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あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である

あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である
(ルカによる福音書9章48節)

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カバーヴァージョン

歌人の俵万智さんは、大学生のとき、与謝野晶子の『みだれ髪』を読んだときのことを「あとがき」で次のように振り返っている。

「出版された明治三十四年当時は、文壇、歌壇に衝撃を与えただけでなく、若い人たちが熱狂したらしい。だったら今の私でも、注釈なしでスラスラ読めるだろう、と思った。多少言葉は古めかしいだろうけど、いちおう私も大学の文学部(しかも日本文学科)の学生だもんね・・・・・。が、その甘い予想は大きくはずれた。正直言って、半分も意味がわからない」(p.153-154)

僕も原文にチャレンジして挫折したので、これを読んで少しホッとした。

さらに俵さんは、以下のように語っている。

「上巻を読んだ友人からは「これは『みだれ髪』のカバーヴァージョンね」という感想をもらった。音楽の世界では、名曲が、新たなアレンジでよみがえるということが、珍しくない。普遍的な魅力を持つ曲ほど、時代とともに繰り返しアレンジされ、色あせることがない」(p.171)

たしかに、カバーを聞いて原曲が聞きたくなることもある。俵さんのカバーによって、与謝野晶子の世界に触れることができたのは幸いであった。

出所:俵万智『みだれ髪 チョコレート語訳』河出文庫

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『みだれ髪 チョコレート語訳』(読書メモ)

俵万智『みだれ髪 チョコレート語訳』河出文庫

与謝野晶子の『みだれ髪』を読もうとしたがよくわからないので、俵万智さんのチョコレート語訳を買ってみた。

ご存知のとおり、与謝野鉄幹と不倫関係にあった晶子の歌集である。

インパクトがあったのは、次の歌。

世間体道徳来世関係ないここにいるのは恋する二人」(p.136)
この恋が消えてたまるか歌よみの一時の夢となってたまるか」(p.137)

自分の恋に対する気迫が伝わってくる歌である。

しかし、意外だったのは、「神」や「聖書」が出てくる歌もあるということ。

神にそむき再会をせり別れてももうこわくないまた逢えるから」(p.87)
ありがたい神の言葉も聞き流すだって私は恋の真夜中」(p.104)

たぶん晶子は、罪の意識を感じつつ鉄幹とつきあっていたのだろう。

「あとがき」によれば、晶子は生涯のあいだ鉄幹を「」していたという。

本書を読んで、晶子の「真っ直ぐさ」に感動した。


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神に依り頼めば恐れはありません

神に依り頼めば恐れはありません
(詩編56章5節)

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芸術と入神

魯山人のエッセイが面白かったのでもう一つだけ紹介したい。本物の芸術家とはどのような人かという箇所である。魯山人は、帝展(帝国美術博覧会)を見た感想を次のように語っている。

「今年の出品を見てもただちに感ずることは、技巧的情熱が横溢していることである。涙がこぼれるくらいだ。しかし、技巧に熱があっても肝心な内容に熱がない。だから二度見三度見するとだんだんつまらないものになる」(p.170)

技術がいくら優れていても芸術とはいえない、という。では、芸術家とは何なのか?

「実のところ別に芸術という職業があるわけではない。要は作品の出来栄えが神に入るにおよんで初めて芸術的価値を生じ、しかして入神の作家なる者を芸術家と称するのである。畢竟、個性の発揮も入神して初めて躍動するものである。故に絵を描くから、音楽をやるから、文学だからといって芸術家と称するのは誤りである」(p.170)

個性が神と一体となってはじめて芸術になるという考え方だ。芸術にかぎらず、あらゆる領域において、技術は優れているが、魂がこもっていないものがあるように思った。個性が神に入るとき、そこに魂が吹き込まれるのだろう。

出所:北大路魯山人『北大路魯山人の真髄』河出文庫
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日本の美

魯山人は、「いけばな(生花)」についても鋭い解説をしている。

「花は足で生けるとは、いつの昔、誰がいったか、実にうまいことをいったものである。(中略)足で山野に花をあされというのである。生花をするほどの者は、絶えずこの心を唯一の金科玉条としなくてはならぬ。(中略)花を生けて楽しむことは、自然を愛することだ」(p.64-65)

生花の本質とは、自然を切り取り、部屋の中に再現することなのだから、花屋で花を買うのではなく、自ら山や野に出かけて花を見つけて来い、ということだ。何事も「素材」が勝負であるが、その素材を自らの足で見つけてくることは重要である。

