木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

985 東海道 亀山宿 (3) 西丸町

2013-08-23 08:00:00 | 名所旧跡

桑名の「七里の渡し」を起点とした、旧東海道の街道筋にある旧跡を訪ねる”後期野次喜多道中記”は、亀山市の中心部の西半分を尋ねています。

なお、下の地図で、赤い線は旧東海道を示し、右は四日市、江戸方面であり、左は京、大阪方面です。また、丸付き数字は尋ねた場所を示し、下記の記事の番号になっています。 旧東海道上のブルーの丸() は距離の測定点を示し、また、ブルーの四角()は追って説明しますが、 「京口門」」のあった所(推定)です。    取材日:2013.08.05(月)

 

① 「西問屋場跡」

この辺りは、問屋が並ぶ街道であったようです。 まだ何軒も古い家屋が残されています。

 

② 「旧舘家住宅(枡屋)」、「道標」、「飯沼慾斎生家跡」 

 

「飯沼慾斎」について

 名を長順、幼名本平。慾斎は、引退後の号。小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した、文政11年(1828年)には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲が覗い知ることが出来る。『草木図説』執筆の傍ら68歳で自ら種痘を試み、70歳を越してから門人とともに写真術の研究をはじめ、80歳では、博物学・医学・本草学の知識を広めようとシーボルトと会見せんとした(シーボルトの帰国で実現しなかった)。最晩年には、足を傷めたが、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたという。

 

③ 「善導寺」

亀山藩縁の寺院で境内には亀山城主三宅康信の夫人である清光院や亀山城主石川家の家臣で藩校明倫舎の学頭を務めた柴田右仲(江戸時代後期の朱子学者)の墓碑があり亀山市指定史跡に指定されています。

 

④ 「加藤家長屋門、土蔵」

石川氏六万石の家老職にあった加藤家の屋敷跡。建物は江戸時代中期以降の建築とされるが、1990年の修復工事で幕末当時の姿に復元された。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁に城下町の面影が残っている。  亀山市文化財。

 

⑤ 「亀山市歴史博物館」    70才以上入場無料 駐車無料

この博物館は、東西を走る東海道よりは少し北にあり街道筋とは言い難いですが、亀山の歴史に触れる上では欠かせない場所と思い訪れて、有意義な資料も戴きました。 (上記地図では、その外になるので、記載してません)

 

⑥ 「梅巖寺」

亀山藩主だった石川家縁の寺院です。境内は亀山宿の西端にあたり往時は亀山城の総構の城門である京口門に隣接していました。伊勢国鈴鹿郡八十八箇所霊場第三十二番札所(しづかなる わがみなもとのぜんじふじ うかぶ心は  のりのはやふね)。境内には西国三十三霊場を模した石祠が建立されています。

 

  ■ 「京口門跡」

 「京口門」は、当時は上記「梅巖寺」の隣にあったようですが、今は何もありません。 亀山城の総構の城門である京口門は石垣で囲われ棟門、冠木門、番所が備えられ石高の低い亀山藩にとっては規模が大きく壮麗だった為、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謡われた、堂々たる門があったと言います。 1672年に築かれた。

⑦ 「京口坂」  道路の南側から見る。(下の写真)

下の川岸が当時は東海道であったと思われるので、今見える道路は盛り土をしたものと考えられるので、盛り土が無ければ、かなり急な坂道であったと考えられます。 そしてその上部に”亀山の過ぎたるもののひとつ”「京口門」があったと想像して欲しいのです。

そこに、下の絵を重ね合わせて見ますと・・・・・・・。 

⑧ 「広重が描いた亀山宿・雪晴」

松の木はありませんが、ぴったり嵌ると思うのが、私一人ではないと思いますが、如何でしょうか?。

 

⑨ 「京口坂」  旧東海道の道路の北側より見る。

下の写真は、左側が次に示す「照光寺」の山門ですから、当時の道路面はこの高さ以下であった事をきっちり物語っています。

ここに広重の絵が掲げられていますが、絵は坂が右上がりに描かれてますが、この写真では左上がりですから、この絵を描いた場所はここでは無く、先ほど示した道路の南側が正しいように私は思います。

