三十路の憂鬱

或る三十代、世の乱れを憂い、
時折、思索巡らせ、戯れ言のたまう

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2006年

2006-07-19 23:47:31 | 戯れ言
…ここのところ、何やら、
世界情勢に、きな臭さが漂いはじめているような気がする…


…追い詰められた北朝鮮が、ミサイルを発射し、更に孤立を深め…

…インドで大規模テロが発生し、印パ関係に亀裂が走り…

…イラク情勢は混迷し…

…イスラエルは兵士拉致を契機に、ガザ地区・レバノンへと大規模侵攻し…
…アメリカは相変わらず、そんなイスラエルを支持し…


…今年は、2006年…

が、現実のものとならなければ良いが…。



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女尊男卑

2006-03-03 23:55:05 | 戯れ言
先日、少子化問題についての、とあるスピーチ記事を読んだ。

読んでみたが、あくまで「女性」という視点からのみ見た、
育児休業の「要求」のための理屈付けにしか見えない。

「要求」する側からの視点だけではなく、例えば男性側や、
(実際に要求されるであろう)企業や行政側からの視点も持ち、
事象を多面的・多角的に捉え、WIN-WINな解決策を導き出そうとする姿勢を、
何故持ち得ないのだろうか。

自身としては、男女の「法の下の平等」は、然りと考える。

但しこういった、女性への「偏向」を持った(全体視野を欠いた)ものは、受け入れ難い。


これに限らず、
「女性」を唱える活動の内容を見てみると、
両性平等と称し、実際には「女尊男卑」、
全体視野に欠く一方的内容を主張するパターンが多いのには、
何とも辟易する。

(こういった手合いが、社会に蔓延する、
「女性限定」「女性専用」などと称した「女尊男卑」を攻撃しないことは、
その活動が男女「平等」を志向しない
一方的なものであることの証左であろう。)


例えば、女性議員の数が少ないとして、
「クォータ制」なるものを導入せよ、と主張する輩がいる。

これなど、明確な女尊男卑だろう。

議員(政治家)など本来、
実力・資質のあるものが、選挙等でその主張を訴え、
より多くの支持を集めた者が、晴れてなるものだろう。

そこに、男女の差などない。

それを、単に数の問題と捉え、
「格差があるから補正せよ」などと。
明確に、女尊男卑の要求ではないか。笑止千万である。


そもそも、「大志を抱く者が少ない」という本質的問題を、
何故解決しようとしないのだろうか。

クォータ制など、
例えばこういった学校の受講者の男女構成比率が1:1になって、
さらに(実際の社会進出までの期間として)20年程度経ったにも関らず、
なおかつ議員の男女構成比率が全く改善されないことが
確認されてから、言って欲しいものである。


ビジネスにしても、そうである。
例えば育児休業等、
既存の企業に様々な「要求」を突きつけるのではなく、
ビジネススクールでも何でも行って学んで、さっさと起業して、
その事業の中で、育児休業でも何でも、
実現可能なモデルを現出させてしまえば良いのである。

折も折。
介護ビジネスはじめ、新たなる第三次産業
興隆が始まっている昨今。
ビジネスチャンスは、そこら中にある。

まして、人と人とがコミュニケーションするような仕事では、
女性の方が有利というもの。
(法の下にはどうあれ、生物学的には、やはり男女に差はある。)

多くの女性起業家が生まれ、
お客様にも従業員にも女性にも男性にも社会にも優しい企業を、
多数輩出させていけば、
いずれは社会進出における「性差」などというものも、
自然に解決するものと思う。


男女の「法の下の平等」は、然りと考える。

だが、「平等」から先は、個々人の努力が必要である、と考える。


「女性=弱者」ではない。
現に、一流企業の会長になった女性や、
議員・閣僚として活躍している女性もいる。

故に「男女平等」施策は、社会的弱者への対策とは、
趣を異にするものであろう。
(社会的弱者については、男女の別ない施策が
執り行われれば良いものと考える。)


「女性よ、大志を抱け。」

「女性」という名の「自分達」の幸せのみを「要求」していくのではなく、
大局を捉え、自ら社会の未来を主体的・主導的に「開拓」し、
女性限定ではない、「みんなの幸せ」を実現して欲しいものである。



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未来への責務

2005-10-10 12:09:21 | 戯れ言
半年ほど前、「環境文明21」なる団体のシンポジウムを見に行った。
曰く、憲法に第4の柱として、「環境」原則を導入すべし、とのこと。

確かに、法律に「環境」を定義することは、とても重要だと思う。
…ただ、「環境」だけで、ここまでこってりと憲法に盛り込む、というのは、どうだろうか。

憲法に盛り込むのであれば、もっと大局的見地から見た文言であるべき、と考える。
「環境」原則ではなく、例えば、「未来への責務」原則とし、
その中で、環境権についても言及する、とか。


文言を考えてみた。

-----

日本国憲法への「『未来への責務』原則」導入提案



前文
(原文からの変更部分は「」で囲んでいる。)

(前略)

