内向的性格を生きる

不安と共に生きる
  by mo-ri-tan
(対人緊張・抑うつ感・劣等感を持ちつつ)

反省は不要?

2008-09-06 00:21:35 | 森田正馬先生の本
 『さて、神経質が、あるいは心に満足のある人になるか、あるいは不満煩悶の強迫観念になるかの別れ道は、どこかといえば、上述のごとく、神経質は、物を深く理屈で考える性情であるから、たとえば子供に対しては、どうすれば子供の幸になるか、子供が悦ぶかという方向に考えをめぐらすというふうであれば、心はいわゆる外向的となり、物そのもの・境遇そのものになりきり、没入して、心に拘泥がなくなります。これに反して、子供たちは、自分を何と観察するであろうか。自分は子供に愛情がない、気が重い、不人情であるなどと、いわゆる内向的に、自分の心持ちのみを観察批判すれば、子供と自分との実際の相対的事実を離れて、いたずらに空想のみに耽って、強迫観念がしだいに発展していくのであります。』(現代に生きる森田正馬のことばⅠp.139)

 私は反省のプロだ。いつも反省しているから。でも観察批判は不要らしい。自分は愛情のない人間だと反省していたが、こういう反省はしないほうがいいのかも。でも先週末の反省もあって、今日家に帰ってきたときには、子供たちには優しい気持ちになれた。
 でも、世の中には、少しくらいは反省してくれたらいいのにと思う人もいる。

少々復活

2008-09-02 23:23:22 | 森田正馬先生の本
ここのところ少し調子が悪かったけれども、きょうは6時間寝て、会社でもそれなりに集中して仕事ができたと思う。今日は、朝、このブログに書いたように今日一日に集中していたような気がする。不安で一杯の時というのは、ずっと将来のことを考えていたりしていることが多い。
 でも、相変わらず会議ではほとんどしゃべらない。後輩がリードして色々発言をする中、情けない思いをしていた。やっぱりこの仕事むいてないなーと思ったり。でも、席に戻れば、自分の仕事に集中する。仕事があることはありがたい。
 朝、電車の中では、「現代に生きる森田正馬の言葉Ⅰ」を読む。

 『いたずらに劣等感にとらわれる人は、人の会釈笑いを見れば、人はみな朗らかだが自分はとてもだめだとか、人の飯炊きを見れば、人は器用でなんでもよくできるが自分は不器用でだめだとか、実に上手に手際よく他人と差別を立てて、自分をへこますことがうまいのである。
 それをいちいち自分を価値批判せずに、自分はもって生まれたこれだけの者と決めてしまうときには、そこには人が笑えば、自分もその真似をして、会釈笑いをし、お世辞の一つもいう稽古をするとか、飯炊きでも、自分は不器用であるから、人の真似をし、人に習って、これを稽古するという気持ちになり、はじめて向上心も安心立命もできるようになる。』(p.34)

 前にも引用した箇所かと思いますが、きょうはこの「価値批判せずに」というところが印象に残りました。自分の頭で色々解釈するというのは、事実唯真と反対の姿勢。事実を自分の解釈で染めてしまうことだから。といいつつ、会議で発言しない自分を駄目なやつと批判してしまっているのですけれどね。

「あるがまま」

2008-06-08 07:51:13 | 森田正馬先生の本
 『強迫観念の本を読んで、「あるがまま」とか、「なりきる」とかいうことを、なるほどと理解し承認すればよいけれども、一度自分が「あるがまま」になろうとしては、それは「求めんとすれば得られず」で、すでに「あるがまま」ではない。なぜなら「あるがまま」になろうとするのは、実はこれによって、自分の苦痛を回避しようとする野心があるのであって、苦痛は当然苦痛であるということの「あるがまま」とは、まったく反対であるからである。』(現代に生きる森田正馬の言葉 Ⅱ p.24)

 森田療法でわかりにくいのが、この「あるがまま」ではなかろうか。不安になったりすると、心の中で「あるがまま、あるがまま」と呪文のように唱えるというのをよくやっていた。しかしながら、これは上記森田先生のことばにもあるように、「あるがまま」になろうとすることであり、「苦痛を回避しようとする野心」なわけである。
 では、あるがままとはどうするか。自分はこの性格に生まれてしまったんだから、このような苦痛を味わうのも仕方がないと諦めることだろうか。そんなことを考えていた。苦痛に対しては無力である、自分では何もできないという諦めが大事なような気がしている。
 で、苦痛はそのままにして、私は今、月曜日までに仕上げなければならない仕事上の宿題をやっている。休日にこんなことをするよりも、遊びに行きたい気もするのだが、これも仕方がない。境遇に従順であるしか、仕方がない。

