行徳生活日記

「行徳雑学館」作者の日記。

2011年10月1日(土)の日記

2011年10月01日 | 日記

布団のなかから見たテレビの天気予報では、昼間は晴れると言ってたが、カーテンを開けるとどんよりとした曇り空だった。この週末の洗濯は土日で半分ずつやって、脱衣場の突っ張り棒干し・除湿機速乾モード乾燥にする。

散髪をしに葛西のいつもの床屋へ行く。散髪の前に昼飯。葛西メトロセンターのロッテリアあたりで食べようかと思ったが、隣のカレー屋が目に入った。カレーハウス桃水という店。こちらに入ることにする。

カウンターやテーブルの上にあった手づくりルーであることの説明。

食べたのは野菜カレー(650円)。

辛口だが、程よい辛さ。マニアックなグルメ志向のカレーではない。でも、郊外の住宅地域の駅のところにある店で、年配の人も含めて気軽に入って食べることができる、ちょっとおいしいカレーとしてはいい線だと思えた。

通勤定期券の買い替え時期なので、浦安の定期券売り場へ寄って行く。南行徳もそうだが、浦安も駅のリニューアル工事中。定期券売り場は市川浦安バイパスのそばに仮設となっていた。

買い替え時期の平日夜に人が集中すると長い行列ができるが、仮設で通路も狭いから並ぶのも大変そうだ。次の買い替えは4月だが、定期券の発売ができる多機能券売機も増えてきているし、次の買い替えはそちらにしようか。

 

夜は、7月初めに閉店した居酒屋オンドリのとなりにある、養老乃瀧(南行徳店)に行く。この店に来るのは、実に16年ぶり。 それだけご無沙汰していたから、入るときは年甲斐もなく緊張した。

それほど混んではいなかった。カウンターの一番奥の席に座る。昔は瓶ビールしかなかったような記憶があるが、今は生ビールがあって大と中の2種類。大を注文する。出てきたらけっこうでかい。ということは"中"のほうが一般的な居酒屋の中ジョッキなのだろう。

自分が入ったときも、そのあとも今日はそれほど混んでいなかった。店内は昔と変わりなく、懐かしい気持ちになった。

カウンターの上に貼られた「親子と云えども現金にてお願い申し上げます」(つまり、付けにするのはダメ)の紙(いやプラスチックか?)も同じ文面だった。黄ばんだ感じではなかったから、古くなって取り替えられてのかもしれないが。

親方はかつては髪が黒々としていたと記憶しているが、さすがに今は、白に近いグレーになっていた。それは自分のほうも、グレーの程度に多少の違いはあるが同じだ。

最初のつまみにやきとり川えびの唐揚を注文。川えびの唐揚がまず出てきた。これは昔、好きだったメニューの一つ。

少し遅れてやきとりも出来上がってきた。

お献立表も昔と同じ様式だった。メニューは多少、変化したようだが。

いかさしが好物だったが、今のお献立表には値段が書いていない。そういうのは、季節もののようだ。細切りにしたいかさしはわさび醤油のわさびがピリッと効いて、それが好きだったが、今日はなかったようだ。じゃあ、また別の機会でよいだろう。

ビールの後はお酒(大徳利)。徳利とお猪口は昔と変わったようだ。徳利もお猪口も白色ベースので、お猪口の底には"飲み過ぎ観音"の文字とイラストが描かれていた(焼き物だから焼くときに一緒に絵を付けたのだろうけど)。今は黒いお猪口でそういうものはない。

