トロメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。

音楽家白石准の、現在や過去の飼い猫、近所の動物たちとのふれあい。タイトルは“セロ弾きのゴーシュ”に出てくる猫の台詞。

しょくとの出会い、猫の散歩

2006年02月26日 14時04分35秒 | しょく@♀87年生,白(今は居ない)
今から数十年前、1970年代後半からほぼ10年間の僕は、東京は町田市の小田急線の鶴川駅から歩いて、徒歩20分弱の小高い丘の途中にある若葉荘という、今じゃ絶対にはやらない名前の木造アパートに住んでいた。

そこは学生の頃から住んでいた場所で、駅から歩いて来ると、小川を渡り、
(ちょうど初夏の季節は蛙の合唱に迎えられながら)
たんぼのあぜ道を通り、見回すと茅葺きの家が見えたり、隣が神社、その奧が養鶏場と、まあ東京都だとはだれも信じてくれないような場所に建っていた。

アパートのトイレは汲み取り式、庭もとても広く、シソ、ミニトマトなどの野菜やグラジオラス、おしろいばな、チュウリップ、リンドウ、ホウセンカなどの花を育てていた。

というより種や球根を買ってきては、やみくもにばらまいていたと言った方が良い。
大根の種を斜面に撒き散らし、大根は採れなかったが菜っ葉をみそ汁に入れて食ったものだ。
ある秋の夜には近所からきたうさぎが月の光を浴びて銀色に光りながらそれを食っているのに出くわしたときは、猫と一緒に見とれたものだ(爆)
前の家も広い庭と道路をへだてていたし、となりの神社は神主さんが住んでいる様なものではなく、いつもは無人で、それはピアノの練習をするとき、気にするのはアパートの住民だけだったので、実に気が楽だった。

お祭りになると地元の人たちが本当に笛と太鼓でお囃子をやって祝う。

スピーカーから出るお囃子ではなく、生で聴こえてくるお囃子は駅から帰る途中かなり遠くから聴こえたものだ。
それはとても心地よく、部屋に帰っても騒音と感じたことはなかった。

初夏には境内の林の中の斜面に白百合が一斉に咲いた。

花にあまり興味がなかった俺も、林の中の薄暗い中に映えるその百合の美しさにしばし見とれたものだ。

しかし年を追うごとに、心ない奴らが、それを家に持って帰ろうと掘り返され、そのうち見なくなってしまった。
そういうやつらに、こころから憎しみをおぼえた。

そうなのだ。なんでもきれいな花は、それが咲きたいところで咲かせるのがいちばんだ。
それを見たきゃ、そこに出かけるべきだ。
山野草を家で自分だけのものにしてみるなんざ、自分勝手も良いところだ。遠山の金さんに成敗して貰いたい!

そのアパートは一時テロリストも住んでいて刑事が張り込みに来たこともあったし(これ本当)、アパートの端は竹薮で、幽霊もでたり(これも本当)、その証拠に各部屋には「御祓いの札」が鴨居においてあった、実に退屈しない(?)住処だった。

春先には庭の一角に、山吹の黄色、桃の木の濃いピンク、赤い梅、と薔薇の植え込みがあり、その色彩は実にあざやかだった。そばにもはなみずきの植わった道があり、その季節が来るのを毎年楽しみにしていた。

裏が竹薮なので蚊もひどかった反面、初夏にはよく竹の子を掘って
(そのおかげで今は竹の子をあまり買って食うものに思えなくなったし、はっきり言ってその時でタケノコには飽きた)
食ったり、大家が大工さんだったので、庭に解体した家の、木材の廃材を運んでくることがあり、それを燃料にバーベキューというか、キャンプファイヤーもどきのことをしたりして、
(火が電線より上に上がったことがあった!よく消防車が来なかったものだ。)
自分も火に当たりながら飲んだビールが初めて美味しいと思ったし、周りは自然が一杯だし猫にとっても人間にとっても、東京都とは思えないすばらしいロケーションであった。

ある日はじめて伴奏合わせにきた人(こう見えても僕はピアノ弾き)が、駅からこの若葉荘までの道のりを歩いていた瞬間、ベートーヴェンが遺書を書いたと言われる「ハイリゲンシュタット」の別荘に似ている!と言い出した。(爆)

彼によれば、「隣の神社がチャペルで、たんぼが畑だったらロケーションは共通している」と興奮している。
僕は行ったことがないので、なぜそんなに興奮するか理解できなかったが、なんか妙に誉められているような気がして、悪い気はしなかった。