日本国民は、恒久の平和「と幸福」を念願し、
人間相互の関係を支配する崇高な理想「と、未来への責務」を深く自覚するのであって、
平和「と幸福」を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
われら「とその子孫」の安全と生存「と幸福」を保持しようと決意した。
われらは、平和「と幸福」を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、
名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏「、搾取と貧困」から免かれ、
平和「と幸福」のうちに社会に生存する権利「と、それを維持する責務」を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国の「現在の」ことのみに専念して「、」
他国「や世界、全世界の国民や未来への責務」を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、
自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

(後略)



第四章 未来への責務


四の一条 (全世界の国民への権利と責務)
全世界の国民は、何人も、ひとしく恐怖と欠乏、搾取と貧困から免かれ、
平和と幸福のうちに社会に生存する権利と、それを維持する責務を有する。

②前項の目的を達するため、何人も、国及びその機関も、
恒久の平和と幸福を念願し、安全と生存、平和と幸福を維持し、
また、恐怖と欠乏、搾取と貧困、専制と隷従、圧迫と偏狭を
地上から永遠に除去しようと努める責務を有する。


四の二条 (地球環境への権利と責務)
何人も、国及びその機関も、地球の営みによって形成された生命の基盤である
健全で豊かな環境の恩恵を享受する権利を有するとともに、
この環境を保持し、且つ子孫に継承していく責務を有する。


四の三条 (人類社会への権利と責務)
何人も、国及びその機関も、人類の営みによって形成された人類繁栄の基盤である
健全で豊かな人類社会の恩恵を享受する権利を有するとともに、
この社会を保持し、発展させ、且つ子孫に継承していく責務を有する。


四の四条(予防原則)
国及びその機関は、
未来に重大かつ回復不能な影響を及ぼすおそれがある事態に対しては、
未然に防止することを基本とする予防原則に立脚しなければならない。

②前項の目的を達するため、科学的知見に不確実性があった場合には、
その中での最悪の可能性を想定し、予防策を講じなければならない。


四の五条(国際協力)
何人も、国及びその機関も、
平和と幸福を愛する諸国民諸国家や国際社会の公正と信義を信頼し、
共に手を携え、未来への責務を果たしていくべく、努めなければならない。

-----


この憲法下で、改めて環境基本法を制定すれば、
システムとしてうまく機能するものと思う。

憲法を改正しようとするのであれば、
このような、大局的見地に立って欲しいものである。


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未来予想図

2005-08-15 12:34:56 | 戯れ言
以前、日本やアジア、世界の未来を考えてみたことがある。


一世紀後(西暦2100年頃)。
日本は、国という形では存在せず、
東亜合衆国(或いは東亜連邦)の中の、
一つ(或いは二つ。西日本と東日本)の
州(或いは省)となっている。

言語は、地球語(共用語。英語ベース?)と
地域語(日本地域では日本語)が用いられている。
地球語は、国連で決議され、世界的に教育・利用されていて、
地球語を用いて、(特に何の苦労も無く)全ての人々と会話できることが、
当たり前の事となっている。
相互の理解不足による紛争は、当然、発生しなくなっている。

地球の開拓は終了し、
開拓者の目は、地球の外(宇宙)へと向けられている。
太陽系の開拓が進行し、また、
太陽系から近い恒星系の調査が始まっている。
従って、地球上で無闇に利権を争う者は、いなくなっている。

社会システムは、社会民主主義(社会資本主義)がベースとなるが、
次のような特徴がある。

 ・労働の過半が機械化されている
 ・国家による所得分配システムが確立されている

機械・ロボット・アンドロイドの類が進化し、
開発等、高度な知識・複雑な動作を要求される仕事以外
(生産・運搬・販売、単純なサービス等、単純労働の類)は、
全てロボット類でこなすことができるようになっている。

従って、労働対価による所得(富)の分配というシステムでは、
うまく所得を分配できなくなってしまう。
そこで、国家によって所得が分配されるシステムが確立されている。

具体的には、全ての国民(富裕層まで含む)に、
例えば、(森永卓郎氏の提唱する)年収300万円生活相当の資金が、
毎月(或いは毎週)単位で、国家より支払われる。
(或いは、年収400~500万円相当の資金を
供給できるようになっているかもしれない。)

分配は、全国民に等しく行われるため、
「貧困」という概念が、過去のものとなりつつある。

財源は、各種基幹税の大増税によって実現される。
(他方、細々とした税は全て廃止され、徴税にかかるコストは低減されている。)
特に、法人税は、現在のシステムからは想像もつかないくらいに、
高率の税が課されることになる。

但しそれでも、企業・法人は、
労働者(まだ、製品開発等、高度の知能を要求される仕事は
人が行う必要がある為、労働者も存在する)に
富裕な生活(当然、働く者は働かない者より良い生活ができる)を提供し、
その上で十分な利益を残す事ができる。
なぜなら、(これまで単純労働者が負担してきた)単純労働を
ロボット類が負担することになり、
単純労働にかかるコストが抜本的に低減され、
また、それらを動かすエネルギーについて、
太陽エネルギーを基点とした各エネルギー
(現在、新エネルギーとよばれているものや、水力)、及び地熱で、
全てを賄うことができるようになっていて、
エネルギー確保にかかるコストも小さくなっているためである。