これも好物だったが、レバ刺しを注文。薬味に生姜とニンニクを選べるがニンニクにする。

そして、ジャガバター。居酒屋のオーソドックスなメニューだが、自分が行く店では最近、あまり見かけなかった。

お酒が終わったので、あとはレモンハイを1杯。

これだけの飲み食いで3,000円ちょっとだから、確かに安い。

で、ここからは養老乃瀧南行徳店にまつわる思い出話。

自分が南行徳に引っ越してきたのは1989年(平成元年)だけど、その年と翌年の1990年にかけては、オンドリも養老乃瀧も半々ぐらいの割合で行っていた。引っ越してきて最初にいろいろ行った店のなかで一番のお気に入りになったのは、確かにオンドリだったが、養老乃瀧、それから南行徳の高架下、今は庭という店になっている場所にあった炉辺焼きの竹笛も気に入った。オンドリと養老乃瀧はとなりどうしで駅まで行かなくていいので、自然と行く回数も同じぐらいになった。

1989年頃というとまだバブル景気の真っ最中。世の中全般そうだったが、オンドリのような平均よりも1ランク上を志向した店のほうが人が入っていた。その分、安め志向の養老乃瀧はそれほど混んでいなかったから、入りやすいこともあった。1989年の年末近い時期の土曜日にオンドリへ行ったら満員で入れず、養老乃瀧は空いていたから入ってカウンターで鍋を突っついたこともあった。この1989年末がバブル景気のピーク。日経平均株価が史上最高値に達したときだった。そして1990年になったら株価はジェットコースターのように下がり始め、その年の秋から冬にかけてメディアには「バブル崩壊」という言葉が広がって、人々の心理も萎縮した状態になった。1991年ごろになると、オンドリはいつも空いていて、養老乃瀧は混んでいるという状態になった。自分はオンドリが一番のお気に入りだったし、養老乃瀧が入りにくくなったこともあってオンドリへ行く頻度のほうが高くなっていった。1990年代の前半は、前を通ったときにチラッと見ると、養老乃瀧はだいたいカウンターが埋まっていて、座敷もそこそこ入っている状態だった。

 それでも、養老乃瀧へは1991年の秋ぐらいまではときどき行っていた。でも、それほど混んでいなかった頃のようにのんびりと飲んで食べることができなくなった。ギャンブルの話で盛り上がるおっちゃん達が増えてきて、座敷席で自分たちだけで盛り上がってくれていればいいのに店が混むからカウンターにも進出してきた。隣に座ると、そうした話を振ってきて巻き込もうとする。こちらはギャンブルはやらないし、関心もないから、レースや馬の話など振られても分からない。それで、居心地の悪さを感じ、養老乃瀧へは足が向かなくなった。

そのあと、1995年の春から夏にかけての時期に養老乃瀧へ2度来ている。この年の春頃、南行徳にタイ料理の店が2軒出来た(どちらも今はない)。タイ料理を始めて食べたが、すっかりはまってしまった。しかも、単にタイ料理にはまっただけでなく、そのスパイシーさが自分のグルメな欲求を刺激した。引っ越してきてから6年目だったが、それまで地元で気に入った食べ物をいろいろと食べ歩いた。そうやって、ある時期にやたらとグルメをしてしまったのだが、もう30代半ばの頃、筋肉が落ち、つまり代謝が落ちていた時期だから、たちまち腹に脂肪が着いてウエストがきつくてたまらない状態になってしまった。そして、その年の秋にダンベルダイエットが流行っているのを知り、本を買って読み、自分でもダンベルを買ってエクササイズをやり始めたのだった。

この時期の地元での食べ歩きで養老乃瀧へ2度来た。その前に来てから、およそ3年半余りぶりだった。2度来たのは、気に入っていたメニューを一度では食べきれないからだ。

ところが、その1度目のとき、養老乃瀧を出て駅とは反対側(つまり家の方)へ歩き始めると、となりのオンドリの窓のところにマスターが立っているのが目に入った。おそらくその日は、お客さんが少なくてみんな帰ってしまったあとで、誰か来ないかと思って外を見ていたのだろう。こちらがとなりの店から出てきたときに出くわすとは、なんとも気まずい。本当に「こんなときに限って」ということは、往々にして起こるものだ。それで、オンドリからは目をそらし、まっすぐ前を見て、駅から歩いてきたように急ぎ足で通り過ぎた。でも、人間の感覚はけっこう鋭いから、オンドリのマスターには養老乃瀧から出てきたのは分かっただろうと思う。

