8日の米国Motocross Actionネット誌はGODSPEED! HAKAN CARLQVIST (1954-2017)を伝えている。享年63才。
知っている限りでは、ヤマハのハカン・カルクビストのイメージが強烈すぎて、カワサキを駆って世界選手権500GPを戦った記憶はないが、Motocross Actionネット誌は、カルクビストがレース最終戦でKX500を駆って500GPに参戦しトップ走行中、レース本番途中で立ち止まり、ビールを一杯ひっかけて、しかも後続に大きなタイム差をつけて優勝したと言う動画を掲載している。
「Håkan Carla Carlqvist and the Beer stop 1988」
DIRTCOOL編集長Shintaro Urashimaさんが、彼の投稿したFBに、この経緯を投稿している。以下はその抜粋。
『「1988.8.7 Namur/ハカン・カルクビストの孤高 Photo: Naoyuki Shibata, Text: Kayoko Sato, Shintaro Urashima
◆ダートクール2002 No.3より
シリーズが大詰めに近づいた第11戦、ベルギーはナムールの会場で、カルクビストはこうもらした。「今年限りになるかもしれない。ただし、ここで優勝できたらの話だ。因縁のコースでもあるし、どうしてももう1度勝ちたいんだ。だめならだめで、また来年もチャレンジを続けるしかない。心にひっかかるものを残したまま、辞めるわけにはいかないんだよ」 ナムールはベルギーのほぼ中央に位置する、古く小さな町だ。現在はアルデンヌ地方への観光拠点だが、中世から今日に至るまで何度も戦争が繰り返されてきた、悲惨な歴史も持っている。多くの古都がそうであるように、ナムールは2本の川が合流する地点に作られた町で、ムーズ川とサンブル川を隔てる小山に、17世紀に建てられた難攻不落のオランジュ要塞があったからだった。 この要塞の跡地でモトクロスが行われたのは、1949年のベルギーGPが初めてのことだった。世界選手権の起こりは1957年だが、それよりも早く始まったナムールにおけるレースは、FIMによる選手権に組み込まれてからも独自性が保たれてきた。 要塞の跡地は国立公園になっているが、その中をモトクロッサーが走り回り、ヨーロッパ中から3万人が集うのである。難攻不落の要塞が建てられた地形だから、簡単なコースであるはずがない。 アスファルトの公道や石畳を走る部分(現在は砂を運び込んで人工的なサンドセクションとなっている)もあって、コースの全長は2.7kmにも及んでいた。アップダウンの厳しさに加え、ライダーにとって何よりもきついのは、林の中を蛇行する部分だ。急に暗くなるので目が慣れず、木に激突するアクシデントがよく起こった。危険極まりないコースだが長い歴史がそれを認めており、数多くの名場面を生んできた文字通りの古戦場…。
ナムールでの最多勝記録は、ロジャー・デコスタが保持している。'69~'72年の4連勝、そして'74~'76年の3連勝を加えた7勝だ。カルクビストが過去にナムールで勝ったのは、'81年と'83年の2回。どちらかといえば得意としているコースなのだが、なぜかマシントラブルという巡り合わせに、以後優勝から遠ざけられていた。 最古の歴史を誇るモトクロス会場に、もう一度自分の名前を刻みたい。長いレース生活の最後を飾るのに相応しい会場は、ここ以外には考えられない。カルクビストの胸中には、密かに期すものがあった。 8月7日、ナムールはエリック・ゲボスのチャンピオンが確実に決まるとあって、ヨーロッパ中から大観衆を集めていた。ここ2、3戦は走りに切れが見られないカルクビストだったが、この日は明らかに違っていた。プラクティスは、3分01秒76でトップだった。そして本番では、両ヒートともスタートtoフィニッシュという最高の形で、パーフェクトを演じてしまったのだ。 林の中を駆け下りて舗装路に出てくると、コース脇にカフェがある。もっと正確に記すならば、カフェの前の公道がコースの一部になっているという方が正しい。ル・シャレー・デュ・モニュモン。そのカフェにはスウェーデンから駆けつけたカルクビストの兄がいて、これで見納めになるかもしれない弟の雄姿をじっと見守っていた。ヒート2のラスト2周、カフェの前に現れたカルクビストは、兄に向かって「飲み物を!」の合図を送った。
