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Vison:与えられたイメージ、記憶と思考が創り出す希望と妄想、或いは顕現した世界。
否、振動でしかない生。
遮断された寂静とは何がため。
否、遮断にあらず。
彼女は言った。
「生きるため」
・・・
理由がわからないもののために。
理由に囚われるがために、生きるのか。
否、光。
分離したパーソナリティは時に深刻なダメージを与える。
重力に引き裂かれ一滴の水となり、離れ地に落ち、空へともどる。
恐怖とは、はたして地が存在するのかということだ。
大丈夫、自然を見渡す限り「地」は確かにある。
自然、迷いなき証。
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この宇宙からはどうしても逃げ切れやしない。
圧倒的な生の流れは途絶えることなくやってくる。
たとえここで死んだとしても次の生に満たされる。
なぜ逃げる?
なぜ逃げる?
理由なんかないんだ。
理由なんかないんだ。
情緒が見せるまやかしだと知れ。
思考よ奴隷になるな。
圧倒的な宇宙の生は決して止んだりしない。
情緒はそれを否定する。
恐怖と不安を従えて。
グラマー
光を遮る
グラマー
なぜそこがグラマーとなる?
闇
物語は常に争いから始まる。
そして最後に平和が訪れる。
グラマー
帰りたいあなたのもとへ。
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私たちがどのような動機で職業を選び、仕事をしているのか検討してみてください。そうすればそれが単に生計を立てる手段ではなく、実は羨望に基づいていることに気づかされることでしょう。
そもそも社会がこのようにできているので、それは絶えざる闘争の場であり、その中で私たちは常に何かになろうとしているのです。
この社会は貪欲と羨望――優越者に対するあなたの羨望――を根底としています。
たとえば、ある店員がマネージャーになることを望んでいます。ということは、その人物は生活の手段として仕事をしているというだけではなく、地位や名誉を得ることに関心があるということを物語っています。こういう私たちの心のあり方から社会や人間関係の中に荒廃が生まれてくるのは自然の成り行きです。しかし、もし、「あなた」と「私」の関心事が日々の生活だけならば、羨望に基づかない、正しい生計の手段を発見できるでしょう。
羨望は、私たちの人間関係の中で最も破壊的な要因の1つになっています。なぜなら羨望は権力や地位への欲望を示しており、結局最後には、政治につながっているからなのです。
両者―――羨望と政治―――は互いに密接な関係にあるのです。
1人の店員がマネージャーになろうと望むとき、それが戦争の引き金となる「武力外交」を生みだす原因になり、結局、その店員は戦争に対して直接の責任を負うことになるのです。
J.クリシュナムーティ 『 自我の終焉―絶対自由への道
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あるがままのものを見ようとすれど、私は今だ判断基準を情報に求めている。
私は情報を手放してはたして存在することができるのか。
こんな思考が生じているじたい、混乱の証。
私は何を求めているのか?
私が求めているものは満足なのか幸福なのか。
満足とは望むものを捜し求めたその後で、満たされた充実感を味わいたい。それだけのことだ。
では幸福とは何か?
・・・幸福・・・
『 不自由や不満もなく、心が満ち足りている・こと(さま)。しあわせ。』
これが幸福といわれる心的状態なのか。
確かに私が今幸福でないことはわかる。
もし心が満ち足りているなら何も求めることはしないだろう、まして幸福という概念など。
ではどうすれば幸福・何も求めない満ち足りた状態になれるのだろ。
そしてそれはいかなる手段で生涯にわたって持続させられるのだろう。
こんな思考が生じるじたい私はあるがままのものをあるがままにみていない、むしろ逃避を考えている。
私たちが本当に望んでいるもの―――永久に持続し、私たちを満足させてくれるもの、いわゆる真理とか神とか・・・
果たしてそんなものが自分以外のどこかに存在し、いつかはそこに到達し一体化できるものなのでしょうか。
それはあるがままのものをあるがままにみていない事なのでしょうか?
