空に問う。

空が落ちる日まで。

きょうもまたしななかった

2017-08-10 16:03:41 | 日記
ここらで書くのを辞めたら、死んだと思われるかな。無気力な自分を糺すために書いてるようで、逆に思いに圧倒されてる。

坊主にすると精神的な死を迎えることが出来るというので去年一度坊主にしたことがあった。でも坊さんになるわけじゃないから何も変化もなかったけど・・・。

売れないか、安く叩かれるようなものしかないね、開運グッズ。

ああ貯金すれば良かった。

なんか・・・引き寄せてる感を感じる。

北は愛媛を外したけど、本当は「山口県上空」をとするべきなんじゃないのかなぁ・・・岩国あるし。

広島県にすることで原爆体験を匂わせてる気がするけど、そこらへんはとても工夫されていて日本ナイズな感覚がする。まるで日本人が描いたようなシナリオだ。

日本でも「島根県」がどこにあるのか分からない人が多いのに、あえて有名な「山口県」を名指ししない違和感。意図的に、山口県ー米軍岩国基地ー安倍総理の地盤を避けてるねぇ笑。安倍内閣を連想させないように工夫されてる。正恩委員長は安倍さんに忖度してるみたいだぞ。

前回は”あえて”安倍総理、菅官房長官、稲田防衛大臣と名指しすることで、この三方の重要性を高めたけど、今回はなんとなく政権批判を避けている。島根県沖と高知県沖が米軍岩国基地の練習空域に新たに決定されたことをまるで皮肉る内容みたいだ。

出雲空港は自衛隊と併用してる民間空港だけど、石見空港はどうだろうか。有事になると米軍の基地にされてしまうそうな嫌な気配がする・・・。なんせ島根県と名指しされ、空域もあるわけだし、事後承諾の言い訳にしやすい環境を”あえて”北朝鮮が与えてくれている。石見空港は煩雑な空港でもないし、閉鎖しても混乱は少ない・・・。

当然、岩国基地に空軍の部隊が配置転換されることは承知しているのに、何故に緊迫感を煽るために「山口県」を加えなかったんだろう。これって米韓共同軍事演習の停止を求めてる北朝鮮として”異例”なのではないか。北の動向に合わせるかのように岩国基地に配置転換された部隊。普通ならここも「停止」対象になるはずじゃないのかなぁ???

だからてんで的違いなことをやってる風にしか見えない。日本人しか分かりようがないご都合主義を北朝鮮は理解しているんだろうか・・・・。それともあえて今回の警告には米軍基地を含まないとした配慮なのか。このヤラセ感・・・おいらが感じてるモノと似てる気がする。

だからなんとなく北朝鮮と共同戦線を張ってる風にも見えてしまう。安倍さんには北との太いパイプがあるようだしね。

まあPAC3も配備されてないわけだし、いわば国防の空白地をICBMが通過するということなのだ。

今のアメリカ政府の呼びかけに応じたりしない。どうせミサイルは発射されるのだから、あとは誤爆で落ちないこと、また迎撃した際に破片が落ちないことを祈るばかりだ。

この声明が出されるまでじゃんじゃん飛んでた米軍機が今はいない・・・。この静けさは怖いと思う。

ミクロがマクロに影響したり、その逆もあるわけだから、国の影響が地方に出るのは致し方ない。ただこれで完全に雛形が壊れるのも一興だけど、そうなるとおそらく数百人の人命は奪われるかな?しかしこうやって壊れるしか方法がないのかも知れない。

早々に奇跡が終焉することを望んでいたけど、それはたぶん総理に忖度した人為的な施策の一つなのだろう。安倍さんの外交の失敗の尻拭いになるのは嫌だけど、それを選択したのもまた少数派の強い意見だからしょうがない。そんなことでおいらの憂さが一層されることはない。数名の不幸はかつて望んだけど、多くの人命の危機を望んだりはしなかったんだし。

ミクロがマクロに影響していた霊的な乱れが、今度は閉じる勢いを借りて、マクロがミクロに干渉し影響を及ぼす。

報道で、アメリカが攻撃すれば地球上の地図から平壌はあっという間に消えるなんて表現もあるけど、その地図にある平壌にはたくさんの人間が暮らしていることを忘れてはいけない。なんとなく当然の報復だと思ってる国民の数が多そうで、つい萎れてしまいそうになる・・・・。

今夜も合同庁舎は24時間の警戒態勢に入るんだろうなァ・・・。北の技術力や精度を疑うわけではないが、その一発でも失敗したら通過空域の真下にある各県の県民は単に怖い思いをしてしまう。

小野寺防衛大臣が中韓に配慮して靖国参拝を見送るとしてことにネトウヨが一斉に攻撃を開始してるけど、英霊に祈念するのであればどんな場所でも出来るのが日本の慰霊と云うことではないのかなぁ?こんな急時の時に逆に配慮できない大臣の方が怖いと思うけど・・・・。

英霊と云うか、この国のために戦死された方々に感謝もするし、冥福も祈るけど心無くして参るような軽薄な参拝なら誰にだって出来る。行動に真意を求めてしまいがちだけど、心からの感謝は必ずしも参拝という形式を取らなくてもいいんじゃないのかなぁ?血気盛んなネトウヨさんらも戦争を知らない子供でしょうに。