また、企業・法人は、高率の税に反対しない。
なぜなら、所得が分配され、消費が発生する仕組みがないと、
経済が停滞し、利益があがらなくなる、ということを理解しているからである。
(現在の経済システムとは、経済の成立のさせ方に違いがある。)
企業・法人は、現在より、その公益性が増加する。

それでも、社会的に必要でも、全ての企業・法人が
撤退してしまうような事業が、いくつか出てくるが、
これについては、公社を設ける等して、対処される。
(また、単純で創造性・変化・競争・コスト意識等の必要ない事業は、
国家事業として集約されていく。)

義務としての労働(生活の必然としての労働)から解放された多くの人々は、
それぞれに、幸福な人生を謳歌している。
(勤務地による生活圏拘束が無いため、)人口は都市から地方へと分散するようになっている。
また、多種多様なコミュニティやカルチャーが発生し、人々の生活を豊かにしている。

人口数については、
多種多様なコミュニティやカルチャーに人生の価値を見出す人が増加、
他方で結婚や出産・子育てに人生の価値を見出す人の数が減少し、
少子化傾向が継続している。


三世紀後(西暦2300年頃)。
地球政府が樹立され、
人々は全世界をパスポートなしで
行き来する事ができる。

ロボット類は「機械生命体」と呼ばれるようになっていて、
人類に匹敵する(或いはそれ以上の)知能を持っている。
(生活の必然としての)労働は、製品開発や、複雑なサービスまで、
全て機械生命体が行うようになっているのはもちろんのこと、
様々なコミュニティやカルチャーまで、
機械生命体が進出している。

宇宙開拓は、太陽系の外へと向かっている。
これらは、機械生命体の手によって行われている。
(人類は、行動に際し様々な制約条件がつくため、
条件の過酷な太陽系外には、実質出て行けない。)

文明の主な担い手は、(政治・経済含め、)
人類(有機生命体)から機械生命体へと、
バトンタッチされつつある。

全ての人類は、機械生命体の生み出す膨大な富や労働により、
貴族のように裕福な生活をしている。
全員に富裕な生活が保障されているため、
人々はそもそも、利権を争う理由が無くなっている。

他方で、結婚や出産・子育てに人生の価値を見出す人の数は更に減少、
追い討ちをかけるように、機械生命体を伴侶として生きる人が増加、
少子化が急激に進行し、「種の保存」が課題になりつつある。


十世紀後(西暦3000年頃)。
文明の担い手は、(政治・経済含め、)人類(有機生命体)から機械生命体へと、
完全にバトンタッチされている。
文明は、もはや人類に理解できないほど、高度に発達している。

宇宙開拓は、さらに進んでいて、
少なくとも太陽系を中心とした数十の星系に及んでいる。

或いは、異星人を発見しているかもしれない。

他方、(機械生命体にとって、)
地球(という惑星)の重要性は、相対的に低下している。

人類は相変わらず、地球で貴族のように裕福な生活をしている。
人口数は「絶滅危惧種」と言えるほどまで減少していて、
人為的に種の保存が行われている。

…機械生命体から見れば、地球はもはや、
巨大な動物園・植物園のようなものかもしれない…。


上記は、あくまで一つの予想に過ぎず、実際にそうなるとは限らない。

ただ、社会・経済・技術等、人間社会のシステムは、
究極的に、「恒星(太陽系においては太陽)のエネルギーを、
より効率よく人類の幸福へと変換するシステム」を
目指していれば、おそらく、うまくいくのではないか、と考える。

どんな形であれ、みんなが幸せになれる社会が構築されれば、と思う。



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みんなのために

2005-07-24 17:51:58 | 戯れ言
いま、世の中のあちこちで、
「自分のために」「自分達のために」が、
横行しているように感じられる。

失業増加や労働環境・労働条件の悪化、貧富の差の拡大、
自殺者・精神病患者の増加、犯罪・準犯罪の増加、犯罪助長表現の蔓延、
高利貸しの横行、利益追求型宗教の発生・拡大、
国家財政の破綻、国家間紛争の増加、テロの増加、地球環境の悪化、等々…。

いずれも、個人や(企業・国家等の)組織が、
「自分のために」「自分達のために」のみをストイックに追求し続け、
人類社会の蓄積や地球の蓄積をも、私利私欲のために浪費し続けた結果だろう。


もっと、「他人のために」「みんなのために」を、考えるべきなんだと思う。

さもないと人類は、各種蓄積を使い果たし、いずれ大崩壊の憂き目に遭うような気がする。


我が母によれば、
「半分は自分のことを考え、半分は他人のことを考えなさい」
とのこと。

言い換えれば、
持てる力(能力・財力その他)の半分を自分・自分達のために使い、
あとの半分を他人・みんなのために使え、ということだろう。

もし、持てる力の自家消費を3割に抑え、
あとの7割を他人・みんなのために使ったとすれば、
その人生は、かなりかっこいいものだと思う。

また、「WIN-WIN」の発想をうまく使えば、
「自分・自分達のために」と「他人・みんなのために」を、
より高次元で両立できるものと思う。


政治・行政については、更に「みんなのために」を指向していなければならないと思う。
「みんな」のお金を税として預かっているのであるから、これは当然と言える。

ところが実際には、「利益代表(=自分達のために)」が、横行しているようである。
投票率低下もあって、選挙では「組織票」が、相変わらず支配的である。

我が父など、「利益代表で何が悪い」などと、居直ったような論調で言ってくる。
これがもし、上の世代の一般的な考え方であるのだとすれば…
…何とも、情けない限りである。