しかし、ベートーヴェンと木造の二間の若葉荘と汲み取り式の便所がどうも結びつかなかった。
でもベートーヴェンの家は水洗便所だったのか一瞬考えてみたがそれがどうしたというのだ。

そのとき彼はベートーベンの歌曲を合わせに来ていて、きっと歩きながら彼の頭の中にはベートーヴェンの音楽が鳴り響き、季候もいい時期だったから、そこが日本であることを失念していたのかも知れない。



maru_cat今日の主役の白猫のしょくという名前は、1987年の9月にあった、日食にちなんでる。(脚注1としてこれに関連した別記事があります)

その日食は、太陽に対する地球の影が少し小さく影のまわりに太陽のリングが見える、いわゆる“金環食”であった。

その前日、すでに一緒に住んでいた二匹の親子の猫と裏山の雑木林を散歩していた。

え?!猫の散歩? (脚注2参照のこと)
母が、ちょう@本名:張念天、全身ひげや唇や足の裏の肉球まで真っ黒の美人マダムと、

息子のさだ@いわゆるタキシード猫というか、黒猫だが、鼻やほっぺたのまわりからおなかの側の下半身まで白くて、足の先が白靴下を履いている様なツートンカラーの奴
(そのうちその猫たちの写真を投稿しようと思うので今は文章だけ)

ちょうとさだと雑木林に入り込んでまもなく、子猫の泣き叫ぶ声が聞こえ、探してみると生まれたばかりのまだ眼のあいていない三匹の猫が草むらに放り出されているのが見えた。
sanpo(この猫の散歩の写真のちょうど左側が彼らが捨てられていた場所なのです。これはちょうとさだではなく、きんとしょくだけど。)

三匹ともデザインの違う模様で、
一匹は、いわゆる白猫で尻尾は茶色と白の縞で、背中や額に茶色の部分がある日本猫の典型の斑猫というやつ、

もう一匹は雉猫というやつで、焦げ茶に黒い縞が全身にある奴。

そして最後がほとんど全身白くて、不思議なことに尻尾が茶色と黒の縞、肛門のまわりはなぜか真っ黒の毛が密集している、そしてこの子だけ毛が長い。

この子がしょくなのだが、無論顔つきや状況を考えればみんな兄妹だ。
まだ生まれて数日とみた。

一緒にいた二匹の猫は最初は子猫たちに興味を示したが、俺がしゃがみ込んで、どうしようか悩んでいる姿を見て、
わざと先に進んで俺を振り返りながら、
「こんなのにかかわると、面倒くさいことになるから、はやく散歩の続きをしよう!」
と眼で訴えていた。

実際、また拾って帰るとたいへんなことになるから、見なかったことにしようと頭では思っていたが、気がつくと三匹とも手のひらに持って家に戻り始めていた。

二匹の猫も渋々ついてきた。
結果的に家族が増えてしまったわけだ。

そして、名前をどうしようか考えていて、日が変わったら、テレビで日食のことを騒いでいた。

その日は休日だったか、妙にアパートの住人が結構在宅していて、みんな庭に出てサングラスや黒い下敷きで太陽をみてはしゃいでいた。
本当はこのやり方はいけないそうですね。でもまだ目はつぶれていない。

そして、ひらめいた。

そうだ、「きん」と「かん」と「しょく」にしよう!。

正式名は、以下の通り、しかし正式名で呼んだことは一度もない。
  • 長男(勝手に決めた)「きんぞう」(白と茶の斑)
  • 長女(勝手に決めた)「かんぞう」(雉猫)
  • 次女(勝手に決めた)「しょくどう」(長毛の白猫with尻尾が三毛)

これがしょくの名前の由来です。

持って帰ってからは、大変だった。
なにせ、眼も開いていない状態だから、猫の粉ミルクと哺乳壜と寝かせるバスケットを買ってきて、自分には子供もいないのに毎日哺乳壜を使っている間にけっこう上手くなった。

毎日飲む量が確実に増えるものだ。

しかし「しょく」だけは授乳の後、乳糖をうまくおなかが分解できないらしく、おなかが10数分ごろごろ(甘えたときでるやつじゃないよ)いって、こいつはすぐ死ぬな。と思ってた。

下の世話も大変だった。
ときどき濡れた綿棒で肛門を突っついては刺激を与え、うんこをさせて、かつふき取らないと固まって大変だった。
猫の親の労働も結構大変だと思う。

