木燃人の波止場

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1526 パソコンライフ(1)

2016-10-08 08:00:00 | その他

 かなり以前から、私のパソコンとの関わりについて書いて見たいと思っていたが、今回第何代目になるか知れないが、私の人生の最後の購入になりそうな、パソコンを更新する決断をしたので急に思い立ち書き始めた。

  前にも書いた気がするが、私が計算機(コンピューター)なるものに最初に関わったのは、会社が初めて計算機(大型)を導入することとなり、事務に係る従業員に対して、計算機とはどんなものかと、目の不自由な人に、「象とは・・・」と教える如くの導入教育を開始したことに端を発する。

  当時私は、産業用小中型モーターを専門に作る三重工場の現場係員に配属され、ポットモーターという、人絹糸を巻き取る高速回転の特殊なモーターを一貫して作る工場に居たので、設備治工具から生産管理、現場管理と結構幅広く担当していたので、その講習を受けた。これは昭和30年代後半、私が20才代の前半だったと記憶する。

  講習の中身は全く記憶してないが、言語は「コボル」であったことは記憶にあるが、なにやら、面倒くさいが、便利なものが導入されそうだぐらいの認識しかなかった。 最初はデーター入力はパンチカードが多かったので、女子事務員は結構関係していたが、私の仕事に影響が出たのは随分と後の事であった。

  前にも書いたが、私は39才で関連会社に出向となり、山口県徳山市(現周南市)に会社が納入した電気機械のメンテナンスを担当する事業所を作るために、四国中国九州出身の従業員を十数名連れて行き、メンテナンスサービス業を開始したのであった。事務所は徳山市と福岡市に作った。

  私は二つの小さい事業所の管理、徳山事業所の人事、経理、や営業までもやらねばならず、煩雑な事務に忙殺されていた時に、NECがパーソナルコンピューターなるものを発売したことを知り、何とか導入したいと思ったが、当時はドットプリンター付きで一式が百万円もしたので、買う事は許されなかった。

  あるとき、従業員の一人の親が持つ土地が、中国自動車道の敷設に引っ掛かり、大金持ちになったのでと、パソコン買ってもらったらしい。しかし、当人は全く使う意思はないというので、会社に貸してくれないかと打診し、了解されて、初のご対面となったのは、昭和40年代の前半であった。

 パソコンはあの名だたるNECのPC-8000というやつである。 私のいた会社は富士通の親会社であった時期もあり、工場などの大型計算機は富士通製であったが、パソコンはまだ作っていなかった。 この時期はNECの独壇場でもあったと思う。

  当時はプログラムを自分で作るしかないのであるが、作り方がわからないので、生産管理の実プログラムを動かして、この記号(コマンド)はこういう動作をするのだと、一つずつ知識を得て、最初は売上の集計から始め、本社に提出する経理決算書つくりまでを随分苦労しながらも、自己流で作ったのであった。

  最初のプログラミングはN-Basicという言語で作っていたが、その後Epoaceと言うが、コマンドが漢字で例えば「読込」とか「登録」などとするプログラムを作るシステムが売り出され、パソコンの活用範囲が一段と大きくなってきて、無くてはならないものになりつつあった。

  このEpoaseで作ったプログラムは数知れないが、このシステムは素人でも簡単に入り込めるし、結構いろんなことが出来る簡便さはあったが、計算速度が極めて遅く、例えば今日一日の全データーは入力のみ行い、女子事務員が帰り際に集計プログラムを起動し、夜間に自動計算させ、朝出勤した事務員が印刷の開始をしたものであった。

  この辺りまでは、会社の仕事が私の全てであったから、朝6時から、夜11時までは、自分の時間は全くなかった。 また、個人でパソコンを持ったのは50才代に入ってからであり、それも、会社の仕事をフロッピーに落として家に持ち帰り、やることが主で買ったものであった。 当時はワープロも家に置いていた。

  ・・・であるからして、自宅で本格的に仕事以外のことをやり始めたのは、65才で退職した後からであった。家にいる日はパソコンを触らない日は無いほどに、私の大切な伴侶とも言える存在なのである。もう持てる寿命の余りは多くないというのに、まだパソコン買うのかと言われかねないが、手離せないのである。

 

 長くなってしまったので、ここで一括りとして、続きは後述とする。

 

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