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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

「戊辰戦争」の戦没者を祀る妻女山松代招魂社と松代藩の戦没者名簿(妻女山里山通信)

2016-09-14 | 歴史・地理・雑学

 9月の第二日曜日(今年は11日)に、妻女山松代招魂社で戊辰戦争以降の戦没者を慰霊する祭が行われました。早朝から煙火が打ち上げられていました。清野村史には、招魂社「東西十四間五尺七寸、南北二十五間、村の西の方、妻女山の中腹にあり。岩野村に跨(またが)る。」とあります。つまりここは妻女山の頂上ではないわけです。「一般にここを妻女山と呼ばれて久しいが、正しくは赤坂山である。」とも記されています。本来の妻女山は、これより15分ほど登った土口が見える長坂峠から更に西へ距離100mほど登った斎場山古墳(円墳)がある標高512.8mの山です(長坂峠の目の前に見えます)。古来より本名を斎場山といいます。妻女山は江戸時代につけられた俗名です。このことは岩野村誌や土口村誌にも記述があります。また、第四次川中島合戦では、上杉謙信が古墳上に床几を敷き本陣としたことで、古来より床几塚、謙信台、両眼塚とも呼ばれています(私有地)。1901(明治34)年の『信濃宝鑑』には、「妻女山 まことは斎場山なるべし」と記されています。斎場とは現在の葬儀場という意味ではなく、祭祀を行う神聖な場所という意味です。いつきなる場、ゆにわともいいます。
 西条山という記述は、『甲陽軍鑑』によるものですが、これは斎場山を西条山と誤記したものです。口述筆記の際に本来の漢字を知らずに当て字をしたのでしょう。戦国時代の文書にはよくあることです。地元では西条は、「にしじょう」と読み「さいじょう」と読むことはありません。また、清野氏のこの山を、西条氏が治めたという記録も残ってはいません。松代藩の古文書には、「西条山と記すは誤りなり山も異なり」と書かれています。西条山とは、松代の南、高遠山からノロシ山までの山一帯を指します。全く別の山です。
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 この招魂社は、松代藩(藩主真田幸民)が1868(明治元)年の戊辰戦争で明治政府軍として、幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社です。瓦には真田の六文銭の紋が記されています。その功績を受けて、新政府から3万石を与えられ、松代藩からは多くの人が新政府に重用されました。この平地は、招魂社を建てるときに造成したもので、それ以前は松代藩の射撃練習場ではなかったかと推察されます。南面の山からは、多くの銃弾が出土しています。また村誌には赤坂山古墳があったという記述も見られます。
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 新選組の殲滅に加わり、会津若松城を大砲で破壊したのは艦船で来た薩長よりもむしろ松代藩でした。遡って昔、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は会津へ転封となりましたが、善光寺平の土豪たちは皆景勝とともに家族家来を連れて会津へ移ったのです。さらに江戸時代前期に、保科正之(第二代将軍秀忠の四男・第四代将軍家綱の後見人)が第三代将軍の異母兄家光により信濃国高遠藩3万石から会津23万石に転封になり会津藩を隆盛させました。その時、信濃から家臣も会津にたくさん移っています。わが家のある祖先も同行し、後に子孫は商人となって会津藩を支えました。それ故、会津は信州人が造った町といえるのです。これは歴史の皮肉であり悲劇ですが、会津戦争は、ある面信州人同士の戦いでもあったのです。松代藩士の中には当然この史実を知っていた者もいたでしょう。悲劇という他はありません。現在に至るまで、会津の薩長に対する怨念は引き継がれていますが、松代藩に対する誹謗中傷や怨念は聞いたことがありません。同根故の複雑な想いがそこにはあるのでしょう。
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 招魂社は拝殿が先に建ち、後背の本殿は後に建てられたといいます。本殿の後ろには52の戦没者の霊を弔う石碑が並んでいます。ここを赤坂山ではなく妻女山と呼ぶようになったのは、そんな理由から妻女山招魂社建立以降ではないかと推察されます。本殿の土塁の中は官地、周りは真田の領地(尾根の狭い範囲)で、ある方が管理をしていましたが、管理を村に移管して、現在は長野市の妻女山公園となっています。1871(明治5年)に招魂社祭を4月24・25日と執行と決まりました(飯山に於いて戦勝の日)。1881(明治14年)には、一町六カ村立妻女山招魂社となりました。昔は舞楽の奉納があり、剣道や相撲の奉納試合もあり、出店もたくさん出て賑やかだったそうです。春の桜、秋の紅葉は見事です。また夕日の景勝地ともなっています。