いずれにしても、今の世の中には、
「他人のために」「みんなのために」が、不足しているように感じられる。

もっとみんなで、「他人のために」「みんなのために」
「他人の幸せ」「みんなの幸せ」ということを、
真剣に考えてみても、良いと思うのだが…。



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新エネルギー

2005-06-26 11:40:32 | 戯れ言
最近、地球温暖化が顕著になりつつある。

先般、京都議定書も発効、
政府もいよいよ、どうにかこうにか目標達成しようと必死である。

例の万博でも、「環境」は、メインテーマである。


さりとて、ひとたび得た利便、
如何に地球環境のためとはいえ、そうそう簡単に手放せるものではない。

そこで、利便と地球環境を両立するためには、
使用するエネルギー源を、石油等の採掘によって得る資源(再生不可能)から、
再生可能なエネルギー源(代替エネルギー)に切り替えていかなければならない。

そう。使用するエネルギー源が再生可能であれば、利便と地球環境は両立し得るのである。

そこで、この「再生可能エネルギー(Renewable energy)」の開発・普及こそが、
地球温暖化問題に対する、最も基本的かつ重要な対策である、と考える。


この「再生可能エネルギー」の中から水力と地熱(既に実現しているもの)を除いたものを、
政府では「新エネルギー」と呼び、様々な普及活動を行っているようだ。

もちろん、例の万博にも、出展している。


しかしながら現実には、普及への大きな壁が立ち塞がっている。
それは、「コスト」である。

実際、まだ普及開発は端緒についたばかりで、
長期にわたり実績のある化石燃料等の既存(再生不可能)エネルギーに比べ、
その供給価格は、どうしても割高になってしまう。


この状況への切り札となるのが、環境税(炭素税)である。

要は、コスト面の不利を、税制上の傾斜配分でカバーし、

 再生不可能エネルギー供給価格+環境税 > 再生可能エネルギー供給価格(こっちは無税)

としてしまえば、いいだけのことである。

こうすれば、エコロジー(再生可能エネルギーの使用)と
エコノミー(財布にやさしい)が、直結することになる。


当然、既存エネルギー業者は、こういった税制には反発するだろう。
(それこそ、既存エネルギー業者からしてみれば、お家の一大事である。)

しかし、そこは「環境対応税制である」の一点張りで押し切り、
逆に既存エネルギー業者の、再生可能エネルギー業への転換・転業に様々な支援を出したり、
環境対応税制への移行を漸進的に行う(ことで既存業者に時間的猶予を与える)等することで、
既存エネルギー業者の転業生き残りと再生可能エネルギーの普及を両立(WIN-WIN)すれば、
比較的スムーズに移行できるのではないか、と考える。


健全な地球環境を子孫に遺すことは、現世代の責務である。

この、新エネルギー普及の流れがより力強さを増し、
いずれは使用するエネルギーの全てが
再生可能なものとなる日が来れば、と、切に思う。


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日系

2005-06-18 12:26:18 | 戯れ言
先日、新聞を読んでいて、「レバノン系ユダヤ人」なる表現を見かけた。

その記事には他にも、「○○系ユダヤ人」なる表現がいくつかあって、
それをもってイスラエルの人種の多様性云々と書いてあった。

この記事を読んで、
「結局イスラエルではユダヤ人に非ずは人に非ずか」と感じ、がっかりした。
そんなこと言ってるから、パレスチナ人その他、アラブ人を受け入れられないのだ、と。


しばらく経ったある日。

ふと、この表現を思い出し、同時にあることに気が付いた。

「…『○○系△△人』って表現、使えるなあ…」、と。


具体的には、

 日本人 → 日系アジア人
 韓国人 → 韓国系アジア人
 朝鮮人 → 朝鮮系アジア人
 中国人 → 中国系アジア人
 台湾人 → 台湾系アジア人

と読み替えてみると、「アジア人同士」みたいな感じで、
とても親近感が湧くような気がする。


同じ要領で、

  アジア人 → アジア系地球人
  アラブ人 → アラブ系地球人
 アフリカ人 → アフリカ系地球人
   欧州人 → 欧州系地球人
  ロシア人 → ロシア系地球人
   北米人 → 北米系地球人
   南米人 → 南米系地球人
   豪州人 → 豪州系地球人