それに関しては前からいる、黒猫の「ちょう」に習った。
彼女はアパートで「さだ」をはじめ、五匹の猫(全部白黒のソックス猫)を生んで育てたのだが、そのころの彼女の振る舞いを思い出しながらやった。

よく、動物の美談で、犬が子猫を育てたり、逆のこともあるので、期待してみたが、ちょうも、さだも、子猫には無関心だった。ちぇっ。

その後、この兄妹達はかんちゃんだけアパートの別室の住民に飼われていたが、大人になって家出をしました。
きんちゃんは、その後に家族になった「すい」ちゃん@♂と折り合いが悪くやっぱり家出をしてしまいましたので、この三匹の中ではしょくだけが最後まで一緒に僕と暮らすことになりました。


愛されて一緒に暮らしていたしょくですが、2002/3/25午前11頃、腎不全による尿毒症にて14年半の生涯を終えました。

この日は自分の主催するコンサートの当日でそれはそれは、精神的ダメージがすごかったです。

そして今では、この猫との出会いの舞台となった若葉荘も写真にある神社の裏山も区画整理のために消失してしまいました。

猫たちといっしょに樹に登ったり、雪が降った翌日、真っ青な空の下で真っ白な雪の中を平気で突き進む写真を何で撮らなかったかすごく後悔しています。

もうすべて今となっては想い出の中にのみ存在する風景です。

まるで宮沢賢治の“どんぐりと山猫”の一郎が訪れた山の中の想い出のように。

そうだ、さすがに「笛吹の滝」はなかったけど、二匹で歩いている写真の右側は「栗の木」だったし、「きのこ」はあちこちにあったし、「りす」はいなかったけど、いてもおかしくなかったし、「どんぐり」も落ちていたし、“どんぐりと山猫”を書く前に、猫たちと疑似体験をしていたのかもしれません。

小高い小さな山の中で拾ったんだから「山猫」なのかもしれません。(爆)


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3 Comments

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昭和の~ (catwoman)
2006-02-26 19:26:49
白石さんがおいくつなのか分かりませんが、この風景は昭和の風景のように思いました。また、テロリスト(多分あの頃の2大左翼学生活動団体かしら・・)なんかがいたなんて、懐かしい気も・・。

しょくは看取られたんですか?私もこの辛さのため、何度も猫、犬を飼うのをためらったことでしょう。そうそう、今いるアメリカンショートヘアは雨は嫌いで雪が好き。サクサク突き進んでいきます。
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食は蝕が良いな (たなか秀郎)
2006-02-26 20:44:56
月が太陽を蝕む(むしばむ)。

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異常が異常に思えなくなりました (白石准)
2006-02-27 02:23:09
catwomanさん、まさに昭和の風景です。



彼女が亡くなった日は朝、獣医さんから危篤の知らせ(前日から病院で治療を受けていた)を受けすぐに病院に行って、「その瞬間」は腕に抱いていました。



本当に眼に光がなくなるというのはこういうことだなと実感しました。



今までの猫はいなくなって別れたので、こういう形は初めてでした。



あきらかに「死」を意識して自分の前からとぼとぼと歩いて家を出て行った♂を見送ったのも胸がはりさけそうでしたが、敢えて追わなかったこともあります。

まあその猫のこと(すいという牡で一枚写真があります)も可愛い奴だったので紹介しようと思いますが、しょくの場合亡くなったあと家に持って帰って、ピアノの椅子に寝かせました。



演奏会に行って(そりゃあ酷い演奏をしました)帰ってきてから、数日間は冷たくなったその骸と一緒に寝ました。



ニュースで亡くなった連れ合いと数日寝ていたというのを見たことが蟻マスタが、「なんて気持ち悪い」と思っていたのが、全然そう思えませんでした。



さいわい暑い季節ではなかったので全然生理的に気持ち悪い状況にはならなく、でもいいかげんこれ以上一緒にいてもしょうがないとおもい、焼くところに行って渡しました。

でも、猫の卒塔婆をみたりお経を上げてもらおうとはおもわなかったので、それ以来そこには行っていません。



たなかさん、食と書くと、くいしんぼうみたいだしたしかにおかしいのだけど、いまいるきゃらめるがキャラメルでないのとおなじで、しょくも、由来は金環食だけど、ぼくのなかではひらがなのしょくなのです。
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