神経症が「治る」とはどういうことか

2006-07-24 00:14:48 | 森田正馬先生の本
 『森田先生 たいていの人は、主観的な気持ちの上でよくなるよりは、客観的な事実においてよくなる。本人が気づくのは、ずっと遅い。
 某氏 それでは、自分で治ったと思うのはどうですか。
 森田先生 ここでは一切、自分の気分や想像で、「よくなった」とか、「わかった」とかいうことは問題にならない。ただ治ったという事実だけが大切です。体重が増したとか、終日よく働く、気転が利くようになったとかいう事実を観察して、はじめて治ったということが、決まるのであります。』(現代に生きる森田正馬のことばⅡ p.70)

 これを読んで、大変うなりました。あまりに森田先生が明確にばっさりと言い切っているので、気持ちがいいくらいです。自分の状態が良くなってきたとか、森田療法がわかってきたとか、そういう主観的なところで、自分の治り具合というものを判断しがちなところがあります。少なくても私はそうでした。けれども、そういうことは、治るということとは全く関係ないのだ、という指摘です。
 だとすると、落ち込んだとか、そういうことよりも、事実できたことはなんだろうかとか、自分に対する見方も変わってくるのではないかと思います。

「前に謀らず、後に慮らず」

2006-07-20 23:50:17 | 森田正馬先生の本
 きょうも出張でした。あまり親しくはないけれども、少しは話をする程度の人がいて、その人と2人きりで途中まで帰ることになりそうだったので、「ちょっと用事があるので」と嘘をついて、途中で別れてしまいました。でも、こういう場面で、用事があるふりをして、別々に帰るということは、他の人でも結構やっているんじゃないでしょうか。そんな言い訳を考えつつ、結局は逃げているかなとも思ってはいるのですが。

 『そこで、「前に謀らず、後に慮らず」とは、たとえば、私が自分がこんな病気がなかったら良かろうに、あの大正十年に、流感をおして講演をやらねばよかったのに、さては一昨年、あの夜、活動写真を見に行かなかったら、肺炎にもかからなかったろうに、とか既往の失策の繰り言をいわないのを「前に謀らず」といいます。「後に慮らず」とは、自分は旅行の途中で、ついに大患にかかったら、九州で死ぬようなことがあっては、というふうに未来の取り越し苦労をしないことである。結局は自分が欲望に乗り切るために、その現在現在において、戦々恐々、注意に注意をして、間違いのないようにし、そのうえもしいけないことがあれば、それは天命であって、倒れて後やむのみである、というふうに、そのときどきの現在になるのである。』(現代に生きる森田正馬のことばⅡp.63)
 
 きょうはここのところが気に入りました。というのは、私はいつも後悔ばかりしているからです。それで気持ち的に凹んでしまいます。まあ、すぐには難しいかもしれませんが、「前に謀らず、後に慮らず」、毎日を過ごしたいと思います。

メールの効用

2006-07-20 00:46:02 | 森田正馬先生の本
 最近では、ほとんどの連絡事項等をメールで済ますことが多くなりました。苦手な人に直接話をしないですむので、大変重宝します。しかしながら、直接だったら決して言わないであろうことを、メールだったら言えてしまうという怖さがあります。私もそのような失敗の経験があります。それが原因で人間関係がうまくいかなくなったこともあります。
 普段大人しい人でも、車に乗ると態度が一変することがある、という話を聞いたことがあります。これなども、自分が相手から直接顔を見られないという、秘匿性がなせる業と言えるかもしれません。

 『腰を軽くするということは、ここの修養法で容易に体験できることであるが、入院中の読書法によっても、よくこのことがわかる。それは忙しい仕事の暇々に、一、二分の時間でも本の開いたところの二、三行でもよい、でたらめに読むというやり方である。こんな簡単なことを実行すれば、わずかの日数で、従来のように見積もりばかり立てておっくうに思い、少しも手をつけることのできなかったものが、打って変わって、寸陰を惜しみ、倒れてもただでは起きぬというふうに、知識欲に駆られて、いくらでも読書ができるようになる。これは実行して体験しなければけっして想像や理論でわかることではない。』(現代に生きる森田正馬のことば Ⅱ p.53)

