goo

少しだけ無理をしてみる

『少しだけ、無理をして生きる』(新潮社)の中で、城山三郎さんは、次のように語っている。

少しだけ無理をしてみる―これは作家に限らず、あらゆる仕事に通用するテーゼじゃないでしょうか。自分を壊すほどの激しい無理をするのではなく、少しだけ無理をして生きることで、やがて大きな実りをもたらしてくれる。知らず知らずのうちに、元の自分では考えられないほど、遠くまで行けるかもしれない。自分の世界が思わぬ広がりと深みを持てるかもしれない。仕事のみならず、人生全般についても言えることかもしれません」(p.86-87)

熟達研究においても、「適度な難易度の課題に取り組む」ことが重要であるとされているが、「少しだけ無理をする」という言い方がいい。

たぶん、「少しだけ無理をし続ける」ことが大事なのだろう。気が付いたら「こんなところまで来ていた」と思えるようになりたいと感じた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『少しだけ、無理をして生きる』(読書メモ)

城山三郎『少しだけ、無理をして生きる』新潮文庫

今まで読んだ城山さんのエッセイはやや硬かったが、本書はとても迫力があった。たぶん、講演録を基にしているからだろう。

本書では、渋沢栄一、広田弘毅、浜口雄幸、田中正造の生きざまについて語られているのだが、心打たれる話ばかりである。

中でも印象深かったのは、『落日燃ゆ』で描かれた元総理大臣・広田弘毅の章。東京裁判で戦犯となり死刑になった人だ。

「ほとんどの人が広田さんは無罪になるだろうと見ていたのに、判決は死刑でした。キーナン首席検事までが、「何という莫迦げた判決か」と言っているくらいです。みんな懸命になって偽証もしよう、保身を図ろうという証言台にすら立たないのだから、死刑を覚悟していたとしか思えない。でも、広田さんは自分が死刑になることで天皇をかばおうとした。そうすることで、いわば戦後日本の出発を、一身に引き受けようとしていた」(p.115-116)

保身に走る政治家が多いなかで、日本のために死んだ広田さんの中に真の政治家の姿を見た。

『落日燃ゆ』は読んでいないので、さっそく買おうと思った。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人は力によって勝つのではない

人は力によって勝つのではない
(サムエル記上2章9節)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

リフレクション手段としての坐禅

ふたたび横尾さんの本から。

松原哲明老師との対話の中で、横尾さんは次のように語っている。

「松原:横尾さんの場合は今のところ坐禅を選んでらっしゃるわけだけれど、坐禅をする前とした後でいちばん感じることは何ですか。

横尾:それまでは自分が欲望を持ちすぎていたということですね。自分が自分がっていう第一人称が先に立って、相手の尊敬や人格を無視して、自分の損得を考えていた。そのためにそれが満たされないと腹が立つ。そこに気がついてきたんですね。」

この体験があれば、たとえ悟ることができなくとも、坐禅の意味があるように思う。

坐禅は優れたリフレクションの手段であると感じた。

出所:横尾忠則『坐禅は心の安楽死:ぼくの坐禅修行記』平凡社
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『坐禅は心の安楽死:ぼくの坐禅修行記』(読書メモ)

横尾忠則『坐禅は心の安楽死:ぼくの坐禅修行記』平凡社

アーティストの横尾忠則
さんは、30代の頃(今から40年ほど前)、1年間坐禅修行を行っていたころがあった(今はやっていないらしい)。その体験記が本書である。

まず驚かされるのはお寺の坐禅修行は軍隊のように厳しいということ。僕などは、絶対に参加したくないと思ってしまった。

ただし、本書はとても楽しく読める体験記であると同時に、哲学書でもあるということだ。横尾さんの思考の深さに驚いた。

この本のキーワードは、竜泉寺住職の井上義衍老師の「人間は本来悟っている存在」という言葉であろう。横尾さんはいう。

「悟りとはゴムマリに針のような小さな穴をあけて、ゴムマリの内側をつまんでひょいと内側をそのまま外側にしてしまうようなものかもしれない。これと同じように人間のどこか一カ所に針の穴をあけて、そこから中身をつまみだして、裏返せばいいのだ。その針の役目をするのが坐禅であろう。すでにわれわれの中身は悟っているのだ。ところが知識や、教養や、自分勝手な経験にたよったり、情報によって観念に支配されており、いつの間にか内側に通ずる皮膚の表面が鰐の背のように硬くなってしまっている。容易に穴があくものではない」(p.167-168)