A級戦犯が合祀される前は比較的多くの政治家は靖国神社に公式訪問してる。A級戦犯を合祀することが問題になったのは中韓ではなく日本の内政問題からなんだよね。

戦死の定義は様々あるけれど、靖国で合祀されている英霊は”戦場で亡くなった方々”を慰霊する目的で存在してる。A級戦犯は政治犯として裁判にかけられて亡くなっているから正確には合祀する「戦死」の条件を満たしていないんだよね。A級戦犯を合祀することは政治家や思想家には大切な事かも知れないが、一般国民からすればそれほど重要なことではなかったはず。

死刑後の遺体は荼毘にふされたあとも、その遺骨に神格化がなされないように徹底して消滅されたとある。だがその灰になった一部を持ち帰り、ちゃんと仏式で供養をされていた方がいる。国民を戦争に駆り立てた罰とか、その当時のことをまるで知らないからあえて言葉にしたくはないけど、確かに「玉砕」という死に方を強要した責任は当時の政府にあったと思う。たぶん合祀する方もされる方も望まないことだったんではないんだろうか。

ちゃんと仏さまとして供養されていたのだから、それはそれで戦後に入って合祀という形態をとらなくても良かったんだと思うけどなァ。英霊だけの慰霊であれば誰も文句は付けられないし、まずは日本国内で起こった議論とジレンマを中韓に巧みに利用されたということではあるが、気持ちがあるならあるなら参拝代行をお願いできるわけだし、その代行ですら公表してしまう、その方が罪作りなのではないかと思う。

だって防衛大臣が靖国神社を参拝することで英霊さんらが本当に安らぎを覚えてくれることを実際に知っている人がいるんだろうか。すでに形骸化されていることに固執して資格を問うのは辞めた方がいいと思う。それこそ戦後レジュームからの脱却を訴えるのであれば、慰霊の仕方も脱却していいんではないんだろうか。英霊信仰は比較的若い神道の形態であって、明治時代に神道で行われた祭祀ではない。これをもし日本の伝統というのであれば伝統になる時間が短すぎる。

日本人は歴史を語るときに、往時の宗教観を無視する帰来がある。だから上手く説明できないことがある。戦国時代の状況を意外と正確に記しているのはキリスト教の宣教師の日記や残された書簡である。しかし正攻法とされる歴史検証にどんな宗教観もあまり反映されていない。勝者の書き残した文献がすべてを語るはずはない。勝者はどうしても事実を装飾してしまうという性格を持っている。

英霊信仰に似てる古来からの信仰形態があるとしたら、それは怨霊信仰である。祟るモノを祀れば転じて福を成す存在となる考え方である。そいなると戦死した方々は一度国を祟らないといけなくなる。祟らないと天皇や為政者以外の人間は「神」や「霊性」になることはないのである。こうした神道の仕組みの一つを知ってるからこそ、英霊がとても悲しい存在に思えてしまうんだ。お国ためにという前提を取り除いたら、きっと戦死した方々は家族を守るために貴い命を犠にされ戦われたのだと思う。

だから安らかな永眠を祈るのであれば、おいら的には仏教形式の方が慰霊に相応しいと思えてしまう。死しても尚、国を守る使命を与えられているとしたら、戦死された方々が浮かばれない気持ちになる。宗教儀礼の一つとしてサラッと語れるほどに簡単な問題ではないんだと思う。亡くなった方の氏名の下に「命」と記してしまうと、いくら便宜上は神と違う性格であるとしても、神道的には神さまの一柱になってしまう。国家安泰な国の安寧を祈願すれば、それはすなわち英霊を神として国家守護を祈念するのと同じになってしまう。神になれば神には寿命がないし、魂が転生することはない。

出来るなら生まれ変わって太平の世を満喫して欲しいと思うんだ。しかし神である以上はもう生まれ変わることも出来ない。それは現在日本人にとって悲しいことではないんだろうか・・・。

だから宗教的な制約のない国立の慰霊施設があれば英霊もA級戦犯の方々も慰霊が出来るのではないのかなぁ?靖国神社は陸軍と海軍が運営した政府の慰霊施設ではあったが、今もその当時の英霊信仰の形態をとっていいのかはおいらには分からない。ただ個人的には英霊さんが可哀想で靖国神社にも護国神社にもお詣りが出来ない。

おいらの身内にも英霊さんが二人いるが、浄土宗の菩提寺で供養されている。おいらは両手を合わせて祈るしか出来ないけど、慰霊には様々な形があるのだし、日本の政治家ならば靖国神社を参拝すべきと主張する意見においらは宗教的アプローチから賛同できない。

そしてその参詣を日本古来から有してきた慣習と捉えることも出来ない。神社神道は明治維新と同じだけの歴史しかないことをおいらは知っているからだ。ちゃんとそういう背景を知っていて、小野寺さんが参詣しないことにネトウヨさんらは騒いでいるんだろうか・・・。

