朝日新聞の週末beに、「フロントランナー コメ輸出農家 玉木修さん(31歳) 独力で米価下落の日本を脱出」という記事がありました。
玉木修さんは、「新潟コシヒカリ」の農家の出身ですが、「このままでは立ちゆかなくなる」と海外進出をし、現在では「玉木米」として有名なのだそうです。
玉木さんは、歴史のあるコメ農家の次男として生まれました。
中学卒業後、15歳で農事組合法人サカタニ農産(富山県)に就職し、農業を学びます。
理事長さんや職員の方が親切な方で、大人への認識が変わったそうです。
玉木さんが海外に目を向けるようになったのは、2003年(24歳)のことです。
コメ農家の実家の資金繰りが一時的に行き詰まり、自分に給料が振り込まれませんでした。
1990年代のコメ市場部分開放や規制緩和で、米価が下がり、その影響が玉木さんにも及んだのでした。
「このままでは立ちゆかなくなる」
最初の外国には、台湾を選びました。
2002年に、台湾はWTO(世界貿易機関)に加盟し、コメ市場が部分開放され、経済成長も続いていました。
輸入枠の一部を民間が持つと知り、現地の業者に日本語で(中国語が分からなかったので)ファックスを送りました。
数社から反応があり、日本系のデパートにコメを置くことができたそうです。
富裕層をターゲットとし、時間帯まで見極めて、炊飯器で炊いたコメを試食してもらいました。
いい仕事のパートナーにも恵まれました。
25歳で、自分で精米したコメを持って台湾に行っていたときに、貿易会社(本社はアメリカ)の経営者リンさんに出会います。
契約をし、玉木さんが日本にいる間に新しい販路を開いたりしてくれ、今回、アメリカへ進出することになったのも彼のおかげです。
台湾へは2005年から輸出を始め、今季は150トン以上を輸出する予定です。
日本からのコメ輸出総量の10%強で、個人では最大級の輸出家になります。
今年から、アメリカにも輸出を始め、3つのスーパーマーケットから引き合いが来ており、寿司店、日本料理店がターゲットということです。
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よく思いきられたと思いました。
地方では、何か新しいことを始めようとすると、地域や親戚の寄合いの恰好の話題の種になり、「やめておけ」と圧力がかかる場合が多いです。
インタビューで「攻める気質はどうやって培われたのですか」と聞かれ、父の背中を見てと答えられていました。
お父さんは、大規模コメ農家で、新しい試みを実行し、講演をするような農業経営者でした。
お父さんも、1993年のウルグアイ・ラウンド合意で市場開放が始まり、「新潟コシヒカリ」ブランドにあぐらをかいていてはだめな時代が来ると感じられていたそうです。
お父さんも先進的な考えの方で、大規模経営をし、玉木さんご自身も外に出て農業を学ぶことで客観的に見た農業をご存じだったのも幸いしたようです。
「玉木修」さんで見てみると、
「株式会社エヌ・オー・エス(NOS)|新潟県新潟市【イケメン米」というサイトが最初に出てきました。
(http://www.nos-1st.co.jp/参照)
「お知らせ」の部分に、「2009.08 新潟イケメン会 玉木修会長 イケメン米プロジェクト広報部長として活躍中」とあります。
「イケメン米プロジェクト」を立ち上げ、新潟米をメディアにアピールしたり、輸出するプロジェクトだそうです。
「イケメン米ブログ」もありました。
(http://ameblo.jp/ikemennmai-nos/参照)
1月28日にはTPPの話題で、「私たちも微力ながら応援いたします!ご共鳴いただける方はSまでご一報下さい!お待ちしております」と書かれてました。
記事にある玉木さんの写真は、コメ倉庫(自主販売のために建設)で、たくさんのコメ袋を背景に笑っていらっしゃいます。
30代と若い方が、日本の農業の新しい動きの中心にいらっしゃることを力強く感じました。
玉木修さんは、「新潟コシヒカリ」の農家の出身ですが、「このままでは立ちゆかなくなる」と海外進出をし、現在では「玉木米」として有名なのだそうです。
玉木さんは、歴史のあるコメ農家の次男として生まれました。
中学卒業後、15歳で農事組合法人サカタニ農産(富山県)に就職し、農業を学びます。
理事長さんや職員の方が親切な方で、大人への認識が変わったそうです。
玉木さんが海外に目を向けるようになったのは、2003年(24歳)のことです。
コメ農家の実家の資金繰りが一時的に行き詰まり、自分に給料が振り込まれませんでした。
1990年代のコメ市場部分開放や規制緩和で、米価が下がり、その影響が玉木さんにも及んだのでした。
「このままでは立ちゆかなくなる」
最初の外国には、台湾を選びました。
2002年に、台湾はWTO(世界貿易機関)に加盟し、コメ市場が部分開放され、経済成長も続いていました。
輸入枠の一部を民間が持つと知り、現地の業者に日本語で(中国語が分からなかったので)ファックスを送りました。
数社から反応があり、日本系のデパートにコメを置くことができたそうです。
富裕層をターゲットとし、時間帯まで見極めて、炊飯器で炊いたコメを試食してもらいました。
いい仕事のパートナーにも恵まれました。
25歳で、自分で精米したコメを持って台湾に行っていたときに、貿易会社(本社はアメリカ)の経営者リンさんに出会います。
契約をし、玉木さんが日本にいる間に新しい販路を開いたりしてくれ、今回、アメリカへ進出することになったのも彼のおかげです。
台湾へは2005年から輸出を始め、今季は150トン以上を輸出する予定です。
日本からのコメ輸出総量の10%強で、個人では最大級の輸出家になります。
今年から、アメリカにも輸出を始め、3つのスーパーマーケットから引き合いが来ており、寿司店、日本料理店がターゲットということです。
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よく思いきられたと思いました。
地方では、何か新しいことを始めようとすると、地域や親戚の寄合いの恰好の話題の種になり、「やめておけ」と圧力がかかる場合が多いです。
インタビューで「攻める気質はどうやって培われたのですか」と聞かれ、父の背中を見てと答えられていました。
お父さんは、大規模コメ農家で、新しい試みを実行し、講演をするような農業経営者でした。
お父さんも、1993年のウルグアイ・ラウンド合意で市場開放が始まり、「新潟コシヒカリ」ブランドにあぐらをかいていてはだめな時代が来ると感じられていたそうです。
お父さんも先進的な考えの方で、大規模経営をし、玉木さんご自身も外に出て農業を学ぶことで客観的に見た農業をご存じだったのも幸いしたようです。
「玉木修」さんで見てみると、
「株式会社エヌ・オー・エス(NOS)|新潟県新潟市【イケメン米」というサイトが最初に出てきました。
(http://www.nos-1st.co.jp/参照)
「お知らせ」の部分に、「2009.08 新潟イケメン会 玉木修会長 イケメン米プロジェクト広報部長として活躍中」とあります。
「イケメン米プロジェクト」を立ち上げ、新潟米をメディアにアピールしたり、輸出するプロジェクトだそうです。
「イケメン米ブログ」もありました。
(http://ameblo.jp/ikemennmai-nos/参照)
1月28日にはTPPの話題で、「私たちも微力ながら応援いたします!ご共鳴いただける方はSまでご一報下さい!お待ちしております」と書かれてました。
記事にある玉木さんの写真は、コメ倉庫(自主販売のために建設)で、たくさんのコメ袋を背景に笑っていらっしゃいます。
30代と若い方が、日本の農業の新しい動きの中心にいらっしゃることを力強く感じました。