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 戊辰戦争当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。会津藩に、「薩摩真田に大砲なくば、官軍破るも何のその」 と嘆かせるほどでした。1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時、「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合するといえども松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超えて天領満照寺まで飛んで大騒動になりました。)。
 しかし、戊辰戦争への参加で財政は悪化。財政再建のため、1869(明治2)年、「商法社」という会社を設立、生糸・蚕種の生産・販売、午札(紙幣)の発行を始めましたが失敗。その穴埋めをすべく増税したために(午札の交換比率の不当を訴えて)民衆が決起し、「松代騒動(午札騒動)」が勃発。農民数千人が松代城下に迫り、約200戸を焼きました。これにより幸民も謹慎処分になりました。その後伯爵になっています。
 ※真田幸民:10代藩主・伊予宇和島藩主伊達宗城次男・養子・1869(明治2)年6月24日松代藩知事就任・1871(明治4)年11月松代県解体、長野県の誕生により解任、真田氏の松代支配は終わったのです。
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 戊辰戦争以降の経緯は下記の通りです。
●明治元年戊辰2月、朝命により信濃十藩の触頭を命ぜられ、2月東山道総督より大隊旗、錦の袖章を賜る。
●4月、関東脱走の幕軍林昌之助・近藤勇ら新選組・甲陽鎮撫隊が甲斐に侵攻を図る。真田幸民・大熊藩士を総隊長として兵750人で甲府を守らせた。
●4月24日、幕軍の将古屋作左衛門が、長岡より信濃に入り、飯山城を囲む。幸民は、河原左京を総隊長として、兵10,300で進撃させる。
●4月25日、幕軍は大敗して敗走。後にこの日を戦勝の日として松代招魂社の大祭が行われた。
●9月24日、会津城が降伏。
●10月29日、松代に凱旋帰国。各地に転戦すること90回以上、出兵3271人、戦死者52人、負傷者85人を出す。
●明治2年4月17日、真田幸民は藩戦死者の英魂を、妻女山頭(赤坂山)に祀る招魂祭を執行。石の玉垣をめぐらした戦没者の石碑を建立、「松代招魂社」と称す。
●6月、戊辰戦争の功績をたたえられ、松代藩は賞典録三万石を賜る。
●明治3年、松代藩知事・真田幸民により「妻女山頭鎮座松代招魂社」建立。真田家は、賞典録の中百石を祭祀料として寄付。藩兵、兵制士官学校生徒の合同調練式を行う。
 同年幸民は、戊辰戦争による大出費を埋めるべく「商法社」設立。生糸・蚕種の生産・販売等始めるも殿様商売は大失敗。増税に民衆が決起し翌年「松代騒動(午札騒動)」勃発。幸民は謹慎処分になる。
●明治4年7月、廃藩置県で松代県に、11月には長野県となり、松代県は解体され幸民は解任。真田の松代支配は終わり、松代は政治の中心地でなくなる。本来の地名・赤坂山を使わず妻女山としたのは、ここの小字名が妻女山(本来の妻女山の中腹)だったから。また、赤坂山より妻女山の方が有名だったからと思われる。
●明治5年4月26日、妻女山松代招魂社祭を毎年4月24・25日執行と決定。県祭となったのはこの頃か。
●明治6年には、松代騒動を引き起こした失政のためか、放火により松代城花の丸は焼失。一説には花街に建物が売られるのを嫌った元藩士が放火したともいわれるが、定かではない。
●明治13年、拝殿を修繕。
●明治14年、一町六か村(松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮)立妻女山松代招魂社建立。
●明治29年、社殿の傍らに山縣有朋による一大石碑を建立。
●明治44年5月18日、社務所を建立。合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る乃木将軍筆による忠魂碑建立。盛大に除幕式が行われた。
●昭和22、23年頃、玉垣の上に小さな本殿を建立、石碑を現在のように並べ替える。


