中華人民共和国 紹興市倉橋直街
たとえばロンドンの風景は英国製のカメラで撮影し、フランスの景色はデザインがちょっと素敵なフォカなどで撮ったらどうだろうかなどと、パリで生まれ育ったムッシュ・オノと立ち話した。洒落が骨まで身についているムッシュは、すぐに、おもしろいですね、と賛成してくれたのだった。それから数日後、大震災が起こった3月の初旬、取材で中国の紹興に赴き、旅行バッグには海鴎(シーガル)の二眼レフも入れておいた。このカメラはローライフレックスのコピーで、レンズもテッサーを複製したものなので、とてもよく写る。紹興はもちろん紹興酒の故郷で、取材のターゲットもこの酒である。仕事の合間に海鴎を持ち出し、宿所のある倉橋直街を試写してみた。中国の風景は中国製の写真機で撮ってみようということである。
紹興は、中国の近代史を大きく転換した知識人を何人も生んだ。その筆頭は魯迅であろう。その魯迅の『薬』という短編小説は、人血饅頭を喰えば肺病が治るという旧社会の迷信をモチーフにして描いた作品である。人血饅頭は処刑された罪人の生き血を使ってつくられる。魯迅が『薬』の中に登場させた夏瑜という罪人は、女から男へ性別を変えられているが、実は清朝打倒を画策して高級官僚の恩銘を暗殺した徐錫鱗事件に連座してみずからも刑死した女性革命家の秋瑾をモデルにしている。
紹興の役人の家に生を受けた秋瑾は成人して湖南省の豪商の長男である王廷鈞と結婚させられる。親の決めた結婚に躓いた秋瑾はその鬱憤を酒(きっと紹興酒であったに違いない)で晴らし、夫婦生活が破綻していく。そこから抜け出すために1904年、魯迅とおなじ時期に日本へ留学し、清朝打倒運動に加わった。留学時代に和服を着て、日本刀を構えた写真は有名である。魯迅は同郷で、ともに革命を志した同志の殉難を悲しみ、小説『薬』に登場させて秋瑾の無念に報いたのだろう。秋瑾の旧居は解放南路から西に入った和暢堂にある。刑場があった解放北路の軒亭口には記念碑が建っている。
秋瑾の刑死を直接に誘引した徐錫鱗もまた、紹興の人だった。徐錫鱗は楊篤生らが組織した軍国民教育会の過激な暗殺団光復会に属したテロリストだった。安徽巡撫の恩銘を暗殺した彼はその日のうちに捉えられて殺害され、その心臓はくりぬかれて恩銘の家族に渡されたと伝えられる。
中華民国臨時政府の教育総長だった蔡元培も紹興の出身である。蔡元培は袁世凱の独裁に反発して渡仏し、李石曾らパリ・アナキストグループと華仏教育会を設立し、当時、一世を風靡した勤工倹学(倹約して半労半読のフランス留学をすること)運動を推進した。帰国後は北京大学の学長に就任し、胡適、陳独秀、李大釗らを招聘して同大学を新文化運動の中心に位置づけた。蔡元培は心情的にアナキズムに近く、同グループは遊郭通い、喫煙、飲酒、賭博などを厳しく戒めていたので、故郷の銘酒を愛したかどうかは定かではない。旧居は紹興駅東南の西街の路地の中にある。
周恩来もまた、紹興の出身である。人物についてはあまりにも有名なので説明する必要はないだろう。
魯迅、秋瑾、徐錫鱗、蔡元培、そして周恩来と5人の紹興人を取り上げたが、彼らに共通するのはともに裕福な家庭に生まれた知識人で、蔡元培にいたっては科挙に合格して翰林院(国家アカデミー)編集に任ぜられている。あえてもうひとつの共通点を挙げれば、中国近代の時代という大きなうねりの中で魯迅ら5名は体制に叛旗をひるがえし、ともに出身階級の利益を裏切ったことだろう。
中国の近現代を革命派の立場から創出した幾多の人材を生み出した紹興は、かつては硝煙と血が滴る刑具のにおいがした都市だったようだ。いま、その生臭さは消え、代わりに上質の紹興酒が香っている。その枯れた風情は、時代遅れの二眼レフ「海鴎」で撮影するのに相応しく、テッサーのコピーレンズで切り取られた風景のひっそりとした空気感が好ましい。
海鴎4A ( HAIOU SA-85 75mm 1:2.8 )