 今日は、ここのところがとても気に入りました。今日は会社帰りに病院に行ったのですが、受付時間終了間際だというのに、待合室には診察を待つ人々で一杯になってました。しばらく時間がありそうだったので、仕事の本をまったく「でたらめに」広げて読んでいました。そしたら、少し調子が乗ってきて、少し喫茶店によって、少しばかり勉強をしてから家に帰りました。
 私たち神経質者は、いつも「効率よく」読書をしようとします。一度読んだ文章がきちんと頭に入っているかどうか不安になります。なので、途中まで行くと、また最初から一文字一文字、理解していないところがないように、慎重に読み進めようとしてしまいます。だから、ついおっくうになってしまって、先延ばしにしたりします。
 森田先生の書いてらっしゃるようにまずは、「でたらめ」に読むということの大切さを知りました。これならばできそうです。

弱くなりきる

2006-07-18 22:27:17 | 森田正馬先生の本
 今の私は予期不安で一杯です。今の職場には仕事のものすごくできる先輩がおり、私はその人の補助的な仕事を少しばかりしているだけで、ほとんどすべての仕事をその人が処理してくださっています。その先輩は、自分の専門の仕事ができるというばかりでなく、人との交渉にも優れていて、他の人からも大いに頼りにされています。もし、この人が管理職にでもなって、私が今の先輩の仕事を引き継ぐようなことになったらどうしよう、というのが目下の最大の心配事なのです。そうならないうちに、部署変更を上司に依頼しようかと逡巡しているところです。
 専門知識を必要とし、部長、課長たちがたくさん集まるような場所で、色々発表したりしなければならない仕事なんて、できっこない。そういう予期不安です。
 仕事を変えることは、逃げなのだろうか、それとも自分の適正を見極めた上でのことなのだからいいんじゃないか。そんな考えの間でゆらいでいます。

 『なお赤面恐怖の人に、一言注意したいのは、自分が小さい、劣等である、どうにもしかたがないと、行づまったときに、そこに工夫も穂法も、尽き果てて、弱くなりきる、ということになる。このときに自分の境遇上、ある場合に、行くべきところ、しなければならぬことなどに対して、静かにこれを見つめて、しかたなく、思いきってこれを実行する。これが突破するということであり、「窮して通ず」ということである。すなわち「弱くなりきる」ということは、人前でどんな態度をとればよいかという工夫の尽き果てたときであって、そこにはじめて、突破・窮達すということがあるのである。
 この「弱くなりきる」でなく、たんに付け焼刃で、空元気で突破するというときは、たまたまこれが成功して、自分もやれば、やれるものということを知り、恐怖が軽快したようになるけれども、これは再発を免れないのである。』(現代に生きる森田正馬のことばⅡ p.43)

 今までは、「付け焼刃」でなんとかやってきました。空元気で突破できないときには、非常に落ち込んで、長い時間かけてその落ち込みから脱する、というような繰り返しだったような気がします。

「あるがまま」

2006-07-15 01:32:21 | 森田正馬先生の本
 『さて、ここにみなさんに、十分注意してもらいたいことは、自分自身を、そのあるがままに認めることです。自分は五尺何寸であるとか、体重幾貫目とか、貧乏に生まれたものとか、人前では、ぎこちなくなるもの、自分は小人であって、飾り、言い訳し、取りつくろいたくなるものとか、何かにつけて、利害得失に惑うものなど、素直にそのまま、正直に認めておくことです。』(現代に生きる森田正馬のことばⅡ p.16)
 
 『佐藤くんが私の著作を読んで、「あるがまま」ということにとらわれ、ますます苦悶を重ねたということがあるが、それは自分で、「あるがまま」ということを工夫し詮索したからである。「あるがまま」といわれるままにハハアなるほどと受け取りさえすればよい。』(同 p.21)

 『強迫観念の本を読んで、「あるがまま」とか、「なりきる」とかいうことを、なるほどど理解し承認すればよいけれども、一度自分が「あるがまま」になろうとしては、それは「求めんとすれば得られず」で、すでに「あるがまま」ではない。なぜなら「あるがまま」になろうとするのは、実はこれによって、自分の苦痛を回避しようとする野心があるのであって、苦痛は当然苦痛であるということの「あるがまま」とは、まったく反対であるからである。』(同 p.23)