と読み替えれば、いよいよ地球全体、地球人同士であるし、

 日本人 → アジア系地球人
 韓国人 → アジア系地球人
 朝鮮人 → アジア系地球人
 中国人 → アジア系地球人
 台湾人 → アジア系地球人

みんな揃ってアジア系地球人、と。


或いは、もっとストレートに、

   日本人 → 日系地球人
   韓国人 → 韓国系地球人
   朝鮮人 → 朝鮮系地球人
   中国人 → 中国系地球人
   台湾人 → 台湾系地球人
   印度人 → 印度系地球人
   米国人 → 米国系地球人
  ユダヤ人 → ユダヤ系地球人
パレスチナ人 → パレスチナ系地球人
  (以下長くなるので省略)

としてしまうのも、良いと思う。


政治的には、諸課題あって、いろいろ面倒臭いのかもしれない。

だが、例えば草の根的に、こういう読み替え遊びをしてみる、というのは、
手軽に親近感が湧いてきて、良いような気がする。

また、こういう草の根的な遊びの先に、
出身地に関わらず、普通に仲良くなれる世界が
現れてくれればなあ、とも思う。


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定格値

2005-05-22 06:59:11 | 戯れ言
先日、JR西日本が、107名の人を殺した。

また最近、人を殺したり、
殺人には至らないものの、一歩間違えば殺人へとつながるようなミスが、
JR西日本に限らず、航空・運輸関連その他、数多く見受けられる。


共通しているのは、経営層の「限度」「限界」意識の欠如と、
それに伴うシステムや人の破綻・崩壊だろう。


エンジンでもモーターでもCPUでも何でも、装置と言われるものは大概、
「定格値」と「最大値」の二つの限界性能値を有する。
定格値は、継続して出せる限界性能値、
最大値は、瞬間最大に出せる限界性能値であり、
一般に、定格値<最大値である。

仮に、最大値を継続して使用するようなこと
(例えば、エンジンをレッドゾーンで回し続けるようなこと)があれば、
その装置は大概、ストレス蓄積に耐え切れず、壊れてしまう。


これは、組織(業務システム)や人(個人)についても言えるんだと思う。

元々、定格値をはるかに下回る領域で動いている組織や人であれば、
効率化・合理化の旗印の下、作業量等を定格値へ近付けるアプローチは、正しいんだろう。

ただ、定格値を超えてしまうような領域で、
更に効率化・合理化を図ろうとすると、無理が生じ、
短期的には成果が出るものの、
中長期的に見て、ストレス蓄積に耐え切れなくなり、破綻をきたす。


本来、この状態にならないために、
経営層は絶えず社内外から情報を集め、破綻の予兆を察知、
例えば経営計画の見直しや、人員・設備の補充強化(定格値の向上)等、
定格値超えを防止しなければならないはずである。

しかし、「限界は超えるもんだ」と勘違いし、
組織や人の状態に目もくれず、むしろ情報を恣意的に取捨選択・解釈し、
組織や人の持つ(顕在・潜在含めた)能力の上限を無視した、
無限にエスカレートする数値目標のみを強引に設定、
立場の優位を盾に、それを現場に押し付ける、
といったことをやってのける輩が、
経営者に就いてしまうような事態が、しばしば発生する。

経済成長期であれば、人員も設備も、半ば自動的に補充される
(従って定格値も半自動的に上昇する)ため、
こういう輩でも、何とか経営を維持できたのかもしれない。

(また、かつては労働組合も強かったので、
それが労働強化抑止という形で、定格値超えを防止していたのかもしれない。)

しかし、現在のように経済が成長していない局面では、
人員・設備のリストラ(定格値の縮減)と、
強引な数値目標の設定(要求値の増大)を、
同時に現場に押し付けるため、
ごく短期間で定格値<要求値となり、
短期的には成果が出るものの、破綻もまた、時間の問題となる。


今のJR西日本やJALなどは、おそらく、この「破綻状態」にあるんだろう。
破綻しているが故、次から次へと不祥事が…。

たまたまこの2社は破綻が人命に関わり、安全が重視される故、特に注目されているが、
この2社の他にも、破綻している会社は、実は数多いものと思う。


鬱病その他、精神を患う人も増え、
自殺者も、年間3万人を超す勢いである。
犯罪も増加、また凶悪化している。

これらもまた、経営層の「限度」「限界」意識の欠如と、
それに伴うシステムや人の定格値超え・破綻・崩壊が、
重大な原因の一つとなっているのだろう。
そしてそれは、社会問題化している。

経営者であれ、株主であれ、
短絡的・近視眼的な利益・利権の追求に拘泥せず、
企業の社会的責任(CSR)、WIN-WIN、
及び定格値といった概念を、理解、また重視し、
長期継続的・共生的な利益を志向するべき、と考える。

そしてまた、そういった志向が主流になることが、おそらく、
組織による殺人や準殺人を予防・最小化し、
また、人間を幸福にする経済を実現する素地を作り出すんだろう、と思う。


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愛が足りない

2005-04-29 10:51:25 | 戯れ言
いま、愛知で愛・地球博が開催されている。
「自然の叡智」をテーマに、地球環境や国際交流等、
地球全体を視野に入れた、これまでとは一味違う万博を目指すとか。