たとえばロンドンの風景は英国製のカメラで撮影し、フランスの景色はデザインがちょっと素敵なフォカなどで撮ったらどうだろうかなどと、パリで生まれ育ったムッシュ・オノと立ち話した。洒落が骨まで身についているムッシュは、すぐに、おもしろいですね、と賛成してくれたのだった。それから数日後、大震災が起こった3月の初旬、取材で中国の紹興に赴き、旅行バッグには海鴎(シーガル)の二眼レフも入れておいた。このカメラはローライフレックスのコピーで、レンズもテッサーを複製したものなので、とてもよく写る。紹興はもちろん紹興酒の故郷で、取材のターゲットもこの酒である。仕事の合間に海鴎を持ち出し、宿所のある倉橋直街を試写してみた。中国の風景は中国製の写真機で撮ってみようということである。
紹興は、中国の近代史を大きく転換した知識人を何人も生んだ。その筆頭は魯迅であろう。その魯迅の『薬』という短編小説は、人血饅頭を喰えば肺病が治るという旧社会の迷信をモチーフにして描いた作品である。人血饅頭は処刑された罪人の生き血を使ってつくられる。魯迅が『薬』の中に登場させた夏瑜という罪人は、女から男へ性別を変えられているが、実は清朝打倒を画策して高級官僚の恩銘を暗殺した徐錫鱗事件に連座してみずからも刑死した女性革命家の秋瑾をモデルにしている。
紹興の役人の家に生を受けた秋瑾は成人して湖南省の豪商の長男である王廷鈞と結婚させられる。親の決めた結婚に躓いた秋瑾はその鬱憤を酒(きっと紹興酒であったに違いない)で晴らし、夫婦生活が破綻していく。そこから抜け出すために1904年、魯迅とおなじ時期に日本へ留学し、清朝打倒運動に加わった。留学時代に和服を着て、日本刀を構えた写真は有名である。魯迅は同郷で、ともに革命を志した同志の殉難を悲しみ、小説『薬』に登場させて秋瑾の無念に報いたのだろう。秋瑾の旧居は解放南路から西に入った和暢堂にある。刑場があった解放北路の軒亭口には記念碑が建っている。
秋瑾の刑死を直接に誘引した徐錫鱗もまた、紹興の人だった。徐錫鱗は楊篤生らが組織した軍国民教育会の過激な暗殺団光復会に属したテロリストだった。安徽巡撫の恩銘を暗殺した彼はその日のうちに捉えられて殺害され、その心臓はくりぬかれて恩銘の家族に渡されたと伝えられる。
中華民国臨時政府の教育総長だった蔡元培も紹興の出身である。蔡元培は袁世凱の独裁に反発して渡仏し、李石曾らパリ・アナキストグループと華仏教育会を設立し、当時、一世を風靡した勤工倹学(倹約して半労半読のフランス留学をすること)運動を推進した。帰国後は北京大学の学長に就任し、胡適、陳独秀、李大釗らを招聘して同大学を新文化運動の中心に位置づけた。蔡元培は心情的にアナキズムに近く、同グループは遊郭通い、喫煙、飲酒、賭博などを厳しく戒めていたので、故郷の銘酒を愛したかどうかは定かではない。旧居は紹興駅東南の西街の路地の中にある。
周恩来もまた、紹興の出身である。人物についてはあまりにも有名なので説明する必要はないだろう。
魯迅、秋瑾、徐錫鱗、蔡元培、そして周恩来と5人の紹興人を取り上げたが、彼らに共通するのはともに裕福な家庭に生まれた知識人で、蔡元培にいたっては科挙に合格して翰林院(国家アカデミー)編集に任ぜられている。あえてもうひとつの共通点を挙げれば、中国近代の時代という大きなうねりの中で魯迅ら5名は体制に叛旗をひるがえし、ともに出身階級の利益を裏切ったことだろう。
中国の近現代を革命派の立場から創出した幾多の人材を生み出した紹興は、かつては硝煙と血が滴る刑具のにおいがした都市だったようだ。いま、その生臭さは消え、代わりに上質の紹興酒が香っている。その枯れた風情は、時代遅れの二眼レフ「海鴎」で撮影するのに相応しく、テッサーのコピーレンズで切り取られた風景のひっそりとした空気感が好ましい。
海鴎4A ( HAIOU SA-85 75mm 1:2.8 )
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