都祁
都祁は私が子供の頃は、東山中の山の中といった感覚でしたが今は奈良市に編入され名阪道も通り、様変わりですが、多くの神社があり、「神さぶる都祁の地」でしす。
氷室神社/F3
社伝によると5世紀前半允恭天皇の時代の創祀といわれています。この地は標高500メートルぐらい、冬の氷を氷室に保存し夏になるとそれを朝廷に献上していました。皇室の崇敬がことのほか厚かった氷室神社は、氷に関する一切の守護神として祀られることとなりました。
古代の氷の用途としては、飲食のほか皇室の殯などの際の死体の保存用に使われたといいます。
都祁は私が子供の頃は、東山中の山の中といった感覚でしたが今は奈良市に編入され名阪道も通り、様変わりですが、多くの神社があり、「神さぶる都祁の地」でしす。
氷室神社/F3
社伝によると5世紀前半允恭天皇の時代の創祀といわれています。この地は標高500メートルぐらい、冬の氷を氷室に保存し夏になるとそれを朝廷に献上していました。皇室の崇敬がことのほか厚かった氷室神社は、氷に関する一切の守護神として祀られることとなりました。
古代の氷の用途としては、飲食のほか皇室の殯などの際の死体の保存用に使われたといいます。
和邇下神社/F3
このあたりは、古代豪族和爾氏の本拠地、また和爾氏の支族、万葉歌人の柿本人麻呂が住んだと伝えられており、和爾下神社の入り口に万葉歌塚があります。
さし鍋に 湯沸かせ子ども 檪津の
檜橋より来む 狐に浴むさむ
このあたりは、古代豪族和爾氏の本拠地、また和爾氏の支族、万葉歌人の柿本人麻呂が住んだと伝えられており、和爾下神社の入り口に万葉歌塚があります。
さし鍋に 湯沸かせ子ども 檪津の
檜橋より来む 狐に浴むさむ
在原神社/F3
明治の廃仏殿釈によって廃寺となった在原寺の位置に、在原神社があります。和歌の名人で美男子「伊勢物語」の作者在原業平と、その父阿保親王が祀られています。境内に句碑があります。
鶯を 魂にねむるか 嬌柳 芭蕉
明治の廃仏殿釈によって廃寺となった在原寺の位置に、在原神社があります。和歌の名人で美男子「伊勢物語」の作者在原業平と、その父阿保親王が祀られています。境内に句碑があります。
鶯を 魂にねむるか 嬌柳 芭蕉
かぼちゃ薬師堂/F3
古来からの言い伝えから鎌倉時代中期の創建と考えられています。荒廃していましたが、平成十一年に今日の新しい堂宇が復興しました。古い民家の間に不自然なように感じますが年がたてば同化するのでしょう。
好物のかぼちゃの初なりを供えると目や耳の病を治してもらえるといいます。
古来からの言い伝えから鎌倉時代中期の創建と考えられています。荒廃していましたが、平成十一年に今日の新しい堂宇が復興しました。古い民家の間に不自然なように感じますが年がたてば同化するのでしょう。
好物のかぼちゃの初なりを供えると目や耳の病を治してもらえるといいます。
櫟本馬繋ぎの家/F3
奈良と飛鳥を結ぶ上街道に沿ったここは、東大寺領櫟本庄として、江戸時代まで,東大寺を領主として発展してきました。
交通の要衝であったことから,中世から市が立ち,市場町として、商業が盛んになり、ここ「馬出」の町並みが生まれました。
戦後しばらくまでは大和盆地の東の大和高原の薪炭をウマに乗せてこの地までくだり、帰りは食料品や日用品を乗せて帰りました。運搬用のウマがつながれた「馬つなぎ」の遺構が残っている家もあります。
奈良と飛鳥を結ぶ上街道に沿ったここは、東大寺領櫟本庄として、江戸時代まで,東大寺を領主として発展してきました。
交通の要衝であったことから,中世から市が立ち,市場町として、商業が盛んになり、ここ「馬出」の町並みが生まれました。