2度目に養老乃瀧へ行ったときも、出てきたらオンドリのマスターが窓のところにいたような記憶があるが、そんな偶然が続けて起こるとも思えない。おそらく、1度目の気まずさでそんな記憶が頭のなかに出来上がったのだろう。ようく記憶をたどって見ると、2度目はオンドリのマスターが窓のところにいてもいいように、ただまっすぐ前を向き、オンドリのほうへ視線を向けずに通り過ぎた。視野の端のほうでマスターの姿を見たということはなかったと思う。

これは、昨日、養老乃瀧を出たあとに写したオンドリの写真。

こんなふうに道路側に窓がある造りになったのは、1993年に店のスペースを2店舗分に広げる大改装をしてからだった。それまでは、養老乃瀧に接した側の1店舗分のスペースしかなかった。
これも昨日写した養老乃瀧。改装前のオンドリも道路側は似たような造りで、入口にガラス窓の引き戸があるだけだった。

だから、引っ越してきて最初の1,2年ぐらいにオンドリと養老乃瀧の両方へ半々ぐらいの割合で行っていたころは、養老乃瀧を出てきたらオンドリの窓のところにマスターがいるというようなことは起こりえなかったのだ。

1990年代後半になると、養老乃瀧もいつもカウンターがぎっしりというわけではなくなってきたようだ。外から見るとそうだった。でも、養老乃瀧から出てきてオンドリの窓のところにマスターがいたときの気まずさが相当に効いて、再び養老乃瀧へは足を運ばなくなった。なので、1999年に行徳雑学館を作ったとき、オンドリはすっかり応援団になっていたからお気に入りの店として載せたが、養老乃瀧は対象外だった。

そして、1995年に最後に行ったときから早いもので16年。久しぶりに養老乃瀧へ行ってみようという気持ちになってきた。でも、オンドリが閉店してすぐに行く気にはならなかった。ずっと通っていた店が閉店したからといって、16年もご無沙汰したとなりの店にいきなり行ってしまうのは節操がないと思うからでもある。だが、それだけではなく、オンドリや養老乃瀧があるところの交差点を通るのを避けてしまうようになった。オンドリは現在もだが、閉店したときのままの状態。それが、22年余り通った店の亡骸を見るようで辛いというがあったからだ。閉店から1ヶ月のときには、写真を撮って、区切りということでこの日記にもオンドリのことを書いたが、その時期も含めてオンドリのところを通るのを避けることが多くなっていた。何週間も通らないというような極端なことはないが、1週間のうちでも割合が減った。他の道を通ったり、南行徳公園の中を通ることが多くなった。

そうした気持ちも時間が経つと徐々に落ち着いてくるもので、ここ2週間か3週間ぐらいは、閉店したときのままのオンドリを見ることにも慣れてきた。となりの養老乃瀧が、今は空いているかぎっしりと混んでいるか気になるようにもなってきた。混んでいることはないが、そこそこお客さんは入っているようすだった。一人ぐらい入ってカウンターに座るぐらいの余裕はありそうなので、長いことご無沙汰した店に行ってみようという気になってきた。

オンドリは賃貸の店舗ではなく、マスターの持ち物ということだった。2店舗分のスペースがあるから、今のご時世では買い取って、あるいは借りて店をやろうという人はそうそういないだろう。しかも駅からちょっと離れた場所。1店舗分ずつに再改装しようにもかなりのお金がかかりそうだ。不動産業者が買い取ったとしても、それは同じ。だから、まだしばらくはオンドリの跡はそのままになるのではないかと思う。オンドリを挟んで養老乃瀧の反対側になる七福は、店主が病気とかでここ数ヶ月休んでいる。だからこの一角は寂しい状況になっている。七福も再開し、難しいのかもしれないが、オンドリの跡にも新しい店ができて、また賑わって欲しいと思う。