木燃人の波止場

花やお寺や観光地の写真を紹介しつつ、皆さんとの交流を計りたく思ってます、気軽に見て戴き、コメントを戴ければ嬉しいです。

966 東海道 四日市宿 (8) 南日永

2013-07-25 08:00:00 | 名所旧跡

 東海道の昔を忍ぼうと、沿線の旧跡を訪ねている。その第三弾第二編は四日市市の中心部から、少し南に移動した辺りを巡っている。

第一弾は桑名宿を徒歩で3.8Kmを歩き、第二弾は四日市宿の11.5kmを自転車で走ったが、第三弾は丁度旧東海道と並行して近くを走る”マッチ箱電車”を活用させて戴いている。

東海道沿線旧跡探訪シリーズとしては、少し色合いが異なるが、何年後かには見ることも出来なくなるかも知れない”マッチ箱電車”を記録に残す事を兼ねるようにしたので、毛色が変わったのだ。

いつも同じ事ながら、下の地図の”赤い線”は旧東海道であり、丸付き数字は尋ねた場所を示し、下記する記事の番号になっている。

 

① 「南日永駅」

近鉄内部線、八王子線合わせて総延長は7km、駅の数は四日市駅を含めて計9駅あり、内四日市駅と内部駅には駅員がいるが、他の7駅は全て無人駅。

その多くはかつては人がいたので、駅舎はあるが、今は用が無く下の右の写真で見る如く、窓口などは全て張り紙などで蓋をされている。何とも哀れな姿と私の目に写った。

 

 

② 「両聖寺」

      浄土宗   林光山

 もとは、天台宗の林光山西教院というお寺でしたが、住職の専阿上人と比叡山で一緒に修行した浄土宗の良忠上人が、鎌倉へ下向する途中、この寺に17日間滞在したことが縁となって、浄土教に改宗したそうです。この寺の改宗開基を良忠として、2代を専阿としています。3代の道阿上人の時に、良忠・専阿両聖人の名にちなんで両聖寺と寺号を改めています。   (市の資料より)
 

 

③ 「日永神社」

  日永神社は、昔は南神明社と呼ばれていました。明治40(1907)年以降日永神社というようになりました。建仁年間(1201-1204)頃に創建されたといわれています。天正年間(1573-1592)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失しました。その後再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。明治40年11月岡山白髭社、日吉神社、追分神明社の3社を、明治41年1月に池鯉鮒、山神、天満、事比羅、土大神の5社を、明治44年9月に稲荷社を合祀しました。

 

④ 薬師堂

 ここには市指定文化財の「薬師如来坐像(彫刻)」が保管されているが、鎌倉時代中期の作と言われており、その後、1645、1713、1866年に補修されたとの記述があるそうだ。 本像は檜の寄木造りだそうだが見る事は出来なかった。

 

⑤ 「稲垣末吉翁碑」

明治時代に東京で鉄鋼業を営み財をなし、地元に戻り地域社会に貢献された。 現在、日永の追分で湧き出る水もこの方の尽力による戸の事だ。

 

 

⑥ 「実蓮寺」

     浄土宗鎮西派

もとは四日市南高校の南の登城山麓にありましたが、承久2(1220)年に現在地に移転したそうです。
 天正3(1575)年、滝川一益(1525-86)が北勢五郡の領主に任じられました。その時に一益は実蓮寺を菩提寺として、20石の寺領を与えました。一益の母の墓もあります。

 滝川一益は、織田信長の臣で、天正2(1574)年伊勢長島の一向一揆平定後、北勢五郡を与えられ、伊勢長島城主となりました。長篠合戦や武田勝頼滅亡に功あったが、信長死後、北条氏と戦い敗れ、長島に帰り、天正11(1583)年柴田勝家方として羽柴秀吉と戦い、さらに天正12(1584)年小牧長久手の戦いで敗れ、その後は出家して越前で不遇な晩年を送りました。

 

⑦ 「西唱寺」

     浄土真宗高田派   雲祥山

 もとは安立院という浄土宗のお寺でした。永禄2(1559)年、玄聖が開きました。
 江戸時代初期に、誓宅が住持の時に、專修寺第14世尭秀上人に帰依して浄土真宗となりました。寛文元(1661)年には西唱寺と改められました。
 その後、昭和20年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂などが焼失してしまいました

 

⑧ 「一里塚」

  

 ⑨ 「名残の松」

 僅かに残った一本の松、街道筋の”生き証人(松)”。 いつまでも通る人々を見守ってほしいものだ。

 

⑩ 「泊駅」

近鉄内部線四日市から4つ目の駅。当然無人駅。

 

 

⑪ 「光明寺」

 

 今回の第三弾から、写真の載せ方を変えている。 今までは原則として”500×332ピクセル”の同じサイズのものとしていたが、今回からは各写真は半分程度以下に小さくして、各記事毎に一枚にまとめている。 

こうした理由は、興味が無い記事、下手な写真などと思う人の気持ちを考え、早くスクロール出来るようにした事、及び、折角多くの写真を撮ったのだから、なるべく多く掲載して情報量を増やすべきと考えたのだ。

大事な写真、自己満足ながらマシと思える写真などは、従来通りか場合によっては、一回り大きいものにしても良いと考えているのだ。 写真をコピーするなど、大きいサイズがご入り用の場合は、別途メールなどにしたいと思っている。

 

                                                << 続く >>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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