ドアベルの音がして振り返ったとき、乃木誠は思わず息をのんだ。全身ずぶ濡れの少年が、小さな子犬を抱えて立っていたからだ。なによりも驚いたのは、まだあどけなさが残る少年の顔だった。都会の片隅で小さなゲイバーを開いて十数年、大勢の人間を見てきたが、これほどまでに魅力的な顔をした者がいただろうか。芸能界、スポーツ界の著名人は何度も店に訪れた。その中には、目を見張るほどの美男美女も確かにいた。しかし、世間でどんなに騒がれた美男子でさえ、この少年の美しさには到底敵わないだろう。
「あの……こいつ、外で震えてて、たぶん捨てられたんだと思うんですけど……」
しばし放心していた乃木は、少年の声で我に返った。
「君、お客さんじゃないよね?」
「はい」
「とりあえず、どこかで着替えでもしないと風邪ひくよ。びしょ濡れじゃない。そっちのワンコも」
そう言ってから、店に着替えなどないことに気づいた。乃木は戸棚からフェイスタオルを二枚取り出して少年に渡した。
「君、どこの子?」
「家はありません」
一瞬意味を理解できず、「どこから来たの?」と改めたが、少年はそれには答えず、黙々と子犬をタオルで拭いている。
「ここ、どういう店だかわかってる?」
「新宿二丁目だし、ゲイバーですよね」
「君はゲイなの?」
「よくわかりません」
乃木はフェイスタオルをもう一枚出して少年に差し出した。さっきから犬ばかり拭いてやって、少年の体は濡れたままだった。暖房をつけているとはいえ、冷たい雨が染みて寒いに違いない。
「近所のコンビニで下着の替え買ってきてあげるから、ちょっと待ってて」
少年は微かに笑みを浮かべ、ありがとうございますと言った。
乃木は念のために金庫に鍵が掛かっていることを確認して店を出た。
***
コンビニで下着を買い、乃木は一旦自宅へ戻ると、自分の服を適当に見繕ってバッグに詰めた。自宅から店まで徒歩10分。往復しても開店時間までには十分間に合う。それにしても――乃木は少年の顔を思い出して、いささか夢でも見ているような気分になった。突然の出来事に狼狽しているだけかもしれないが、ただ率直に、あんな綺麗な顔をした子が、この世の中にいることに驚いていた。
店に戻ると、少年がティッシュで床を拭いていた。どうやらワンコが小便をしたらしい。
「いいよ。片づけはやっとくから、早くこれに着替えな」
持ってきた着替えを渡すと、少年は乃木の目の前で服を脱ぎ始めた。
「えっ? ちょっと――そこで着替えるの?」
「ダメですか?」
「まぁ……いいよ。見ないから」
見ないからって、なにを言ってるんだ俺は。乃木は年甲斐もなく頬を赤くしている
自分を恥じながらも、沸々と湧き起こる好奇心と闘っていた。この美少年は、いったいどんな体をしているんだろう。視界の隅ではほぼ全裸になっているのがわかった。あと少し顔をあげれば――思ってはみたが、下卑た中年男に成り下がっている自分を想像すると、やはりできなかった。乃木はなるべく少年を見ないように片づけをすませると、彼のために温かいココアを作った。
***
「君、名前はなんて言うの?」
カウンターの椅子に腰かけた少年の腕に抱かれ、ワンコがおつまみ用のスナック菓子を食べている。
「渚です」
「なぎさ? それって名字?」
「下の名前です」
「へぇー。いい名前だね。年はいくつなの?」
「十七歳です」
「若いねえ。高校生?」
「高校へは行ってません」
「そうなんだ」
まずいことを訊いたかな、と思い、咄嗟に話題を切り替えようとしたが、口が滑ってさっきと同じ質問をしてしまった。
「で、どこから来たの?」
やはり答えたくないのか、渚は俯いてワンコの頭を撫でた。
「そっか。人それぞれ事情があるもんね。言いたくないならいいよ。それより、もうすぐお店開けないといけないんだけど――」
「あの……こいつ、飼ってくれませんか?」
「え? そのワンコ?」
「はい。どこにも行くところがないし、こんな寒い日に外に放したら死んじゃうかもしれないし……」
乃木は渚の腕の中で丸くなっている子犬を眺めた。雑種に違いないが、日本犬の血が入っているのか、愛くるしい顔をしている。飼えるものなら飼ってやりたいが、住んでいるアパートはペット禁止だった。それに、こういう仕事をしていると毎日散歩に連れて行く自信もない。
「悪いけど、それはできないかな」
「どうしても……ダメですか?」
「ごめんね。うちのアパート、ペット禁止なんだ」
