五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高に赴任した嘉納治五郎の業績

2012-01-15 05:52:02 | 五高の歴史

五高に赴任した嘉納治五郎の業績は
1、柔道を広める
 着任早々「校長官舎の物置に畳を入れて道場を作る一方、学校の生徒控所のたたきに40畳の畳を敷いて柔道場を作った東京から肝付宗次を帯同し学習院時代の有馬純臣を教授として招いた。
熊本では星野九門・・四天流柔術、矢野派、江口派等の諸流派と協力して柔道普及に努めて九州柔道の基礎を作った。

2.学内行政にも指導力を発揮し龍南会の組織を作った
 剣道、柔道、弓道、ベースボール部雑誌部を龍南会の組織に入れている。ボート部は廃止したのは嘉納治五郎と云うことの説明があったが、その基礎を聞きたい、俺の調査では龍南会が組織される前にボート部があったということは見出せない、生徒が個々に練習していた位のものであったのではなかろうか、

3、剛毅朴訥の校風起きる
 人円主義を唱えた藤本充安が初代総務として寮風を、また治五郎は―日本は未だ列強諸国には及ばぬ、安閑として眠る時にあらず,括として悠遊すべき時にあらず。勉むべし

4,1期生の卒業式を挙行している・・肴に万引きだけの質素な祝いであった。


参考卒業式あいさつ
第一 学問研究ノ目的ハ或ハ其真理ニアル或ハ其応用ニアリ今我国ノ現状ヨリ観察スレバ先ズ応用ヲ主トシ真理ノ探討ヲ後ニス可シ然レドモ若シ真理ノ探討ヲ為サント欲セバ其真理ヲ応用スルトキハ世ヲ益スルコト緊要且ツ鴻大ナルモノヲ先ニスベシ 

第二 大學ニ於イテ修ムル所ノ学業ハ唯自己畢生ノ業務ニ対スルノ準備ニ止マルモノナルヲ忘ル可カラズ故ニ目前ノ名誉等ヲ得ント欲シテ不急ノ事物ニ注目シ或ハ勤勉度ニ過ギテ遂ニ摂生ヲ忽ニスルガ如キコトアル勿レ

第三 大學ニ在ルノ間ハ所謂主一無適ヲ守リ心ヲ他事ニ寄せず以テ書生ノ活発ナル精神ヲ養ハザル可カラズ 

第四 大學ノ業ヲ卒ルノ日各自職業ヲ撰ブノ時ニ方リ能ク永遠確乎ノ目的ヲ立テ一時ノ名誉待遇等ニ心ヲ移シヲ転ズルコト勿レ

諸子ハ我校第一回ノ卒業生タルヲ以テ終リニ臨ミ特ニ一言セサルヲ得サルコトアリ近年九州ニ幾多ノ人材ヲ出シタルコトハ天下ノ尤モ許ス所ナリ抑モ此等ハ皆諸子スレバ先ズ応用ヲ主トシ真理ノ探討ヲ後ニス可シ然レドモ若シ真理ノ探討ヲ為サント欲セバ其真理ヲ応用スルトキハ世ヲ益スルコト緊要且ツ鴻大ナルモノヲ先ニスベシ

と述べた、日本の国情に即した何時の時代にも通じる教育の真理と教訓を含んでいる。


5、校長として人事面でも手腕を発揮する
 ラフカジイオ・ハーンを招聘している・6師団の祝席には羽織袴で参加している。

6・学外でも指導力を発揮
 九州各県の尋常中学校校長と緊密な連絡、
 古荘嘉門、佐々友房 津田静一を始めとして九州各県の知事や議会関係者と交際を深めた。幻に終わった九州大学構想、済々黌に続く九州法律学校から九州大学設置に治五郎は乗り気で財源は民間資本は津田に任せた。

嘉納の転勤命令は教科書検定機密漏えい事件である。文部大臣大木喬任時代に教科書検定の方針が漏えいして機密漏えい事件に発展した河野敏鐘文相は図書課長に嘉納を起用したので、地元では留任運動もあったが九州を去って行った。
送別会での嘉納の挨拶
 余は実に忍びず、余は実に苦しむ、…九州なるかな、九州なるかな、余は九州を愛せり
 よは実に九州人を愛せり・・・・教育体系は独自の姿勢を貫いた。
嘉納は木下広次が奨めた自治主義に警鐘を鳴らし、森有禮の教育姿勢、すなはち師範教育「順良」 「親愛」,「威重」は効果が期待できないと批判し,兵式体操での軍隊教育は間違いであるというもので
「師範教育の最も必要な事は教育の偉大なることを理解し教育の事業の楽しさを知り仮に外面から受ける待遇が肉体的にも精神的にも十分でないとしても教育事業そのものを楽しんで職に当たる。これが教育者の魂であり、この魂を養うことが、教員養成の第一である」としている。

明治26年9月高等師範学校長就任以後出入りはあったが大正9年高等師範学校長を退任まで
高等師範学校長在任期間は通算20余年に及んでいる。

 

 

 

 



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