1にカカオの国際価格が暴落したため、マーケテングボードによる買い占めが赤字になった。
第2に、軍部のクーデターでエンクルマが失脚して失敗に終わった。エンクルマが中国に、ガーナの財政再建のための融資交渉に行っていた。親中国路線に進むことを不安死したアメリカ政府が、ガーナ軍部を支援して、大統領追放のクーデターを成功させた。このあとの財政再建プログラムもアメリカの筋書きである。


財政再建
1983年にローリングズ大統領が、世界銀行による構造政策を受け入れて財政が再建された。ガーナ政府は経済主権を放棄し、世界銀行の財政再建プログラムに沿った経済政策を実行した。
カカオは増産が可能になった。また、外資の導入で金・木材・アルミの輸出市場も確保できた。ガーナは財政再建が達成でき、世界銀行の優等生といわれた。
しかし、ガーナを真似て、サハラ以南アフリカで世界銀行の構造政策を導入したが、基幹産業がないため、財政はさらに逼迫し、内乱とクーデターが多発する事態になってしまった。世界銀行による構造調整プログラムは、ガーナ以外ではことごとく失敗した。


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