私の衝動は突き詰めるとこの現象界に今の私の顕現を維持しようとする努力、物質として安定させ時間を創り出そうとする努力に思えます。
粗大なところでの顕現は食欲です。
個体を維持するための代謝。
本来人間はそれが満たされるだけで、それだけで十分幸せではないのでしょうか。
それだけじゃ、何がいけないんでしょうか・・・
幸福とは気づく以外にない。決して望んでやってくるものではないものなのに。
私は望んでいた。
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私たち人間はあらゆるものを、あるがままに知ることができないのでしょうか。
もし、「あるがままに知る」という原点から出発すれば、必ず理解が生まれてくるはずです。
あるがままのものを認識し、自覚し、理解することで、心の戦い―――葛藤は終わってしまうはずです。
たとえば、「私は嘘つきである」ということを知り、その事実を認めてしまえば、それで葛藤は終わりなのです。あるがままの自分を認めて自覚することが、すでに知恵と理解のはじまりであり、それによって「時間」からも解放されることになるのです。
この「時間」というのは、時計の針によって測る股間ではなく、心理的な過程や、精神の働きとしての時間のことです。つまりこうした自分の心の中で作りだされた「時間」を媒介させてものを見ることは、私たちに破壊的な作用を及ぼし、混乱を引き起こすことになるのです。
ですから、非難もせず、正当化もせず、自己を他のものと同一化せずに、あるがままのものをあるがままに認識したとき、私たちはそれを理解することができるのです、自分自身がある一定の条件と状況のもとに置かれていることを知ることが、すでに自己解放の過程にあるということです。
これに反して、自分が置かれている条件や、内なる葛藤を自覚していない人間は、自分とは別の人間になろうとして、その結果、それが習慣になってしまうのです。
そういうわけですから、ここで次のことを銘記しておきましょう。私たちはあるがままのものをあるがままに考察し、そこに偏向を与えたり、解釈を加えたりせずに、実際にある通りのものを観察し、認識したいのだということを。あるがままのものを認識し追究していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。
というのは、あるがままのものは絶え間なく活動し、絶えず変化し続けているからなのです。そして精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、あるがままのものの素早い動きを追わなくなってしまいます。あるがままのものは決して静的なものではなく、厳密に観察してみると分かるように、絶えず活動しているのです。そしてその動きについてゆくには、非常に鋭敏な精神と柔軟な心の動きが必要なのです。ですから精神が静止していたり、信念や先入観に囚われていたり、自己を対象と一体化してしまっていると、そのような動きが出てこないのです。また干からびた精神や心は、あるがままのものを素早く敏捷に追っていくことができません。
J.クリシュナムーティ 『 自我の終焉―絶対自由への道
たいていの心の病気は、『かくあるべし』という観念と、『かくある』という現実とが衝突して引き起こされているのです。
安本美典著 『 広告の心理学―効果的な表現のために (現代心理学ブックス 52)
私は「私の記憶」という私が経験したであろう過去というフィルターを通して「もの」をみている。なぜかといえば「そのもの」をどうにか私に危害をくわえないように作りなおすためだ。
それが偽りであろうと私は常に安全を求めた。
その結果、「あるがままのもの」は、「私のもの」になるが、たえずそこから生じた時間にしばられ自由でないにもかかわらず、これが自由だと信じた。
いや、信じこませ逃げていた。
なぜ逃げたのだろう、それはあるがままのものをあるがままのもととみることが私にとって不快につながったから。
なぜ、不快なのか?私の条件づけられた場所・カルマ、これは今更変えようが無いのか。
私はたえず「なにかになろう」として沢山の本を読んだり、何人もの導師をたずねたりした。
けれども結局は「なにものにも」なれず破壊が続いている。
信念や信仰、修行は確かに対象と一体化し精神は静止した。
けれどもそれらはつかの間の安らぎ、気がつくといつのまにか破壊は更に進行している。
私は今から「あるがままのもの」を「あるがままのもの」としてみていきたい。
正確にはみざるを得ない時を迎えている。
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親交―――真の人間的共感
私たちがお互いに考えていることを相手に伝達することは、相手のことを非常に良く知っている場合でも、きわめて難しいことです。
同じ言葉でも、「私」と「あなた」は違った意味で使っているかもしれません。理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます。
しかもそれは人と人との間に、夫と妻の間、また親しい友人同士の間に真の愛情があるときにしか生まれません。これが真の人間的共感―――親交です。
このように即時の理解―――直覚は、私たちが、同時に、同じレベルで出会うときに初めて生じるものなのです。
J.クリシュナムーティ 『 自我の終焉―絶対自由への道
さてここで言われる『 レベル 』とは何のことでしょうか。
思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体つまり意識でしょうか。
私はこれを波動と解釈します。
視覚と光、聴覚と音。私とあなたはこれらを使って互いに考えを伝達します。
この波動のレベルの一致が即時の理解を与えるのです。
あなた自身も過去にその人の目をただの一瞬見だけで打ち解けあい理解した経験を持っているはずです。思い出してください、特に幼少の頃に多く体験しているはずです。
しかしながらこのレベルには高いも低いも無いことを留意べきです、実際そうなのです。
優劣は分離、争いを誘発します。
すべての人間が、同時に同じレベルで出会い愛情のある親交ができるような社会にならない限り争いや悲しみは決してなくならないでしょう。
『 私とあなた 』
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