それでは”占領下の押し付けられた憲法”だからという理由で日本国憲法のすべてを否定することと同じじゃないんだろうか。日本国憲法と同じようにまさに歩んできた宗教観こ戦後に端を発する現在の神社神道であると思うんだ。

おいらが言いたいのは一度神格化してしまったことは取り消せないから靖国神社は神社神道の範疇で慰霊をかかさずに行って欲しいと思ってる。だけど靖国神社に参らないことを日本人として恥だとか、愛国心が足りないとか、極右の思想とごちゃまぜにして正当性を主張するのだけは少し弱めて欲しいと思う。そして朝敵や逆賊とされた方々を戦前に合祀しなかったのだから、それを古来から当たり前にあるような風で、合祀するのも辞めて欲しいと思う。みなさん一様に心ある方々に別の形で供養されているのに、神になぞられる重要性はないと思うからである。人間をまず祟るモノにしないでほしい。

それでもきっとおいらの意見は否定されるんだと思う。心無い人間と蔑まれるんだと思う。

でも慰霊そのものは正しいと思う。しかしそれを咎めることが出来るのは現代人ではなく、英霊だけだと思うので、外野は引っ込んでいた方がいいと思うんだ。英霊さんが時の防衛大臣に参拝を求めてるなんてことを立証は出来ない。ただ祈念の形はたくさんあるのだから、そういう行動を防衛大臣のたしなみと考え論じることは話が違うように思うんだ。


昔は「戦争に行った」くらいでも何も分からない若造とやじられる始末だった。

ましてやおいらたちは戦争を知らない子供たちなのだ。

だから代弁は出来ない。ただそうなんじゃないかと己の宗教観に沿って考えてしまうだけ。例えば議員の中にはクリスチャンもいる。神社は偶像崇拝に当たるから本来は参拝してはいけないと教義的に引っかかる。それでも形式的にこの国の大臣に参拝する最低限の義務があるとしても、宗教的に意に添わない宗教儀礼ゆえに拒否することも出来る。

もしそういう人でも参拝することで愛国者としての証明になるのなら、それはキリシタン禁制の頃に踏み絵を踏んだクリスチャンと同じことになる。

だから闇雲にお詣りすればいいという問題ではないと思うんだ。踏み絵を踏んで罪を逃れた人も、踏み絵を踏まずに殉死した信仰者もいる。どちらが正しいとか、そういう善悪を用いた言葉では議論が出来ない問題がある。

ただ靖国参拝を政治家の資質を問う現代の踏み絵にしてはいけないと思うんだ。思想信条を常に掲げて生きてるような人は大勢はいない。安倍さんも政治的に相応しくない場面では思想信条を隠してる。隠さずに開けっ広げにすることや中韓が遺憾を表明するのが分かっていて大臣に靖国参拝を強要するのは、たんに自身の憂さを晴らす行為でしかないような気がするんだ。

それでは英霊の立場がない気がして、なんだか気の毒に思ってしまう。

何事も本当は偏ってしまう考え方の方が楽に生きていける。公平さを世の中や自分自身に求める生き方はとても窮屈で遣る瀬無い。右傾化する社会が怖いと思ってる。公平さや正しさを追求したら、おいらの方が絶対に社会とズレているからだ。だから自分の思想信条が正しいと思えたことなどない。いつも迷っていていつも瀬戸際に立っている。

おいらは出来るならば生き易いように偏りたかった。一方的で狭い道をずかずかと歩き続けたかった。でもそんな理想は砕けてしまった・・・。おいらは自分でかけてしまった呪いやマインドコントロールを自力で解こうとしてる。世の中は不公平で常に不条理だ。そういう概念の犠牲者であるようにおいらは強く思ってしまい自分を歪めてしまった。今のおいらにはパーパスはない。自分の弱さと闘うと言いながらちゃんと計算もしてる。

物質や物事の背景に「何かしら」の臨在感を求めずに生きるのはおいらにとってとても苦痛な事である。いくら神仏がおいらを罰したとしても仮に救済したとしても、己のあり様に何ら変革を齎さないのであれば、そんな主義主張は何の意味も持たないただの戯言になる。だからと言って死ぬ勇気も無くなってしまった。死に気になれば何でもできると自分を奮い立たせるほどの余裕もない。おいらなど人間の屑だし、神仏を語る資格もない。

神罰があるのなら罰として殺されたかったけど、そういう人の思惑や都合のいい解釈で神仏は決して罰など与えないことも知っている。

偏りが激しいと云うことは信心に篤いと云うことでもある。

おいらは「何」を失くしてしまったのか・・・たぶん失ったモノが分からずにいる。だから社会や他の存在が失くしてしまったモノが視えるのかも知れない。物事を観察せずにありのままで見つめること、それがおいらには出来ない。

たぶん書いてることは遺書みたいな気持ちだと思う・・・。

せめてもう一度光の中に立って、せめて死ぬ気で何かを成せるようにならないとこの道は打破できない。掴めそうな気もするし、すでに掴んでいるのかも知れないが、ここらがおいらの限界なのかの知れない。

そう思うと偏れない自分が少し悲しいと思う。





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