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わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば

わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい
(ヨハネによる福音書8章54節)


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自分は何者であるのか?

『おかしな男 渥美清』(ちくま文庫)の中から。

著者の小林信彦氏のところに、渥美清さんから電話があった。そのときのやり取りが以下の通り。

「その時、ぼくは、あなた方コメディアンは・・・・・という言い方をした。
電話の向う側に、暗い沈黙があった。
間を置いて、
おれは自分をコメディアンだと思っていないんだよ
(中略)
じゃ、何なんだ、と言い返したかった。
役者だと思っているんだ、自分では
あ、そうか、とすぐにわかった。
Comedianというのはぼくにとって最上級の誉め言葉なのだが、渥美清にとってはそうではないらしい。カタカナのコメディアンは彼にとって蔑称なのである。」(p.124-125)

芸人ではなく、役者。そう思われたかった渥美さん。

自分のアイデンティティをどこに求めるかは本人次第である。だから、周りがとやかく言う筋合いはない。しかし、この箇所を読んで、なんとなく寂しい気がした

改めて「自分は何者であるのか?」について考えさせられた。


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『おかしな男 渥美清』(読書メモ)

小林信彦『おかしな男 渥美清』ちくま文庫

以前、色川武大さんが『なつかしい芸人たち』の中で渥美清さんに触れて次のように述べていた。

「しかし、私も、彼が今日のような大きな存在になるとは少しも思わなかった。むしろマイナーの中の光った存在になってくれ、と願っていたのだった」

これを読み、僕は「もしかしたら渥美さんも、そうした道を歩みたかったのかもしれない」と書いた。

しかし、本書を読んで、それが大きな間違いであることがわかった。

著者の小林さんは、若いころから渥美さんと交流がある作家・編集者。この本を読むと、おもいっきりリアルな渥美清が感じられて、ある意味ショックである。なぜなら、「男はつらいよ」の寅さんとはかなりイメージが違うからである。

渥美さんは、メジャー志向、出世欲があり、個人主義で、猜疑心が強く、他人の評判を気にする人であったようだ。

寅さんと全く違うかというとそうではなく、言うなれば「ブラック寅さん」という感じか。

はじめはギャップが大きいので戸惑ってしまうが、渥美さんの生き方は、それはそれで迫力がある。読み終わって感じることは、「メジャーで生きるのがはたして幸せなことなのだろうか?」ということ。

色川さんが言うように、渥美さんはマイナーの中で光る存在であったほうがよかったのかもしれない、と思った。



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主の御心が行われますように

主の御心が行われますように
(使徒言行録21章14節)


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『日本人と日本人と日本文化』(中公文庫)の中で、司馬遼太郎さんは「禅」に触れている。

「日本人の場合は、いろんな宗教が入ってきたわけですが、日本人にいちばんうまく適合した宗教は、これもほんとうの禅とどれだけ関係があるかどうかは別として、私は禅だと思います。禅は日本人とウマが合ったという感じです。私はいまのアメリカの場合は知りませんが、日本でも直観的なところとか、煩瑣な理屈がないということがひじょうによかったんでしょうね」(p.57)

まえに、横尾忠則さんの『坐禅は心の安楽死:ぼくの坐禅修行記』を読んだときにも、日本人は禅の影響を受けていると感じた。

他力本願のはずの仏教であるが、禅だけは自力でなんとかしようとしているからだ。禅寺のお坊さんのしごきも、戦前の軍隊や体育会部活のしごきととてもよく似ている。

日本には「自分で考えろ!」「つべこべ言わずにやれ!」「屁理屈いうな!」といった風習があるような気がするが、これも禅に影響ではないだろうか。
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『日本人と日本文化』(読書メモ)

司馬遼太郎、ドナルド・キーン『日本人と日本文化』中公文庫

日本の歴史や文化をよく知る司馬遼太郎とドナルド・キーンの対談である。

微妙に異なる二人の見解がぶつかり、新たな発見がもたらされている点が興味深い。

その一つが、仏教・儒教・神道の関係。

儒教が日本文化の基盤となっていると主張するキーンさんに対し、司馬さんは、仏教でも儒教でもなく、神道が日本人のベースにあるという。

「私の結論から言いますと、日本人というのはやっぱり神道ですね。非常に古い形の神道、神道ということばもなかったころの神道というものが、いまだにわれわれのなかにあるのじゃないか。(中略)前に私がお皿という比喩で言いたかったのもこのことなのですが、一つの神道的な空間というものが日本人にあって、その上に仏教がやってきたり、儒教がやってきたりするけれども、神道的な空間だけは揺るがないという感じじゃないでしょうか」(p.203-204)

僕も司馬さんの意見に賛成である。

仏教や儒教は確かにわれわれの中に沁み込んでいるけれども、それが中心かと言われると違うような気がする。何でも受け入れてしまい、自分たちなりに消化する日本人の底には「神道というお皿」がある、という考えがとてもフィットする。

理論化された宗教ではなく、原始的な宗教が日本文化の基盤にあると感じた。



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あなたの命令に従う道を見分けさせてください

あなたの命令に従う道を見分けさせてください
(詩編119章27節)

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女房は家そのもの

蛭子能収さん著『ヘタウマな愛』(新潮社)の中で印象的だったのは、次の箇所。

俺にとって、女房は家そのものだった。
戻るところがあるから、寄り道ができる。
灯りを頼りに、迷わず帰れる。
女房は、そんな存在だった。
」(p.109)

これは、日本のお父さんにかなり共通している心情ではないか(自分も含めて)。

ある意味、奥さんに母親を求めているのかもしれない。

「これでいいのか?」と思う反面、これが日本の文化なのかな、とも感じた。

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自分自身の内に塩を持ちなさい

自分自身の内に塩を持ちなさい
(マルコによる福音書9章50節)

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『ヘタウマな愛』(読書メモ)

蛭子能収『ヘタウマな愛』新潮文庫

愛妻家だった蛭子さんが、自身の生い立ちと、奥さんを亡くす前後を語った書である。

本書を読んで強く感じたのは、蛭子さんの正直さ。文庫版あとがきにて、以下のように語っている。

「私は新しい嫁さんと良い家庭を築く為に、前の嫁さん(つまりお前)のことはこれから一切口に出さないことにする。本当に許してくれ。生きている人が一番大事だと考える私を許してください」(p.147)

この部分だけ読むと、なんて自己中心的な人かと思ってしまうが、本書を通して、蛭子さんと奥さんが一体となって生きてきたことが伝わってきた。次の言葉が印象的である。

「俺は、「人間って、誰かを幸せにしたり、喜ばせるために生まれてくるものだ」と、そう思っている。一番身近な誰かって、結局家族でしょう。女房は、俺を幸せにするために生まれてきた。そして俺は、女房を喜ばせるのが運命だった」(p.51)

少し自分勝手だけれども、一生懸命奥さんを愛してきた蛭子さんに魅力を感じた。


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