とは言いつつ、最新技術の展示も、抜かりなく行っているようだ。
環境技術はもちろん、各種最新技術目白押しである。

様々な万博情報から、作り手側の熱意は、伝わってくる。
内容的にも、非常に興味深い。


ところが、この万博の入場者数が、今一つ伸び悩んでいるらしい。
開催当初は予想入場者数を下回り、
最近ようやく、予想数が来るようになったとか。


理由は、ほぼ明白だと思う。
全般に、高価な印象を、拭えないのである。


首都圏の人間にとって、名古屋は遠い。

電車であれ、クルマであれ、
手軽に日帰りを考えられる距離は、片道150kmが限界、といったところだろう。
関西圏からであれば、この範囲に入るが、
首都圏からでは、この範囲に入らない。

なら新幹線を使えばいいじゃないか、という考え方もあるが、
これが片道約1万円(往復約2万円)
到底、手軽とは言えない金額である。


そこへきて、入場料、4,600円(大人)也
普段テーマパークの類に行かない身には、とても高価に感じる。
しかも、これが「一日」入場券である。
1泊2日で会場をまわろうと考えた場合、9,200円も取られることになる。

しかも、(手製弁当以外は、)飲食物持ち込み禁止。
(当然ながら、万博内の飲食物は、万博価格だろう。)
これでは、食費を浮かすこともままならない。


ツアーを使おうとすると、バスツアーで15,000円から。
しかも、15,000円だと、(車中泊含む)バスでの往復移動と、一日入場のみ。
まともに1泊2日しようとすれば、万博1日で2万円から、万博2日だともっとかかる。

2万円あれば国内ツアー、3万円あれば海外ツアーに、それぞれ行くことができる。
そう考えると、割高感は高い。
(大阪万博の頃とは、経済状況や、お金の使い途の選択肢の多様性が異なる。)

それ以前にそもそも、
旅行に行くくらいの覚悟を決めないと、万博に行けない、というのは、
どうにも、手軽でない。


経済的勝ち組であれば、この程度のコストは何でもないのかもしれないが、
経済的負け組には、このコストは、とても高価に感じるのではないだろうか。
まして、家族で行こう、なんて事を考えたら…。

これでは、首都圏2,700万人向けの集客力という意味では、
(少なくとも筑波万博に比べて、)はるかに低い。


本気で首都圏その他、各地から来てもらおうと考えるのであれば、
もっと、工夫が必要なのではないだろうか。

例えば、入場券価格を3,000円未満に抑える(或いは、4,600円で2日入れるようにする)とか、
高速道路チケットや新幹線乗車券と入場券をセットにして格安販売するとか、
飲食物持ち込みを認めるとか、まだまだ、できることはあるはずである。


万博は、単なるテーマパークではない。
(社会的意義のある)メッセージの発信に、その意義がある。

全く採算が合わないのも問題だが、
商売・利益追求に拘泥せず、もっと社会的意義を重視すべき、と考える。


志は立派なのに…愛が足りない…愛を。愛をもっと…。


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世界戦略

2005-04-17 10:06:01 | 戯れ言
いま、憲法改正が盛んに言われていて、
特に9条(戦争の放棄)については、熱い議論が交わされている。

アメリカべったりではなく、独自軍を持つべきだ、
或いはもっとアジアに目を向けるべきだ、という論も、
ちらほらと出てきている。

だが、これらの議論には、ちょっと疑問を感じている。
なぜなら、世界という全体像の中での日本の戦略がなおざりのまま、
アジアやら9条やら、各論を論じているからである。

そもそも、先ず全体戦略を考えてから、各論を詰めるものではないだろうか。


自身としては、地球連邦を究極の目標とした、
平和外交と、殖産興業ノウハウや産業の輸出を
主軸とする戦略が、最良と考える。

そこから逆算される当面の各論は、次のようになる。


外交同盟戦略としては、イギリスとの同盟を基軸とした、
多元重層的な同盟戦略を組むことが、良いと考える。

まず、アメリカとアジアの間に立つ島国日本は、
アメリカと欧州との間に立つ島国イギリスと組むべきと考える。

その上で、アメリカ(或いはNAFTA)との三国同盟、
及びロシアとの三国同盟を重層的に組む。
特にロシアについては、産業・経済面の支援を、
日英で協力して行う。

イギリスがEUに加盟しているのと同様、
日本も、東アジア共同体への加盟を目指す。

イギリスは更に、アジア各国(及び東アジア共同体、ASEAN)、
アフリカ各国(及びAU)との友好・同盟外交を目指す。
日本は更に、ヨーロッパ各国(及びEU)、中南米各国(及びメルコスール)、
中東各国、アフリカ各国(及びAU)との友好・同盟外交を目指す。

アメリカであれ、ロシアであれ、EUであれ、東アジア共同体であれ、
独走の兆候があれば、日英一体となって牽制にあたる。
その際、多元重層的に組んだ同盟ルートを駆使し、
多くの国々の賛同を得る。

また、多元重層的に組んだ同盟・友好ルートを駆使し、
各地域の地域連邦化や、地球連邦の実現についての議論・流れを促進する。
国連については、地球連邦の予備組織として、
公平公正・中立・民主的な組織へと変革していく流れを、
やはり日英を中心として進めていく。