亀山は台地の上にあると前に書きましたが、「京口坂」を降りることで台地から平地に移ります。参考までにここらの標高を調べると64.7mでした。 亀山城のあった辺りが91.5mですから、その差は27m前後となります。  これから推測すると、「京口坂」は距離は短いがかなりきつい坂であった可能性があります。

 

⑨ 「照光寺」

創建年は不詳ですが、古くは玉泉院と呼称されていた。元禄2年(1689年)、伊勢亀山藩主であった、板倉重冬の義母照光院によって、伽藍が再建されたとのこと。

「赤堀水之助(源五衛門)」についての興味ある文章をみつけましたので、借用しました。

石井源蔵・半蔵兄弟の亀山仇討について
 石井源蔵・半蔵の父は信濃国小諸城主・青山因幡守宗俊の家臣で、石井宇右衛門といい、宗俊が大坂城代となった時、共に従って大坂へ行きました。その折り、美濃大垣以来の友人赤堀遊閑が訪ねて来て、養子の源五右衛門の将来を頼みました。宇右衛門は引き受けましたが、しばらくして、源五右衛門が家中の者に槍を教えていると聞き、宇右衛門は、もう少し稽古をしてからにしたほうがよいと説くと、源五右衛は立腹し、それならば勝負をしたいと言うので、宇右衛門も仕方なく応じて源五右衛門を討ち負かしました。
 このことを恨みに思った赤堀源五右衛門は、延宝元年(1673)11月18日、外出中の石井宅に入り込み、帰宅した宇右衛門を槍で殺して逃げてしまいました。そこで、小諸藩の近習役で18歳になる宇右衛門の長男三之丞は、次男彦七と共に仇討の旅に出るのです。そして、同年12月8日の夜、源五右衛の養父・赤堀遊閑を大津で討ちとることができました。しかし、八年後の天和元年(1681)正月、美濃で源五右衛門の返り討ちに遇い、さらに次男彦七は、一人で伊予へ渡る時、嵐のため溺死してしまいます。
 三男源蔵・四男半蔵は、父が討たれた時、まだ5歳と2歳で、縁者の安芸国浅野藩士に預けられていましたが、二人の兄が死んだので、源蔵が14歳になった年、仇討に旅立ちます。
 その頃、赤堀源五右衛門は、名を赤堀水之助と改め、亀山藩に仕えていましたが、亀山藩は源五右衛門をかくまい、他国者には一夜の宿をも禁止し、見知らぬ者は一切城内に入らせないといった厳重さで、容易に近づくことができませんでした。源蔵兄弟は行商人となったり、近江の茶売りとなったりして仇の身辺を探りましたが、機会を得ることができなく、むなしく歳月が流れました。が、ようやくにして、源蔵兄弟は亀山藩士の家に奉公することができ、ついにその機会が訪れました。元禄14年(1701)5月9日の朝、宿直であった源五右衛門が出てくるのを亀山城内で待ちうけて、兄弟はめざす仇を討ち果たしたのでした。父の死から29年目、兄達の死から20年目のことで、長谷川伸の小説『29年目の仇討』の題材にもなっています。
 また、この仇討は、赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたと言われています。浅野内匠頭長矩の切腹がこの3月、討ち入りは翌年12月でした。  (この文は海津裕子氏が書かれたものです)

親の仇とはいいながらも、人生の大半を仇討ちに費やしたとは凄い精神力と感嘆するばかりですが、それで本当に気が晴れるものでしょうか?。 途中、これでよいのかと言う反芻はなかったのでしょうか?。 現代ではあり得ない事ですが、当時はそれを正当化し、それでよかったんだと信じ込んでいたのではないかと思います。 

東海道・”後期野次喜多”道中記 第24遍はこれにておしまいです。

 

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