「昔、利休が豊公を招いて朝顔を見せた際、豊公の望んだ利休の庭の垣根の朝顔は一輪もなくて、招じ入れられた部屋にたった一輪咲かせてあったと伝えられる。(中略)この話は、ややもすると半可通からしばしば否議されるところとなるが、それは取るに足らぬものであって、芸術を知るものからいっては、やはり利休はえらいといわなくてはならぬ」(p.69)

まさに「省略の美」である。

「要するに、生花は足で生けよという心と、省略という工夫が肝要となる二大要素だと思って貰いたい」(p.69)

これなどは、日本料理にも通ずるのではないだろうか。

魯山人のエッセイを通して、「日本の美」について考えさせられた。

出所:北大路魯山人『北大路魯山人の真髄』河出文庫
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わたしは弱いときにこそ強いからです

わたしは弱いときにこそ強いからです
(コリントの使徒への手紙供12章10節)

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『北大路魯山人の真髄』(読書メモ)

北大路魯山人『北大路魯山人の真髄』河出文庫

書道、陶芸、料理等、多方面にわたって活躍した魯山人のエッセイ集である。

評判どおり、思ったことをズバズバ書くだけでなく、気に食わない人は「これでもか」というくらいコテンパンにやっつけてしまう魯山人。

本書には「料理」「陶芸」「茶・花・書」「絵画・民芸・建築」に関する評論が収められているが、どれも本質をついたものであり、迫力がある。

その中でも、やはり魯山人の本業(?)でもある「書」に関するエッセイが印象に残った。

「およそ、ものは、ものが解ったからとて、必ずしも出来るものとはかぎらないが、たとえ出来ないまでも、解るものは、解っておくべきが本当であって、その方がいつまでも解らずじまいに、盲目的行動を不安に続け、その日暮しをやっているに較ぶれば、どんなにかましであろうと考えられるのである。

解ることと出来ることはまったく別のようであるが、得心のゆくまで理解すれば、自己にとって脅かされるようなことがなく、人前に頭をかき、書道の前にむやみ遠慮しなければおられぬようなことは消滅するだろう」(p.102-103)

この点は、書道だけにとどまらず、あらゆる道においても真実であるように思った。

われわれはどうしても、なんとなくわかっている「暗黙知」の状態にとどまりがちであるが、ちゃんと他者に伝えることができる「形式知」にまで、自身の理解を消化(昇華)しておかねばならない。その方が、自分が追求している道が深まるのではないだろうか。

本書は、まさに芸術の真髄を、言葉で表したものであるといえるだろう。




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大きなハードルと小さなハードル

ふたたび、佐藤康志の『大きなハードルと小さなハードル』(河出文庫)から。

表題の短編は、重度のアルコール依存症となった主人公・秀雄と、その家族(妻と娘)の物語である。

私小説的といわれているだけあって、主人公の気持ちがリアルに伝わってくる。

「あの夕方、光恵と陽子が居なかったのは幸いだった。秀雄はいつもどおり朝から、酒を飲んでいた。いつからそんな習慣がついたのかわからない。酒の中に逃げている、と医者はいった。正しい。医者は正しいことだけを口にした。だがそれだけだ。秀雄は家の中でただひたすら酒を飲み、彼の外側にあるありとあらゆるものに対して悪態をつき、それがしだいに凶暴な力となって暗く盛りあがるのを感じた」(p.92)

悩み、悲しみ、怒りが強くなると、どうしても酒に頼りたくなる。その誘惑とどう戦い、どう折り合いをつけるかが問題だ。

「池を崩している陽子を見ながら、彼は憎しみでも怒りでも何でもいい、身体に満ちることを願った。そしてあらためて視えないものでも、聴こえないものでも全部あらわれるがいい、と思った。俺の前に立ちふさがるがいい、すべて視、すべて聴いてやろう。大きなハードルも小さなハードルも、次々と跳び越えてみせる」(p.108)

やはり「大きなハードル、小さなハードル」という言葉が心に残った。人生というものは、大きなハードルや小さなハードルを跳び越えたり、ひっかかったり、跳び越えられなかったりしながら過ぎていくものだ。

跳び越えられなければ、くぐればいいし、別のハードルに向えばいい。この小説を読んで、そんなことを感じた。

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若いときの恥を忘れよ

若いときの恥を忘れよ
(イザヤ書54章4節)


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