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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

上杉謙信と武田信玄「川中島合戦陣取りの図」(妻女山里山通信)

2012-10-12 | 歴史・地理・雑学
 上杉謙信と武田信玄の一騎打ちで有名な「川中島合戦」ですが、その一騎打ちを初め第一級史料がなく、悉く江戸時代のバイアスがかかっているため、物語がまるで史実かの様に語られているのが現状です。そんな中で、以前ブログで、『甲陽軍鑑』元和写本に注目!という記事を書きました。国語学者の酒井憲二氏による『甲陽軍鑑大成』全七巻(汲古書院)です。史料としての価値は低いという評価をくだされていたものは、主に江戸時代に何度も改変された木版本であり、酒井氏は小幡勘兵衛が元和七年に筆写したという、いわゆる「元和写本」を研究対象としています。
 そこには、戦国時代に使われ、江戸時代には使われなくなった甲州の方言があるということなど、国語学の立場から非常に興味深い考察をされています。興味のある方は、ぜひご一読を。県立長野歴史館にも蔵書があります。

 今回紹介するのは、逆に江戸時代のバイアスがたっぷりとかかった絵図です。作者は、榎田良長。調べてはみたのですが、この人物がどこのどういう人かは分かりませんでした。ただ、絵図の千曲川や犀川の流路や谷街道のルートから、この絵図が描かれたのが江戸時代後期ということは分かります。一番上の図で、蛇池というのがありますが、蛇池ができたのは、ここを流れていた千曲川が北へ瀬直しで完全に移された後ですから、1781(天明元年)以降ということになります。

 上杉謙信がなぜ斎場山に布陣したかについては。「上杉謙信が妻女山(斎場山)に布陣したのは、千曲川旧流が天然の要害を作っていたから」に記したので、ご笑覧ください。現在とは違う、戦国当時の千曲川の流れがポイントです。

 絵図が描かれた目的ですが、江戸時代後期になると、庶民の旅も盛んになり、善光寺参りなどで信州を訪れる旅人も増えました。そんな旅人の土産として木版の「川中島合戦絵図」がたくさん作られ売られました。これらもそのひとつではないかと思うのです。真ん中のみ北が上ですが、一番上と下の二枚は、南が上になっているので、そのつもりで見てください。

 二枚目は、武田信玄の茶臼山陣取図ですが、この茶臼山は現在の茶臼山ではなく、その南にある大正時代に崩れてしまった南峰、有旅茶臼山です。山城が描かれているのですが、非常に詳細な描写がされています。ひょっとしたら、この絵は崩れる前の実際の形をかなり正確に描いているのではないかと思われるのです。

 その理由は、一枚目の絵にあります。これは、上杉謙信が布陣した妻女山です。現在の妻女山は、戦国当時は赤坂山といい、妻女山は斎場山と呼ばれていましたが、『甲陽軍鑑』には誤って西条山と記されてしまい、それが後世まで流布してしまいました。それはともかく、この絵の斎場山を中心とした山系の描写が、実に現実のものとそっくりなのです。絵図にある様に地名を入れられるほど正確に描かれています。赤く細く描かれた山道は、現在でも辿る事ができます。

 ということで、今は崩れてない有旅茶臼山も、同様にかなり正確に描かれているのではないかと思ったわけです。川中島から有旅村を通り、青池村、山布施村を抜けて笹平へ抜ける古道も地元の人なら分かるはずです。山城の跡がどうだったかは、明治生まれの人が健在であれば確認できるかも知れません。古老の談として、山頂には城跡があり、堀切もあったという記述を読んだ事があります。

 三番目は、川中島の全体図です。中央の四角は、合戦が行われた範囲を示しているのでしょうか。絵図はディフォルメされている部分もありますが、かなりリアルで、当時の地形や河川や道路の様子を正確に描写しているのではないかと思います。当時の旅人は、こんな絵図を見ながら川中島合戦の史跡巡りをしたのかと思うと楽しくなります。

ちなみに、江戸後期の旅ブームでは、1831(天保3)年、妻女山に上杉謙信の槍尻の泉で霊水騒動なるものまで起きています。謙信公の霊験灼(あらたか)で、この水は万病に効くと噂が広まり、城下近在、善光寺町、下越後よりも人が押しかけ、大騒動になったというのです。

 上杉謙信の斎場山(誤って西条山)布陣は、『甲陽軍鑑』にも出てきますが、武田信玄の茶臼山布陣は、江戸時代後期の川中島の無名の作者によって書かれた戦記物語 『甲越信戦録』にならないと登場しません。他の史料には全く出て来ないので、これは創作でしょう。謙信が既に斎場山山系に布陣しているのに、わざわざ4キロ以上も離れた茶臼山に登る理由が分かりません。千曲川対岸の横田城を中心として、横に広く斎場山と対峙するのが普通ではないでしょうか。
 斎場山へは、妻女山展望台奥の駐車場から右の林道を15分登って、長坂峠の分岐を右へ3分で円墳のある山頂に着きます。茶臼山へは、茶臼山動物園入り口を過ぎて、信里小学校へ。そこを右折すると茶臼山登山口駐車場。旗塚(崩れてしまった南峰)経由で登山道を15~20分で茶臼山山頂です。但し展望はありません。山頂分岐を直進すると、すぐに北アルプス展望台があります。

■絵図上から『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』『川中島信玄陣捕之圖 一鋪 寫本』『河中島古戰場圖 一鋪 寫本』榎田良長 彩色
出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁


★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」など。このブログでも右上の検索窓に「妻女山」をコピペしてブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。

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■「プルトニウム製造軍需工場が原発」を理解しないと原発問題の核心は見ない。原発=原爆、核ミサイル=宇宙開発。六ヶ所村の再処理設備には、年間800tの使用済燃料を再処理する能力があり、稼働すれば純粋プルトニウムを毎年8t(核弾頭1000個分)生産、原発1300基分に匹敵する核廃棄物を放出する。
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