人間は生まれたときには宇宙や神様とつながっているが、大きくなるにつれて、その感覚が失われてしまう。それを思い出すのが坐禅であるという。

個人的に響いた言葉は、永平寺東京別院の田中真海師が言われた「宇宙とぶっ続きの坐禅」。

本来、宇宙とぶっ続きであるはずなのに、それを邪魔している執着・欲望・こだわりがある。それを取り除くのが坐禅である。

宗教によって異なるが、坐禅の機能を果たすのが「祈り」なのかもしれない、と思った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

わたしたちは、神にはありのままに知られています

わたしたちは、神にはありのままに知られています
(コリントの信徒への手紙Ⅱ・11章)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

男女平等

スウェーデンは、男女平等意識の高い国で有名であるが、完全に平等ではないようだ。

三瓶さんの本によれば、スウェーデンの男女の家事分担率は次の通り。

1990年 女性62% 男性38%
2000年 女性60% 男性40%
2010年 女性56% 男性44%


やはり女性の負担が高いのだ。ただし、徐々に男性の家事分担率が高くなっているのはさすがである。

自分も含めて、日本の男女平等の意識を高める必要があると感じた。

出所:三瓶恵子『人を見捨てない国、スウェーデン』岩波ジュニア文庫
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『人を見捨てない国、スウェーデン』(読書メモ)

三瓶恵子『人を見捨てない国、スウェーデン』岩波ジュニア文庫

なんとなく福祉が充実している国というイメージしかもっていなかったが、本書を読んでスウェーデンの基本思想が理解できた。

著者は、現地の人と結婚して、長年スウェーデンに住んでいる三瓶さん。

本のタイトルにもあるように、スウェーデンでは福祉が充実していて、人を見捨てることはないという。ただし、条件がある。それは、ひとり一人が自立していること。

「自立とはなんでしょう?他からの支配や助力を受けずに、存在することです。言い換えれば、自分で自分の生活、生き方を決められることです。そのために大切なのは経済的自立です。(中略)税金と年金が一緒になっているので、ちゃんと働かないと年をとったときに支給される年金が少なくなってしまい、豊かな老後が過ごせなくなる、という仕組みをスウェーデンの若者は早いうちから理解しています」(p.4-5)

つまり、しっかり働いて税金を納めている限り、見捨てられることはない。

ちなみに、スウェーデンの所得税率は28~62%(日本は5~40%)、消費税は25%であるらしい。それでも、スウェーデン人は、減税のために福祉水準が下がるようり、福祉水準を保つために増税するほうがよいと考えるという。

なぜか?

「高い税金を支払っても、子育て支援制度をはじめ教育、年金、医療、高齢者福祉などのところで、きちんとした見返りが目に見えるので、納得した上で税金を納めています。言い換えればスウェーデンの人は老後やもしものときに備えて「国に貯金している」わけです」(p.91)

「国に貯金している」というところを読んで、なるほどと思った。

日本の場合には、貯金していると思ってもお金が戻ってこない危険性がある、と感じた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

どうか今、あなたの道をお示しください

どうか今、あなたの道をお示しください
(出エジプト記33章13節)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

死の接近

老年になると気になるのは「死」である。キケローはいう。

「わしらの年齢を最も苦しめ不安なものにしているように見える第四の理由が残っている。死の接近だ。(中略)死というものは、もし魂をすっかり消滅させるものならば無視してよいし、魂が永遠にあり続ける所へと導いてくれるものならば、待ち望みさえすべきだ。第三の道は見つけようがないのだ」(p.63-64)

とてもシンプルな考え方である。

このような考え方で生きていきたい、と思った。

出所:キケロー(中務哲郎訳)『老年について』岩波文庫
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