 拝殿の中にある招魂社の額は、真田幸民(ゆきもと)の書ですが、本姓の滋野幸民と記してあります(左)。52名の戦没者の名を刻んだ石柱が本殿の背後に立っています(中・右)。風雪や排気ガスでかなり風化して傷んでおり、修復や覆屋で守ることが必要かもしれません。傷んだ箇所が新しいので、人為的に誰かによって壊された可能性も否定できません。いずれにせよ、激しい内戦は今に至る深い傷を残しました。結局勝っても負けても、戦争で本当に幸せになる者などいないのです。川中島には「七度の飢饉より一度の戦」という戦国時代の庶民の言葉が残っています。それほど戦は悲惨で惨めなものだったということです。現代においては戦争をしたがる人間は軍需産業を操る極一部の輩。己は絶対に戦地に行きません。そして莫大な富を得るのです。

 拝殿は、明治13年に修繕されましたが、それ以降はほとんど手付かずのままだそうです。銅葺きの本殿は綺麗ですが、拝殿の瓦などは相当傷んできています(左)。右手の石の台には、戦前は日露戦争でバルチック艦隊を撃破した戦艦の大砲の弾が置いてあったそうです、戦艦信濃丸のものでしょうか(中)。第二次世界大戦の供出でなくなったそうです。これが前述した招魂社の南面の山中から出土した戊辰戦争当時の銃弾(右)。このことから、ここは松代藩の射撃練習場だったのではと思われるのです。

 明治時代の招魂社の絵葉書。社務所がないので明治43年以前の例大祭の様子かと思われます。かなり賑やかですが、剣道や相撲の奉納仕合が行われているのかも知れません。鳥居は今とは異なり、南側にあります。鳥居の両側には、射撃練習に使われたと思われる土塁が今も残っています。写真でも分かるように現在の広い駐車場は、林道倉科坂線を造る際に出た土砂を埋め立てて造ったものです。

 これは大正時代か昭和初期のものと思われる一枚。社務所は明治44年にできましたが、本殿はまだありません。右に「しら雲に 果てはつつみて 花深し」鸞生(らんせい:文化七年中沢村生明治五年没)の句碑が見えます。妻女山(旧赤坂山)は、古くから桜の名所だった様です。現在も桜が満開の頃には、近隣の小学生が大勢遠足に訪れます。