世界諸地域(特に貧困地域)の殖産興業についても、
この多元重層的な同盟・友好ルートを通じ、取り組む。
殖産興業ノウハウについては、
明治期や戦後復興期のノウハウを研究し、用いる。
なお、この場合、はじめから環境対応型経済を志向するものとする。
(そうしないと、地球温暖化等が深刻化する。)


当面の軍事同盟戦略については、アメリカべったりではない、
多元で緩やかな同盟を組む。
組む相手としては、米英豪のほか、ロシア、中国、ASEAN、等々。
同盟を組んだ相手同士が戦争になった場合には、
中立的立場をとる、という規定を設ける。

軍の規模については、米中のパワーバランスを基軸に、
ロシアやASEANからの支援も期待できるので、
現在より予算・規模とも小さくできるものと考える。

憲法9条については、
自衛及び災害等の復興支援のための軍は持つが、
戦争放棄は継続するものとする。

いずれ東アジア共同体が成立すれば、
米国とアジアのパワーバランスが基軸になるものと考える。
この段階では、東アジア共同体の軍事的自立を一つの目標とし、
駐留米軍は(コスト面から)抜本的削減を依頼する。
同盟の象徴としての駐留は、続けてもらう。

復興支援等については、自ら率先して支援部隊を出すことはもちろんのこと、
対象国の友好・敵対状況を勘案し、
日英で同盟・友好ルートを駆使し、適任国に依頼を出す。

究極的には、国連本部をヒロシマかナガサキに誘致し、
常設国連軍を開設してもらい、
そこに国防や復興支援等を委託することを理想とする。
(これが成立するのであれば、自衛軍は不要となる。
自衛軍に使っていたコストは、国連へと支払う。)
成立した場合、他の国へも、国連への国防業務委託を行うよう、
外交ルートを通じ、働きかける。
(究極的に、全ての国が業務委託するようになれば、
理論上、戦争はなくなるはずである。
世界の警察を標榜するアメリカには、
ぜひこの構想に率先して参加してもらいたいものである。)


以上、世界戦略というものを、ざっと考えてみた。

百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。
戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。

上兵は謀を伐つ。


戦わずに済む方法を、よくよく、考えてもらえれば、と思う。
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竹島

2005-04-10 08:56:10 | 戯れ言
いま、いくつかの岩礁と、そのまわりのいくばくかの経済水域を巡って、
日韓関係が、ギクシャクしている。

特に韓国側の反応が、際立っている。
戦後軍政による教育の悪影響なのか、国際的に未解決の案件を、
一方的な主張・考え方のみに基づいて、一方的にヒートアップしているようだ。

ごく一部、実際に生活上の不利を生じている人もいるのかもしれないが…
…正直、くだらないと思う。
たかだか岩礁ひとつで、折角の日韓友好ムードに
水をさしてしまうのは、どうだろうか、と考える。


ちょっと想像してみて欲しい。
もし、我々がアジア国に住むアジア人だとすれば、
つまり、こういうことになるのではないだろうか。

-----
 竹島は、アジア国の領土である。
 尖閣諸島は、アジア国の領土である。
 沖ノ鳥島は、アジア国の領土である。
 北朝鮮は、アジア国の領土である。
 台湾は、アジア国の領土である。
 
 東シナ海ガス田は、アジア国の資源である。
 
 東京都民は、アジア国民である。
 ソウル市民は、アジア国民である。
 平壌市民は、アジア国民である。
 北京市民は、アジア国民である。
 台北市民は、アジア国民である。
 
 アジア国民は、アジア語を用いる。
 アジア国の通貨単位は、「縁」である。
-----
(ちなみに、アジア語と地球語を共通化させると、いろいろ便利だと思う。)

こうなったときに、ソウル市民が盛んに
「竹島はアジア国の領土である」と叫んでみたところで、
それは、平和で呑気な話にしかならないはずである。


そもそも国家とは、人間が勝手に定義して、はじめたものであるし、
民族・文化も、所詮、人の営みのなかで、徐々に構成されてきたものであるし、
国境は、人間が地球上に勝手に線を引っ張っているだけのものである。
その程度のものに、何故殊更にこだわる必要があるのだろうか。

人類文明は、技術的にも知性的にも、ここ2世紀くらいで、急速に発展・向上した。
飛行機を使えば世界中の主要都市に1~2日で到達できるし、
電話やインターネットを使えば、地球の裏側の人々との
リアルタイムに近いコミュニケーションですら、ごく容易に可能である。
技術的にも知性的にも、地域連邦や地球連邦を実現するだけの素地は、出来上がっている。

その状況下、現在の国家・民族の枠組みをやたらと重視し、殊更に違いを言い立て、
国境を殊更にクローズアップし、小競り合いを行う、というのは、
共生の世紀・共生の発想と乖離した、旧世紀的な古臭いやり方だと思う。
むしろ今、東アジア共同体を進めるべき段階に来ているというのに…。


