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精神、物体、神

「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」という真理を、哲学の第一原理として定めたデカルトは、次のように述べている。

「ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。これらのことからわたしは、次のことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と」(p.47)

たしかにその通りである。

どんな状況にあっても、考えている限り、人間は人間として存在する。

次に強調されているのは神の存在である。

「自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのかを探求しようと思った。そしてそれは、現実にわたしより完全なある本性から学んだにちがいない、と明証的に知った。(中略)その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている、つまり一言でいえば神である本性だ」(p.48-49)

精神と物体の二元論を打ち立てたデカルトだが、同時に神をその根本に置いている点はあまり知られていないように思った。

出所:デカルト(谷川多佳子訳)『方法序説』(岩波文庫)


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『方法序説』(読書メモ)

デカルト(谷川多佳子訳)『方法序説』岩波文庫

「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」(p.46)で有名な哲学者デカルト。

本書を読んで驚いたのは、哲学に限らず数学や医学といった自然科学も研究していた幅の広さ。

そして感銘を受けたのは、学問に対する真摯さである。

「自分の発見したことがどんなにささやかでも、すべてを忠実に公衆に伝え、すぐれた精神の持ち主がさらに先に進むように促すことだ。(中略)先の者が到達した地点から後の者が始め、こうして多くの人の生涯と業績を合わせて、われわれ全体で、各人が別々になしうるよりもはるかに遠くまで進むことができるようにするのである」(p.83-84)

自分という存在だけでなく、世代を超えた他者との協働も意識している点が素晴らしい。

「今までわたしが学んだわずかばかりのことは、わたしのまだ知らないことに比べればほとんど無に等しい、しかもわたしはまだ学びうるという希望を捨てていない、このことを知っていただきたいと思う」(p.88)

たとえ自分の貢献がわずかなものであっても、そこには意味があるし、少しでも先に進むことができると信じているデカルト。このとき41歳である。

本書を読み、仕事に対する姿勢を学んだ。
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人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい

人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい
(ルカによる福音書6章31節)

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夫婦の絆、親子の絆

堀辰雄の『風立ちぬ』(ハルキ文庫)では、主人公が婚約者・節子との愛の生活を送るために八ヶ岳のサナトリウムで暮す。

しかし、節子の最後の時、思わぬ本音を聞いてしまう。

「お前、家へ帰りたいのだろう?」
(中略)
ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ
(p.85)

この箇所を読み、なんだかんだ言って、夫婦の絆よりも、親子の絆の方が強いのかな、と思ってしまった。
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『風立ちぬ』(読書メモ)

堀辰雄『風立ちぬ』ハルキ文庫

肺病の彼女につきそい、八ヶ岳のサナトリウムで暮らす主人公。堀辰雄の実体験に基づくリアルな作品である。

どこか自己中心的な理想の愛を求める前半より、彼女が亡くなった後に、一人山で暮らす後半の記述がすばらしい。

「そうしてはあはあと息を切らしながら、おもわずヴェランダの床板に腰を下ろしていると、そのとき不意とそんなむしゃくしゃした私に寄り添ってくるお前が感じられた。が、私はそれにも知らん顔をして、ぼんやりと頬杖をついていた。そのくせ、そういうお前をこれまでになく生き生きと―まるでお前の手が私の肩にさわってはいましまいかと思われるくらい、生き生きと感じながら……」(p.97)

病から死、そして再生の物語を堪能した。
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心に隠していることを神は必ず知られます

心に隠していることを神は必ず知られます
(詩編44章22節)


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人間の両面性

『シェイクスピア』の著者、河合祥一郎氏によれば、「賢い阿呆」や「無知の知」といった矛盾した表現を「オクシロモン」と呼ぶらしい。「オクシ」は「賢い」、「モロン」は「愚か」を意味するギリシャ語とのこと((p.135)

このオクシロモンがシェイクスピア劇には多用される。

例えば、「きれいは汚い、汚いはきれい。」(マクベス第1幕第一場)

なぜか?

「これは『マクベス』の冒頭で魔女たちが繰り返すせりふだ。すばらしいと思えることでも、見方を変えてみると道徳的に忌まわしいところがあったり、こうだと認識されるものが実はまったく違った実体をもっていたりするというこの劇のテーマに深く関わっている」(p.136)

この箇所を読み、たしかに人間世界には、見方を変えると良く見えたり悪く見えたりするものがあることに気づいた。シェイクスピアは、そうした人間が持つ両面性を演劇を通して伝えたかったのかもしれない。

出所:河合祥一郎『シェイクスピア』(中公新書)
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口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである

口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである
(マタイによる福音書15章11節)

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『シェイクスピア:人生劇場の達人』(読書メモ)

河合祥一郎『シェイクスピア:人生劇場の達人』中公新書

シェイクスピアの生い立ちや、当時の時代背景、作品に流れる哲学を解説した書である。

特に、「シェイクスピアの哲学」を解説した第7章が心に残った。

著者の河合氏いわく、シェイクスピアが重視したのは「心の目(マインズ・アイ)」である。

「ハムレット 父上―父上が目に見えるようだ。
 ホレイシオ どこにですか、殿下。
 ハムレット 心の目にだよ、ホレイシオ。  (第一幕第二場)」
 (p.194)

誰とでも共有できる客観的事実に対し、その人にとってのみ意味を持つのが主観的事実だ。この主観的事実を見るために必要なものが「心の目」である。そして、この心の目でしか見えないものを見せてくれるのが「演劇」であるという。

本書の最後の言葉が沁みた。

「さまざまな人々の生きざまを描いてきたシェイクスピアだが、最後に到達したのは「信じる力」の大切さだった。信じる力 ― それは演劇の本要素であるのみならず、私たちの人生を支える力だ。人は常に明日を信じて生きる」(p.232)

見えないものを信じることが、人生を豊かにするということだろうか。今まで読んだ何冊かのシェイクスピア作品を、改めて読み返したいと思った。




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唇を制すれば成功する

唇を制すれば成功する
(箴言10章19節)

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