戦後しばらくまでは大和盆地の東の大和高原の薪炭をウマに乗せてこの地までくだり、帰りは食料品や日用品を乗せて帰りました。運搬用のウマがつながれた「馬つなぎ」の遺構が残っている家もあります。
楢神社/F3
上ツ道に沿い銅製の鳥居があり、石垣でかこまれています。
子どもが生まれないと、この神杜へ願をかけ、子どもが弱いと捨子にしたことにして氏子になる、そのときは“楢”“奈良”の文字を一部いただいて名前をつける習わしがあるそうです。
銅の鳥居といえば、吉野山のも有名です
上ツ道に沿い銅製の鳥居があり、石垣でかこまれています。
子どもが生まれないと、この神杜へ願をかけ、子どもが弱いと捨子にしたことにして氏子になる、そのときは“楢”“奈良”の文字を一部いただいて名前をつける習わしがあるそうです。
銅の鳥居といえば、吉野山のも有名です
櫟本分署跡参考館/F3
上街道添いに櫟本分署跡参考館があります。
天理教の教祖“中山みき”は、豊かな耕作地主の普通の主婦でしたが、41歳の時に神の啓示を受け、予言がことごとく当たるようになり、天理教の普及を始めました。人心を惑わすということでしょうか、たびたびここ櫟本分署に連行され、取り調べを受けました。
格子戸が組まれた部屋があり、取り調べ状況が復元され、取り調べの文書なども取り揃えてあり、明治時代初期の警察のありようがうかがえます。
上街道添いに櫟本分署跡参考館があります。
天理教の教祖“中山みき”は、豊かな耕作地主の普通の主婦でしたが、41歳の時に神の啓示を受け、予言がことごとく当たるようになり、天理教の普及を始めました。人心を惑わすということでしょうか、たびたびここ櫟本分署に連行され、取り調べを受けました。
格子戸が組まれた部屋があり、取り調べ状況が復元され、取り調べの文書なども取り揃えてあり、明治時代初期の警察のありようがうかがえます。
町並み/F3
上街道は庶民の間でも大和めぐり、伊勢参り、高野山詣で、櫟本・丹波市・柳本の市場・宿場はにぎわいをみせました。しかし、昭和三〇年代に入って、上街道東側に新道(国道一六九号)が開通したため急速にさびれ、今では古い面影を残した閑静な通り道になっています。
上街道は庶民の間でも大和めぐり、伊勢参り、高野山詣で、櫟本・丹波市・柳本の市場・宿場はにぎわいをみせました。しかし、昭和三〇年代に入って、上街道東側に新道(国道一六九号)が開通したため急速にさびれ、今では古い面影を残した閑静な通り道になっています。
帯解寺/F3
上街道を南に行くと、安産の寺として古くから知られる古刹・帯解寺があります。文徳天皇の皇后が、ここの地蔵に祈願して、のちの清和天皇を無事に生んだことから、勅命で寺号を帯解寺にしたと伝わっています。その後も、徳川二代将軍秀忠が祈願し、のちの家光が生まれました。近くは美智子皇后が祈願したなど天皇、将軍家から庶民までの信仰をあつめ、いまも県内外からの参拝者がたえません。
寺院は、平重衡の南都焼き討ちにより焼失し、その後も松永久秀により焼かれましたが、徳将軍家の援助などにより再建されています。
上街道を南に行くと、安産の寺として古くから知られる古刹・帯解寺があります。文徳天皇の皇后が、ここの地蔵に祈願して、のちの清和天皇を無事に生んだことから、勅命で寺号を帯解寺にしたと伝わっています。その後も、徳川二代将軍秀忠が祈願し、のちの家光が生まれました。近くは美智子皇后が祈願したなど天皇、将軍家から庶民までの信仰をあつめ、いまも県内外からの参拝者がたえません。
寺院は、平重衡の南都焼き討ちにより焼失し、その後も松永久秀により焼かれましたが、徳将軍家の援助などにより再建されています。