 「あるがまま」については、つい先日も書きましたが、本を読むうちに少しずつ少しずつ理解が深まっていくことなのかもしれません。
 相手から見下されること、変な奴だと思われること、低く評価されること、そういうことが嫌で嫌でたまらず、つい虚勢をはってしまいます。少しでも明るい人と思われたい、優しい人間だと思われたい、ということで、そのように振舞ったりしてしまいます。自分自身をあるがままに認めるということと、まさに対極の状態です。
 最初に取り上げた森田先生のことばの中で、『正直に認めておくことです。』というのが、何となく腑に落ちます。積極的に「認める」のではなく、「認めておく」。ここにはどこか受身的な表現が感じられますが、結局はがんばって認めるものではなさそうです。
 「あるがまま」、というのは森田療法では最初の一歩。『自分の苦痛を回避しようとする野心』がまだまだ大きいのですが、まあ回避しようとしてしまう自分も含めて、それはそれとして、自分の本来のなすべきことをやっていきたいとは思っています。

休息は仕事の中止に非ず、仕事の転換にある

2006-07-13 23:58:58 | 森田正馬先生の本
 昔は朝から深夜までずーっとテレビを見続けていることがよくありました。やるべきことがあるのにもかかわらず、手に付けることをどんどん先延ばしにして、結局何もやらずに1日を過ごしてしまうのです。そんな日々がどれほどあったことでしょう。
 最近はテレビを見続けることはそんなに多くはなくなりましたが、意味もなくインターネットでネットサーフィン(最近は死語なんでしょうか..)していることがよくあります。
 
 森田先生語録に、次のようなことばがあります。
 『休息は仕事の中止に非ず、仕事の転換にある』
 『家内は、いつも「あまりせわしなくしなくとも、お茶でも飲んで、一休みすればよかろうに」というけれども、もしそうすればがっかりして、仕事に手も出なくなってしまう。それが私のようなやり方にすると、「休息は仕事の中止に非ず、仕事の転換にあり」というふうに、いつの間にか心が引き立って、疲労を忘れ新しい元気が出て、それからはじめて、お茶を飲みながら、勉強にとりかかることができるのである。』(現代に生きる森田正馬のことばⅠ p.246)

 森田先生の奥様のことばが、なるほどもっともだと思ったりもします。 

 『登山のときにも、やたらに休んではいけない。ゆっくりゆっくり登ることが大切です。休むときも立ったままで休むほうがよい。穴掘りでも、詳しくいうと長くなるからやめるけれども、休まないで、仕事の緩急を調節しなければならない。』(同 p.271)

 休まないで、ゆっくりでもいいから仕事をやり続ける。これは森田先生が体験の中から見出した一つの法則なのでしょう。私の場合には、何かをやり始める前に、まずは一休みすることが多いのです。ただ、その一休みが、往々にして長休みになってしまうのです。
 
 『神経質は惰性が強くて、仕事の転換なども、なかなか難しい。それは価値批判にとらわれて、心の葛藤が強いからである。』(同p.251)

 神経質者にとって、仕事の転換は難しいとわかっておられながら、それを神経質者に求めている。心が外に向いていくためには、そういうことが大切なのでしょう。少し意識していきたいと思っています。


自分の能力に対する疑惑

2006-07-12 20:59:14 | 森田正馬先生の本
 『素直・従順・「はからわぬ心」とかいうのは、「自然に服従し、境遇に従順なる心」である。
 たとえば、親や師に戒められ、命ぜられることは、あるいはこれを無理と思って、腹立たしく、疑わしく、反抗の気分が起ころうとも、まずそのままに、仮に、試みにそのいうとおりに従うことである。また自分の職務や事業に対しては、あるいは人に対する不平・呪いやあるいは自分の能力に対する疑惑・不安があろうとも、そのままに、自分の仕事に、その日その日と、かじりついていくこと、またあるいは頭重や不安の悩みがあっても、医者が診断して、勉強してもさしつかえなしといえば、疑い懼れながらも、まず試みに、その医者のいうとおりにする等のことが、すなわち素直な心である。』(現代に生きる森田正馬のことばⅠ 白揚社 p.171)

 『自分の能力に対する疑惑・不安があろうとも』というのが今の自分の励みになります。自分の能力に対して、甚だしい疑惑を持っています。職場を変えてもらおうかとも思ったりもしています。けれども、結局はなんとか会社に行き続けています。自信などまるでないのですが、仕方ありません。

 昨日、出張でした。どういうルートで帰ろうかということで迷った末に、ある選択をしたのですが、結構時間がかかってしまい、あっちのルートにすべきだったと散々後悔しました。こんなことは日常茶飯事。いつも後悔しているところがあります。けれども、その後悔で一杯になりつつも、試験勉強もしなくてはならないからテキストを広げて読んでいました。これが「あるがまま」というものかな、とも思いつつ、そんなことを考えているうちは、実は「あるがまま」ではないんだろうな、とも思いつつ。