東アジア共同体を進めるにあたっては、
民族やら文化やら、殊更に違いを言い立てるのではなく、
逆に、文化であれ言語であれ通貨であれ何であれ、
共通性を発見したり、共通項を増やす努力が必要である。

現状であっても、例えば箸文化やらご飯文化やら仏教文化やらは、
日中台韓朝での共通項のはずである。

元々それぞれ、中国大陸を中心とした東アジア文化圏に属するわけで。
探せば、もっといろいろあるはず。

どうせ頑張るなら、できれば、そっち方向で頑張って欲しいものである。

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格差社会

2005-04-03 23:58:06 | 戯れ言
NHKの「日本の、これから」という番組を見た。

テーマは「格差社会」。
社会が、富裕層と貧困層に二分化されてきている、とのこと。


見ていて思ったのは、
つまり、各種規制の多い行政と、
終身安定雇用が前提で、職業教育から社会保障まで面倒見ていた企業
(企業コミュニティとも言えるだろう)が、
日本の戦後成長期を構成していたシステムなんだなあ、と。

で、それがいま、音をたてて崩壊している、と。


これからの社会は、規制は緩和されていくんだろうし、
経済規模も、安定的な右肩上がり成長ではなくなっていくものと思う。
従って、企業の業績や規模も不安定になり、終身雇用でもなくなってくるんだろう。
そんな時代に、企業が職業教育やら社会保障やらを放棄したがるのは、
自然な流れかもしれない。
また、それが結局、フリーターや契約社員・派遣社員、
およびニートの増加を招いているんだろう。

そして、その矛盾はいま、個人・家庭に押し付けられている。
この状況が長引けば、親の経済力による教育機会の不平等により、
格差が固定化される、とか。


今後は、これらの機能(少なくとも財源)を、
行政側が受け持つ必要があるんだと思う。

具体的には、高等教育の無料化(或いはバウチャー制とか)、
教育セクターでの(生涯教育含め)職業教育の拡充、
社会保障制度の一元化(財源は税金にした方が良いかも)、
セーフティーネット(低所得者への資金援助・生活保障)、
等々を、(企業ではなく)行政側で準備する。

その分、例えば法人税・所得税の増税(特に累進課税)、
外形標準課税制度の導入、消費税への累進課税の導入、等々、
今まで企業が個人にかけていたコストは、
税金で一旦徴収し、行政が個人にサービスする。


長い目でみれば、将来、
フリーターや契約社員・派遣社員で賄えるような仕事は、
機械に取って代わられるんだと思う。

現時点でも、自動販売機、自動改札、自動食器洗い機、等々。
警備ロボや軍事ロボなんてのも開発されたとか。
地球博では、無人運転ガイドロボ、掃除ロボ
エンターテイナーロボ、タクシーロボ、等々。
工場のオートメーション化は、言うに及ばず。

コンビニやファーストフードなども、機械化しやすそうな気がする。
作業の機械化によって、労働者枠は今後、確実に減少していくだろう。

そうなれば、そもそも、労働対価による所得分配システムが
機能不全に陥ることは、明白である。

従って、長期的には、
行政による「所得分配システム」を確立する必要がある、と考える。


(経済的)勝ち組が、広い邸宅や高級マンションに住み、いくつも別荘を持ち、
高級車やら自家用クルーザーやら自家用ジェットやらを何台も所有し、
高級ブランド品を買い漁り、高級グルメを堪能する等、
優雅で贅沢な生活をすることに、何ら異論は無い。

ただ、どんな(経済的)負け組でも、2LDKか3DKくらいのアパートに住み、
リッターカーくらいは何とか新車で買えて、
特に衣食住に困ることもなく、たまに家族でファミレスで食事を楽しめる程度には、
所得を持っていられるようにしなければいけないと思う。


それは、「小さな成功が、保証されている社会」とも言える。

大きな成功を掴み取れる人数は、限られている。
みんなが幸せになるためには、少なくとも、
小さな成功を、人数分、用意しなければならないと思う。
そして、そのためには、大きな成功者は、
かなりの供出を甘受しなければ、ならないんだと思う。


勝ち組と負け組で構成される世の中ではなく、
大きな成功者と小さな成功者で構成される世の中の方が、
幸福感の総和は、はるかに大きくなると思う。

それぞれが一方的な利害主張をするのではなく、
大きな成功者と小さな成功者をうまく両立させるような、
ちょうどいいバランス点を探すことが、必要なんだろうなあ、と思う。

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酔狂、事始

2005-04-01 22:24:50 | 戯れ言
ふと気づいてみれば、三十路。

本人としては、あまり大人になった気がしないのだが…
…時の流れというものは、酷である。

まあ、それでも、年の功なのか、
いろいろ考える力は、いつの間にか、備わっていた。

ふと、世の中を見渡せば、あまり良い状況ではないように見える。
この暗雲ぶりに気づくようになったのも、年の功なんだろうか…。


今日から時々、いろいろ思ったこと・考えたことを、
ここに書き記してみようと思う。

それが微かでも、世の中をまともな方向に
向かわせることになれば、と願いつつ。

今日は、エイプリルフール。
酔狂を始めるには、ちょうど良さそうか…。

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