【明治元年北征の際 松代藩戦死人】
◉海野知正
明治元戊辰年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦い傷つく。十月三日本藩病院に於いて死す。享年三十四。
◉禰津直頼
同年七月二十九日、越後国古志郡宮内村に於いて戦死す。享年三十二。
◉牧野義為
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同十七日越後国五泉病院に於いて死す。享年三十三。
◉西山昌高
同年七月二十五日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦死す。享年四十。
◉藤井正忠
同年九月十一日、耶麻郡熊倉村に於いて戦死す。享年三十一。
◉増田驥(名は馬編に上が北で下が異。読みは、き・すすむ)
同年六月十二日、越後国三島郡久田村に於いて戦傷、同二十日同国出雲崎病院に於いて死す。享年二十三。
◉三輪高致
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦傷、同二十九日越後国五泉病院に於いて死す。享年三十四。
◉佐川重東
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年二十一。
◉森山一似
同年七月二十五日、越後国三島郡興坂原村に於いて戦死す。享年三十四。
◉前島一忠
同年五月三日、越後国三島郡片貝村に於いて戦死す。享年二十九。
◉松村貞安
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年四十三。
◉山本直房
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死す。享年二十三。
 以上十二名騎士
◉海沼義路
明治元戊辰年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、二十六日同国興坂病院にて死す。享年三十三。
◉小山友重
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、九月三日同国十日町病院に死す。享年二十。
◉古川康備
同年七月二十二日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同二十四日同国長岡病院に死す。享年二十三。
 以上三名歩士
◉相澤則忠
明治元戊辰年五月十四日、越後国魚沼郡高梨村に於いて戦死。享年二十二。
◉村澤重勝
同年六月二十二日、越後国古志郡蔵金村に於いて戦傷、七月二十五日同国長岡に死す。享年三十。
◉佐々木高照
同年七月六日、越後国古志郡陣ヶ峯に於いて戦死。享年十六。
◉小沼直重
同年四月二十五日、本国水内郡安田村に於いて戦死。享年四十二。
◉藤田茂久
同年五月十一日、越後国魚沼郡三仏生村に於いて戦傷、六月二十一日本藩病院に死す。享年四十一。
◉小林正久
同年六月十二日、越後国三島郡久田村に於いて戦死。享年四十二。
◉中曽根仲正
同年七月三日、越後国三島郡御経塚に於いて戦死。享年十七。
◉小林直廣
同年七月五日、越後国三島郡御経塚に於いて戦死。享年十七。
◉古澤義縁
同年七月二十六日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同二十九日同国十日町病院に死す。享年十七。
◉松田義意
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年十九。
◉奥村長知
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十一。
◉平林一興
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦傷、同二十六日同国小千谷病院に死す。享年四十。
◉丸山俳眞
同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて戦死。享年四十六。
◉八町忠安
同年七月二十五日、越後国長岡四郎丸口に於いて戦死。享年四十。
◉栗林直英
同年七月二十五日、越後国長岡四郎丸口に於いて戦死。享年五十一。
◉春原泰直
同年七月一日、越後国古志郡亀崎村に於いて戦傷、同三日同国長岡病院に死す。享年四十二。
◉小林重行
同年閏四月二十六日、越後国魚沼郡生峠に於いて戦死。享年二十一。
◉青木忠政
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同十一月二十日越後国柏崎病院に死す。享年十八。
◉若林義一
同年九月四日、岩代国耶麻郡小土山に於いて戦傷、同二十四日越後国柏崎病院に死す。享年二十二。
◉神戸清成
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦傷、同十月八日越後国新潟病院に死す。享年三十九。
◉丸山忠泰
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年三十八。
◉浅井清成
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十。
◉山本嶽房
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年二十六。
◉五名氏宣
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年四十四。
◉宇敷恒正
同年七月二十六日、越後国三島郡興坂三楯山に於いて戦死。享年二十四。
◉岡澤信重
同年七月六日、越後国三島郡興坂原村に於いて戦傷、同二十三日興坂病院に死す。享年十八。
◉村松宣安
同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて戦死。享年五十一。
 以上二十七名平士
◉富国水内郡長井村、文吉 明治元戌辰年閏四月二十六日、越後国魚沼郡生峠に於いて死す。享年二十九。
◉同国同郡上祖山村、末吉 同年六月一日、越後国三島郡興坂陣ヶ峯に於いて死。年十九。
◉同国更級郡東福寺村、義市 同年六月一日、越後国蒲原郡赤坂峠に於いて死。年二十六。
◉同国水内郡和佐尾村、甚右衛門 同年六月五日、越後国三島郡興坂原村に於いて死。年五十二。
◉同国同郡北高田村、長蔵 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年三十九。
◉同国更級郡中澤村、一郎左衛門 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年四十六。
◉同国高井郡沓野村、辨(弁)作 同年七月二十五日、越後国古志郡長岡蔵王口に於いて死。年六十。
◉同国埴科郡清野村、安之助 同年九月二日、岩代国河魚郡桂村に於いて死。年二十八。
◉同国同郡雨宮村、浅吉 同年九月十一日、岩代国耶麻郡熊倉村に於いて死。年十九。
◉同国更級郡八幡村、百六 同年十一月十三日、越後国刈羽郡柏崎病院に於いて病死。
 以上十人軍夫
総計 五十二名県祭なり。祭日四月二十四日、二十五日。
長野県令大野誠殿
(出典:埴科郡誌 清野村)

白虎隊と同じく、16歳など少年が散見されることに心が痛みます。

[抜書き] 『偽(いつわ)りの明治維新 会津戊辰戦争の真実』
会津藩と会津戦争

 戊辰戦争で、悲劇的な敗北を期した会津藩ですが、この妻女山招魂社の麓には会津比売神社があり、祭神は初代科野國造の妻といわれる会津比売命(あいづひめのみこと)です。この会津比売命の会津と福島の会津は、深い関係があるのです。歴史の因縁を感じます。詳しくは、下記の記事をお読み下さい。必読です。
大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)

妻女山 有名人訪問年表」政治的、軍事的に利用された稀有な里山(妻女山里山通信)

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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