木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

986 東海道 亀山宿 (4) 南野町 北野町

2013-08-28 08:00:00 | 名所旧跡

”後期野次喜多衆”は亀山宿の中心部を抜けて、鈴鹿峠に向けて進めています。

今は真夏、この翌日からは35℃前後となり、”後期御一行”には厳しすぎるので、唯一最高気温が31℃と比較的低い日、カンカン照りでない日を選んだのが本日(2013.08.05(月))でありました。 

本当は歩くことで、細やかな”取材”が出来る事は承知しながらも、まだ、熱中症になりたくない野次喜多は車を使わざるを得ず、その上で、歩く距離を最小限にする事と乗り降りを最小にすると言う相反する要求を満たすべく、午前8時30分菰野町を出発したのです。

下の地図、赤い線は旧東海道で右が四日市、江戸方面であり、左は鈴鹿峠、京都方面となります。丸付き数字は尋ねた旧跡の凡その場所を示し、その番号順に尋ねています。 なお、  は今回の区間距離等測定点を示します。

 

① 連子格子の家  

飲食店やコンビニさえも並行して走る国道一号線にはあるが、ここ旧東海道には殆ど店は見当たらない。 空腹を覚えた今、渡りに船と期待したが、古民家風休憩所はまだ開店していなかった。 

 

② 「永信寺」

 

③ 「光心寺」

門は閉じられており、入る事は許されなかった。

 

④ 「光明寺」   浄土真宗本願寺派

 

⑤ 「羽柴秀吉本陣跡」、「常夜燈」

 

⑥ 「豊川 杔枳尼天(とよかわだきにてん)」

両サイドの道路拡張の犠牲になり、狭い土地に押し潰されたようにみえます。

 

 

⑦ 「慈恩寺」    浄土宗

 慈恩寺の創建は神亀5年(728)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたのが始まりと伝えられています。古くから神仏習合で忍山神社の別当寺院を司り、最盛期には広大の境内に七堂伽藍が建ち並び支院7ヶ寺を擁していました。本尊の木造阿弥陀如来像は平安時代前期に制作されたもので像高161.9cm、檜材、一木造、昭和12年に国指定重要文化財に指定されています。

 

 

⑧ 「古い家屋」、「石碑(「天照皇大神御鎮座 忍山神社山道」と書かれている)」

 

 

⑨ 「忍山神社(おしやまじんじゃ)」   

野村町の東北隅に愛宕山と呼ばれる海抜90mの丘陵があり、この南麓地点が旧社地と推定されている。
この旧地に神宮寺として神福寺と共にあったが、文明4年(1472)に、兵火のたことごとく灰燼となった。いま野村にある慈恩寺は神福寺の遺蹟とされている。
その後仮殿に祀られた。永禄の戦乱には、一時兵火を避けて白木山に御神体を奉遷したといわれ、中世におけるその荒廃は著しかつた。
この地は伊勢大神の御遷幸の地であるとされ、倭姫命が天照大神を奉じ、桑名野代宮から鈴鹿に來られた際、この忍山にて神宮を奉斎した忍山神宮の旧跡という。
日本武尊の妃弟橘媛(おとたちばなひめ)は忍山神社祀官忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘と伝えられている。
布気皇館太神社を論社とする説もある。
式内社調査報告も「式内布気神社は現忍山神社である公算が強いように思う」としている。

 「鈴鹿小山の宮(忍山)倭姫命御巡幸地跡」

垂仁天皇(第十一代)御代に皇女倭姫命が御杖代となって、天照皇大神の鎮座の地をもとめて、大和の国から忍山に御遷幸になった。 その祭神宮を造営し御鎮座になられること半年、なおも南え遷り坐したという。 その跡をかしこんで大神を奉杞した。  

⑩ 「野村一里塚」 

三重県内にあった12箇所(24)の一里塚の中で唯一完全な形で現存している一里塚です。 慶長9年(1604)、徳川家康の命で東海道が整備され、その一環として亀山城主であった関一政が築造しました。

江戸日本橋からは約424キロ、京都三条大橋からは約68キロの位置にあり往時は街道の両側に塚があり南側にはエノキ、北側にはムクの木が植えられていました。 現在残されているのは北側の一里塚だけで推定樹齢400年のムクの木が聳え立っています。 野村一里塚は昭和9年に国指定史跡に指定されています。

 

今回は見るべきものが集中していたために、 東海道通過距離は過去最低の783mとなりましたが、 この後は次回にしたいと思います。 なお、この辺りは平坦な所でして、標高差は約6m、従って勾配は0.8%でした。

 

 

 

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加