そして最終ラップ、依然としてトップのまま、弟が戻って来る。兄の脇にマシンを止めると、カルクビストはビールが注がれたグラスを受け取った。マシンに跨がったまま、オークリーのフェイスマスクをずらし、それを一気に飲み干す。40秒以上あったリードは、このロスタイムで28秒に縮まった。だが残りはわずか。カルクビストは余裕をもって、チェッカーフラッグの待つフィニッシュに向かって走り出した。「レース中にキューッと一杯やるのは、昔ジョエル・ロベールが見せた芸当なんだ。俺も一度くらいは真似してみたかったので、兄貴と示し合わせていたってわけさ」 総合表彰式に姿を見せたカルクビストは、いきなりインタビュー攻めにあった。本当に辞めてしまうのか。まだまだ走れることを実証してみせたではないか。なんとか最終戦のルクセンブルクGPにも、出場できないものか。「いや、うまいビールが飲めたから、思い残すことはないね」 表彰台の真ん中に立ったカルクビストは、自分よりも低い段に立つカート・ニコルとマーク・バンクスの頭を、交互になで回した。どうだ、俺の真似ができるか。そんな言葉を若造に浴びせては、白い歯をむき出しにしていたカルクビストだったが、スウェーデン国歌が流れ始めると、途端に雲行きが怪しくなってきた。レース場でこの曲を口ずさむのは、ずいぶん久し振り、そしてこれが最後だろう。目頭を押さえながら天を仰ぐ大男の肩は、小刻みに震えていた。』
ハーケン・カルクビスト、世界MX選手権500GPにおいて燦然と輝く稀代のライダーである彼が、引退する最後に選んだマシンがカワサキKX500だった。ところで、KawasakiKX500と言えば、現役時、深い思い入れがある。過去の当ブログに書いたが、彼もまた世界のモトクロスシーンに燦然と輝くライダー Ron Lechien が「1988年Motocross des Nations」での1988 Kawasaki KX500 の印象についての質問に答えてこう言った。
「Yeah、 it was my bike from the nationals。 We shipped all of our bikes over there, which is a big help、I was comfortable with it。 Like I said、 I think we had the best bike in the class。 It was great」
それまで世界中のモトクロス選手権で戦ってきたが、KX500程苦労したマシンはない。2サイクル500㏄単気筒のパワーをコントロールできる選手は、世界中探しても5指もいない時代だ。だから、ライダーがコントロール出来るエンジン特性に如何に仕上げるかが難しかった。パワーを出すのはそんなに難しい事ではないが、パワー特性、いやトルク特性をスムーズに纏め上げるのだが、制御機構が無い時代に、シリンダー、エキゾートパイプと気化器で、有り余るエンジンパワーをコントローラブルな特性に纏めるのが難しかった。それで500ccのエンジン開発担当者は、設計者や実験者とも大変苦労していた。125や250が非常に高い評価を受ける傍で、スムーズなエンジン特性を求めて、たいへん苦労してテストを繰り返す毎日だった。日本で、比較評価する競争マシンはホンダのCR500だったが、このマシンの社内テストライダー評価が高かっただけに、KX500のエンジンには深い思い入れがある。そのCR500よりも、Ron Lechien はKX500高くを評価してくれていた事になる。つまり、世界最高レベルにあるライダーは勝つために、チャンピオンになるためにKX500を選んだという事実は、現役を引き、記事を読みながらKX500のエンジンパワーを扱えるライダーたちは躊躇なくカワサキを選んだ事実に、懐かしさを覚えた。
カルクビストの記事を読みながら、KX500のことがすーと出てきた。