「そうですか……。あの、どうもありがとうございました。服は今度洗って返しにきます。それじゃ」
ワンコを抱いたまま店を出ようとする渚に、乃木は慌てて傘を持たせた。小降りになったとはいえ、今日は一日雨だと天気予報で言っていた。
「風邪ひかないように。気をつけて」
このまま帰してしまっていいんだろうか。何となく後ろ髪をひかれる思いだったが、引き留める理由も見当たらなかった。
渚は小さく会釈して、店を後にした。
***
天気のせいか、客足は伸びなかった。
渚はあの後、犬を抱えたままどうしたんだろう。そんなことを考えながら時間は過ぎ、午後十一時になると数名の常連客がやってきた。
「マコママー! そっこうで水割りちょうだい!」
元気がいいのは「シャイン」という名の若いオネエだ。
「あんたねえ、こんな狭い店でそんな大声出さなくても聞こえるわよ」
「ひゃだぁ! 酔ってるみたい! あたし! すでに!」
「もぅ、どんだけ倒置法よ、あんた」
シャインは出したばかりの水割りを一気に飲み干すと、
「それよりママ、さっき三丁目の辺りで物凄い美少年みかけたんだけど、あれ何だったのかしら?」
「美少年?」
「そう。もうびっくりするくらい綺麗な顔してるんだけど――ああ、あたしの美貌には劣るわよ。当然」
「そういうのいいから、その子がどうしたのよ?」
「はー! ノリ悪っ。その子がね、野良犬みたいな子犬をこう腕に抱いて、道行く人に声かけてんのよ。この犬飼ってくれませんかって。新手のポン引きか引っかけ詐欺かと思ったわよあたし」
「その子って、黒のダウンジャケットとチノパン穿いてた?」
「そうそう! ママも見たの?」
間違いない。自分が渚に貸した服だ。あの子、こんな時間までずっとそうしてワンコの飼い主を探してたんだろうか。
「あれは上物になるね。間違いない。髪が長いのはいただけないけど、短髪にしたらとんでもないイケメンになるわよ。あんなのがこっちの世界に足を踏み入れたら嵐が巻き起こるでしょうねえ。ストームよ、ストーム! 次世代の絶世美男子現る! なんつって、ボディやGマンの表紙を飾るのよ。絶対スターになるわ。って、ママ? ちょっとあんた、人の話聞いてる?」
「あぁ、ごめん。聞いてる。っていうか、今日はお客さんほとんどこないから、早目に店閉めるけどいい?」
「はぁ!? 来たばっかりなんですがうちらー!」
「割引料金にしとくから許して。ね、シャイン? あら、あんた今日すごい美人よ。どうしたの? 綺麗すぎて眩しいわ。眩しすぎて眼球潰れそ~」
「マコママどんだけー!」
乃木は店の片づけを手早く終わらせると三丁目に向かった。粗方の通りを探してみたが、渚はどこにもいなかった。すでに深夜の一時になっていた。さすがにこんな時間まで犬を抱えて、寒空の下立ち尽くすのは無理だろう。今日一日、渚が店に現れてから消えるまでの出来事に、現実感がまるでなかった。夢だったらそれはそれで面白い。だけど、夢じゃない。シャインもあの子を見たのだ。唯一の望みは、彼が貸した服を返しにくると言っていたことだ。そう考えたとき、乃木は自分が渚にもう一度会いたいと望んでいることに気がついた。そして、それはほんの数分後に現実のこととなった。
「あ!」
乃木のアパートの前に、ワンコを抱えた渚が座り込んでいたのだ。
「何やってんの!? こんなところで」
渚は乃木を見て小さく微笑んだが、そのまま目を閉じて顔を伏せてしまった。よく見ると全身が小刻みに震えている。慌てて駆け寄って額に手を当てると熱があった。それもかなり高熱のようだ。
「大丈夫!? ちょっと!」
乃木は渚の脇に頭を入れて立ち上がらせると、抱きかかえるようにして自分の部屋へ運んだ。その横をワンコが嬉しそうに尻尾を振ってついてくる。
「おいワンコ、吠えたら承知しないぞ。ここ、ペット禁止なんだから」
ワンコは乃木の言葉に返事をするように元気よく「ワン!」と一吠えした。
「もう!」
シャイン。振り返るとあの子には優れた先見の明があったのかもしれない。あの日、初めて渚を見たシャインは、渚がゲイ雑誌の表紙を飾り、次世代のスターになると冗談まじりに話していた。事実、渚はシャインの言った通りになった。あの日からわずか三年で、国境を超え、ゲイの世界では知らない者がいないほどの大スターになったのだから。
渚と小さなワンコ、二人と一匹で暮らした二年の日々を、思い出が色あせないうちにここに書き記しておこうと思う。
第二話に続く。