吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

偉人評伝(03)『聖徳太子(しょうとくたいし)』

2017-07-04 19:28:53 | 偉人の足跡に学んでみようか

 偉大な人物の行跡を紹介するこのコーナー、第3回は聖徳太子をとりあげることにします。


※ひと昔前はお札にも肖像が刷られ、まさに日本の顔だったお方にも関らず、その素顔は知られていません。

 官位十二階の制度を定め、身分制度に捉われない人材登用をした、憲法十七条を定めた、等の業績があり、仏典の翻訳から講義や注釈書づくりも行ったそうですが、どこまでが真実なのでしょう?、
 遣隋使を送り、大陸の進んだ文明と文化を積極的に取り入れ、煬帝に『日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)』なる國書を送って怒りを買ったそうですが、このころ隋は大規模な土木工事で国力を使い果たし、四度に亘る高句麗征伐も失敗に終わってしまうので『いくら怒っても出兵までしてくることはなかろう』と踏んでこれを送ったのだとすれば聖徳太子、ナカナカしたたかです。

 これ以上ないようなスバラシイお名前をお持ちですが・・・必要以上に持ち上げられているように思いませんか?

 古代において立派な諡(おくりな)を持つ人ってのはたいてい非業の死をとげたお方なのですが・・・。

 そして、この方の逸話には常に死の影がつきまとう・・・。

 本名は厩戸皇子(うまやどのおうじ)で『厩戸前にて出生したためその名がついた』・・・って、これ『イエス・キリスト』じゃん!・・・ということは、いずれ非業の最期を迎えることが運命づけられているってこと!?

 さらに『兼知未然(兼ねて未だ然らざるをしろしめす)』といわれ、予知能力があった!?
 自分の身に起こることを予め承知していたといいます・・・これ、予知しても変えられないのなら運命を受け入れるしかなかったとも解釈できませんか?未来を予知できるのは決してイイ事ではないのです(最後の晩餐でイエス・キリストは『この中に裏切り者がいる』と予言しますが運命を変えることはできませんでした)。

 よく見る太子の像のひとつが『太子二歳像』です。
 二歳の太子が合掌して『南無仏』と唱えたら掌に仏舎利があらわれたというのですが、仏教に信仰が厚かったとはいえ掌の中に「お骨」が現われるとはブキミです。

※興福寺太子二歳像

 そしてもうひとつ、よく知られた太子像は『太子十六歳像』ですが、十六というのは四(死)×四(死)で、これも不吉このうえない数字なのです。
 陰陽五行説によれば、奇数が陽で、偶数は陰なのです。偶数はあまりイイ数字じゃないのです。十六はその中でも『不吉さMAX』なのです。

※用命天皇の病気平癒を願ったとされる元興寺太子孝養像(太子十六歳像)

 ブキミの最たるものが『片岡山飢人伝説』です。
 太子が片岡山に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり『安らかに寝ていなさい』と語りかけた。
 翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て『すでに死んでいました』と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。
 数日後、太子は近習の者を召して『あの人は普通の者ではない。真人にちがいない』と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て『墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました』と告げた。
 太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。
 人々は大変不思議に思い『聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ』と語って、ますます太子を畏敬した。


 聖人なのかもしれませんが(記述に無いので詳細は不明ですが、このエピソードはまるでイエス・キリストの復活のようです)、『死人の衣装を身に着ける』など、ケガレを嫌ったこの時代には『ありえないこと』ではないでしょうか?

 どうも伝説はすべて太子に『死ね!死ね!死ぬのだ!おまえは死ぬ運命なのだ!』と繰り返し言い聞かせているみたいではありませんか?

 実際には太子は享年49歳で病没しており、晩年は孤独だったかもしれませんが、非業の最期ではありません。

 さて、見慣れたお札の肖像は美化されて描かれていますが、どんなお顔をしていらっしゃったのでしょうか?
 法隆寺に太子生身の像とされる『救世観音』なる秘仏があります。現在は公開されていますが、永らく秘仏とされていて『封を解けば伽藍が崩壊する』と信じられていました。
 仏罰を恐れない外国人フェノロサによって封が解かれたのは何と明治になってからでした。

※杏仁形の眼はこのころの仏像全般にみられる傾向ですが、広い鼻梁と厚い唇が特徴的で印象に残ります。

 この救世観音の構造は独特です。表側は立派ですが、裏から見ると身体がありません(!)。着物だけなのです。


 そして光背が頭に釘で打ち付けられています。延髄に釘を打たれて・・・人間ならこれ、即死です。


※フツーは百済観音(右)のように光背用の台座を別に造ります。決して仏様に釘を打ったりはしません!

 構造からしてこの仏像は太子を呪った仏像ではないかという気がします。

 ではなぜ太子を呪い、その力を封じる必要があるのか?

 じつは、推古天皇の病死後の後継問題から子孫(山背大兄王の一族)が皆殺しの憂き目に遭っているのです。

 蘇我蝦夷・入鹿親子と対立した山背大兄王はいったん生駒山に立て籠るも『もはやこれまで』と、生駒山を下り斑鳩寺に入り、塔に火を放ち、その中で妃妾一族もろともに首をくくって自害、伝説では『山背大兄王の一族は燃える塔から西方浄土に向け飛び去った』とされています。

 おシャカ様の一族が滅亡した『カピラ城の惨劇』にも比すべき大事件です。


※(イメージ)惨劇を表す『塔』のタロットカード

 これでは太子の霊が怒り災いをもたらしても納得というものです。

 一族を皆殺しにした蘇我蝦夷・入鹿親子によって数々の伝説が造りあげられ『とても偉大な方で優れた能力があり、一族の滅亡も既定のこととして了解済であった』とまで言われたら、こりゃ化けて出る訳にはいきませんなあ・・・。しかも祟ろうと思っても呪いでその力は奪われています。ここまでやっておけば絶対安泰・・・策略とすれば実に周到といえます。

 周到な策略を巡らした蘇我蝦夷・入鹿親子でしたが大化の改新の直前『乙巳の変』によって中大兄皇子に誅殺され蘇我本宗家は滅びてしまいます。
 やはり太子の怒りは鎮まらなかったようです。

 参考文献:「隠された十字架 法隆寺論」(著:梅原猛 版:新潮社)